やまとことばと原始言語 3・身体の輪郭

がんばって若作りをしていても、後姿を見ただけでその人の年齢がわかってしまう、ということがある。それは、顔や体型やファッションだけのことではない。なんとなくの気配というのがある。
不思議にわかってしまう。
では、若者の姿かたちと大人のそれとの印象の違いはどこにあるのか。
姿かたちには、「身体の輪郭」という気配がともなっている。それは、非存在の見えないかたちなのだが、なんとなくの気配として、たしかに人に「ある印象」を与えている。
人間は、世界と和解していない。直立二足歩行とは世界と和解していない姿勢であり、そういう「人間の自然」を、若者ほどたしかに備えている。
若者は、世界と和解することなく、世界から隔絶して存在している。そういう孤立性を、その姿かたちに漂わせている。つまり、身体の輪郭が世界から隔絶して、すっきりしている。バカな若者でも、その身体の輪郭には、そういう気配が漂っている。
それに対して世界(社会)と和解している大人は、そういう「人間の自然」を失いながら、身体の輪郭が世界に溶けてしまっている。何か、身体の輪郭があいまいなのだ。体の線が崩れているからではない。若者だって、デブもいればチビもいれば猫背もいる。でも、身体の輪郭は、どこかすっきりしている。それは、その身体が世界と和解していないからだ。
われわれは、年をとると、社会の制度性にまみれて、身体の「孤立性」を失ってゆく。それが、姿かたちの気配として現われてくる。
世界と和解している大人のふてぶてしさやいじましさが、その身体の輪郭の曖昧さになって現われてくる。
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チンパンジーのごとき猿である人間が、チンパンジーとは違ってかくも限度を超えて密集した群れをつくる能力を持っているのは、チンパンジーよりも知能が高いからではなく、二本の足で立っている存在だからだ。
ことばの起源にせよ、こういうことを研究者は、簡単に「知能」の問題として語ろうとする。それは、たんなる思考停止である。彼らの知能こそ程度が低いのだ。何を安直なことをいっているのだろう。
ことばを話したから知能が高くなったのであって、知能が高いからことばを話したのではない。ことばなんか、知能指数が低いものでもしゃべれるし、そのほうがおしゃべりだったりするのだ。
人と人がもっとも熱中して語り合えるのは、「嘆き」を打ち明けあっている場においてだろう。そのとき彼らは、一晩中語り合ってもまだ語り足りない気分になっている。
また、知能の高いものたちが夜を徹して議論しあう場においても、彼らはともに「無知の悲しみ」を携え「未知」に分け入ってゆこうしているのであり、もしも知識を披瀝しあうだけのことなら、おたがいにすぐ疲れてしまって、そうそう盛り上がることもない。世界と和解していない「嘆き」を携えているから、「なぜ?」と問うて未知に分け入ってゆこうとする。
「なぜ?」と問うことはひとつの「嘆き」である。そういう「嘆き」からことばが生まれてくる。人間は、存在そのものにおいて、「なぜ?」と問わずにいられない「無知の悲しみ(嘆き)」を負っている。
ことばを知ったから言葉を生み出したのではない、ことばが生まれてきたからことばを知ったのだ。
人間は、二本の足で立ち上がることによって、世界と和解できない存在になった。原初、その「嘆き」から人間的なさまざまなニュアンスを持った「音声」がこぼれ出てきた。そうして、やがて芽生えてきた知能によって、それを「ことば」として選(え)り分けていった。これが、ことばの起源の歴史だ。
知能は、発せられた音声を言葉として選り分けていったのであって、その人間的な音声を生み出したのは、知能ではなく、人間存在が身にまとっている「いたたまれなさ」であり「嘆き」なのだ。
世界と和解できない「嘆き」が、「人間の自然」である。若者は、そうした「孤立性」という自然を持っているからその身体の輪郭が鮮やかですっきりしている。
言葉だって、「孤立性」という「人間の自然=嘆き」から生まれてきたのであって、他者に自分の持っている情報を伝えようとする現代人のごときさかしらな「知能」からではない。
いたたまれない思いがこみ上げてきたら、誰だって「きゃあ」と叫びだしたくなるだろう。人間的な「音声」はそういうところから生まれてきたのであって、情報の伝達などという生活の手段(=経済活動)として生まれてきたのではない。
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人間が二本の足で立つことは、他者の身体とのあいだに「すきまという空間」をつくる行為である。
人間は、くっつき合いもたれ合いながら共生しようとしているのではない。そんな衝動をたぎらせていたら、たちまち群れは混乱してしまう。この限度を超えて密集した群れを群れとして成り立たせるためには、それでもなお、たがいの身体のあいだに「すきまという空間」をつくってゆかねばならない。
誰もが、たがいに離れて「すきまという空間」をつくりあおうとすることによって、この限度を超えて密集した群れが成り立っている。誰もが、孤立した個体として存在するメンタリティのタッチを持っているから、この限度を超えて密集した群れが成り立っているのだ。
たとえば、電車の座席に並んで座ったとき、人間は、たがいの身体のあいだにほんの少しずつ「すきまという空間」をつくりあう。そういうタッチを持っているのが人間であり、その「すきま」をつくれないのなら、ヒステリーを起こして喧嘩ばかりになってしまう。
この限度を超えて密集した群れは、たがいの存在の「孤立性」を確かめ合うことによって成り立っている。
「孤立性」こそ人間であることの証しであり、「人間の自然」である。いや、無数の小魚の群れだって完璧にたがいの身体のあいだに「すきまという空間」をつくりあっているのだから、それこそが「生きものの自然」だともいえる。
若者は、そういう「自然」を持っている。道を歩いていて人とぶつかりそうになったらすばやくよける。それは、たんなる身体能力だけの問題ではなく、身体の「孤立性」のタッチでもある。運動神経とは、身体の孤立性のことだ。
身体の孤立性とは、この世界の空気をひりひりしたものに感じること。今どきのギャルファッションの、あの素っ頓狂な逸脱性だって、この世界の空気をひりひりしたものとして感じようとする衝動から生まれてきているのだ。
知能程度が低かろうとなんだろうと、彼らこそ人間の群れの本質と向き合い存在している。彼らはそういうことを体で感じながら生きているから、身体の輪郭がすっきりとして鮮やかなのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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