やまとことばと原始言語 2 「いたたまれない」

ニートや引きこもりにしろ、鬱病にしろ統合失調症とやらにしろ、つまるところ「環境」の病なのだから、育てた親や社会にまったく責任がないとはいえない。
それらのことをすべて脳の疾患ということにして、親も含めて社会全体が自分たちの「教育」の責任を隠蔽しようなんて、おおいに虫がよすぎる話だ。
教育フェチの大人たちが寄ってたかってとくとくと教育論を語るなんて、正しかろうと正しくなかろうと陰惨な景色だ。
子供には子供の自然がある。子供をどんな大人にするかということばかり考えて、子供の自然を守ってやろうという気が彼らにはないらしい。
もしかしたらわれわれにできることは、子供の自然を守ってやる、ということだけではないのか。
しかしわれわれの誰が、「子供の自然」や「人間の自然」についてどれほどわかっているというのか。
どんな大人になればよいのかということなど、誰にもわからない。
幸せで利口ないい人間に育てばそれでよいのか。幸せ利口な人格者である内田樹先生が、惨めな人生と愚かでしょうもない人格しか持ち合わせていない僕よりも多くの「人間の自然」を備え、僕よりも深く遠くまで人間について問い詰めているか。そんなことは僕は絶対認めないし、そんなことを僕の前で胸を張っていえる自信が内田先生にはあるのだろうか。悪いけど僕は、インポでも鈍くさい運動オンチでもない。
あなたたちには、子供と一緒に暮らすということのおそれがないのか。
他の人間と一緒に暮らすということのおそれがないのか。そういうことがないから、インポになり鈍くさい運動オンチになってしまうのだ。
大人は、自分が正しく子供を育てていると思うべきではない。どんな大人になるべきだというようなイメージを持つべきではない。そんなことは、誰にもわからないのだ。
大人がセックスをして子供をつくってしまうことは「人間の自然」であると同時に「人間の過失」でもある。
あなたたちには、この世にうまれてきてしまったことのいたたまれなさというものがないのか。そういうものを子供と共有しているのなら、自分は正しく子供を育てている、ということなど誰にもいえない。「教育」という概念をフェティッシュにまさぐっているわけにはいかない。
少しは子供に対してもうしわけないと思っても罰は当たらないだろう。そういう気持ちがないから、子供に嫌われたり、裏切られたり、子供を「心の病」というようなところに追いつめたりするのだ。子供と一緒に暮らしていることによろこんでも、「正しく育てている」なんて思うな。正しい育て方や正しい教育などというものはないのだ。
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あなたが不幸で貧しい状況から脱出できたからといって、この世界から不幸で貧しい人がいなくなるわけではない。
それでいいのか。
あなたは、不幸で貧しい状況から脱出させてくれる言説がありがたいか。
あなたが幸せになるということは、誰かが不幸になることでもある、という場合はよくある。あなたがすてきな彼(彼女)と結婚するということは、誰かがその影で失恋して泣いている、ということかもしれない。
人間の世界から不幸や貧しさはなくなるのだろうか。
不幸で貧しくてもそれを苦にしないで明るく生きている人がいる、ということではない。
苦にしないで明るく生きねばならないのか。
生きてあることの悲しみやいたたまれなさを嘆いて生きていたらいけないのか。それは、不自然で、あってはならないことなのか。
ほんとうにそうであるのなら、誰だって死に物狂いでがんばって脱出しようとするだろう。あなたは、死に物狂いでがんばっているか。死に物狂いでがんばれば、なんとかなるさ。
でも、あなたは、死に物狂いになれない。そりゃあ、そうさ。生きものは、そんな先のことのことのために「今ここ」をどうでもいいことにしてしまえないようにできている。それはもう、しょうがないことだ。
「今ここ」でこの人生に決着をつけてしまいたい、という思いが、誰の中でもどこかしらで疼いている。人間だって生きものなんだもの、しょうがないさ。この命は、次の瞬間には消えてなくなってしまうかもしれないはたらきなのだ。
「今ここ」は、二度と戻らない。誰だってだんだんとしをとって死んでゆく。来年の自分は、「今ここ」の自分ではない。「今ここ」の自分が自分のすべてだ、どこかしらにそういう思いがある。
生きものの命に、「未来」などという時間はプログラミングされていない。したがって「生き延びようとする衝動」も、原理的に成り立たない。そんな衝動が命の根源においてはたらいているということなど、ありえないのだ。
人間は、嘆きを引き受けてしまう心の動きを根源において抱えてしまっている。
四本足の猿が二本の足で立ったということは、その姿勢の不安定さや、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうという危険を引き受け、それを嘆きながら生きてゆくことを選択した、ということだ。
そういう存在の人間なのだもの、あなたが死に物狂いでがんばれないのも、そりゃあ仕方ないさ。
人間がなぜ嘆きながら生きてゆく存在になったかというと、そこから深く世界や他者にときめいてゆくカタルシス(浄化作用=快楽)を体験したからだ。そういう体験を繰り返しながら、嘆きを手離さない存在になっていった。
この嘆きの向こうにカタルシスがある、とどこかしらで思っているから、あなたは死に物狂いでがんばれない。
この世の中は、死に物狂いでがんばれる人間ばかりじゃない。人間という構造は、必然的にがんばれない人間を生み出してしまうようにできているのだ。
幸せであろうとあるまいと、「嘆き」をもっていない人間はカタルシスをくみ上げられないようになっている。
ことばの発生という問題だって、人間として生きてあることの「嘆き」を抜きにして推参してゆくことはできない。
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ことばの発生は、いったいいつごろまでさかのぼればいいのだろう。
二百万年くらい前にはもう、赤ん坊が「まんま」とか「ぶーぶー」というのと同じような、文節を持たない単語だけの「原始言語」ははじまっていた、といわれている。
まあそれくらいの時期の人骨はわりと完全に近いかたちで発掘されており、その喉の骨の構造が猿のレベルから少し発達しているからそういう音声を発しはじめていたのだろう、と推測されている。
しかし、猿がそういう音声を発することができないと、どうして決められるのだろう。
音声くらい、オウムだって発することができる。猿だって発する能力は持っているが、そういう習性がない、というだけではないのか。
そのとき人類の喉の骨が猿のレベルから進んでいたということは、原始言語を発していたことの「結果」であって、喉の骨がそうなったから原始言語を発するようになった、というわけではないはずだ。
もしも猿の喉でも簡単な単語くらいは発することができるとしたら、その発生は、直立二足歩行の開始直後までさかのぼることができるかもしれない。
オウムだって単語の音声を発することができるということは、言語の発生は、喉の骨が発達したことの結果ではなく、猿とはメンタリティが違ってしまったことの結果であることを意味するのではないのか。
人類は言語を発するようなメンタリティをどこで持ったのか、と問われなければならない。喉の骨の問題じゃない。
森の暮らしからサバンナに出てきたのが二百万年前ころからだから、サバンナに出てきたことが契機になったのか。
サバンナに出てきた人類は、いったん大きな群れを解体して、家族レベルの小集団で移動生活をするようになった。アフリカには、ブッシュマンなどの今でもそういう暮らしをしている部族がいる。その暮らしが、ことばを発生させる契機になったのか。
ライオンなどの肉食獣がまわりにたくさんいる環境だから、その危機を知らせるためとか、さまざまな「伝達」の必要が生まれてきたからか。
そうではないだろう。
そういうことは、のろしとか楽器とか口笛とか、人間はそういうかたちで表現してきた。アフリカのサバンナの民は、ことにそういう技術が発達している。サバンナに出て発達するのは、ことばではなく、そういう技術にすぎない。
それに、家族的小集団なら、ことばなんか必要ない。ことばなんかなくても仲良くできるし、わかり合える。
サバンナに出てきてことばが発達した、ということはありえない。むしろ、その発達がいったん停滞したのかもしれない。ことばは、伝達のための太鼓や口笛とは違う。
その時点で原始言語が交わされていたということは、それ以前から交わされていたことを意味する。
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ことばは、伝達の機能として生まれてきたのではない。
人間は、直立二足歩行の開始以来、つねに猿としての限度を超えて密集した群れをつくってきた。
人間とは、限度を超えて密集した群れをつくってしまう生きものである。
原初の人類が直立二足歩行をはじめたことによって得たのは、その能力にほかならない。早く走る能力を獲得したとか外敵と戦うための武器を手にしたとか、そういうことではない。二本の足で立ち上がった当初は、四足歩行のほうがずっと速くすばしっこく走り回れたのだし、すぐこけるそんなふらふらした姿勢であてずっぽうに棒切れを振り回しても、なんの役にも立たない。不安定な姿勢になり、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまったのだから、むしろ戦うことのできない身になってしまったのだ。
おそらく、それでも生きていられる環境が森の中にあったのだろう。
それは、生き延びようとする生存競争のための姿勢ではなかった。
原初の人類は、生き延びようとして二本の足で立ち上がったのではない。そこのところで、世の研究者たちの立てるパラダイムは、根底的に間違っている。そのパラダイムを捨てないことには、直立二足歩行の起源にもことばの起源にも推参できない。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、その姿勢の「受苦性」を嘆きつつ、限度を超えて密集した群れの状態を受け入れていった。
二本の足で立ち上がれば、たがいの身体のあいだにすきまの空間が生まれるから、より密集した群れで行動できる。そうやって彼らは、限度を超えて密集した群れの状態を受け入れていった。
積極的に密集した群れをつくっていったのではない。それはとてもうっとうしい状態だったのだけれど、嘆きつつひとまず受け入れたのだ。
それほどに、他者の身体とのあいだに生まれたすきまの空間にときめいたのだ。
そしてそれは、他者にときめくことでもあった。
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チンパンジーの群れでは、それぞれが戦いの能力を持っているから、その能力によって順位がつくられている。オスどうしは、つねに競い合っている。みんなライバルだから、たがいに、無邪気にときめき合ってなんかいられない。
そしてメスはみな、ボスの力を当てにしてボスに擦り寄ってゆくだけだから、基本的にオスに対するときめきなんか持っていない。
力の上位のものに下位のものが屈服してゆくという社会だ。
しかし、二本の足で立ち上がった原初の人類の群れは、誰もが戦いの能力を喪失しているものたちだから、競い合うというメンタリティも喪失している。ただもうだれもが、限度を超えて密集した群れのうっとうしさから解放されてあることにときめいていった。ときめくことができたのは、戦う能力や競争のメンタリティを喪失していたからだ。ときめき合うことによってしか共生していることのできない存在になったからだ。誰もが攻撃されたらひとたまりもない存在になったのだから、攻撃する意思がないことを共有してゆかねばならない。たがいの身体のあいだにすきまの空間がが確保されてあるということは、たがいに攻撃の意思がないことの証しである。戦う能力を持たないものたちにとって、攻撃されないことを保障されていることがどんなにうれしいことであるか、チンパンジーにはわかるまい。
そのとき人類は、嘆く存在になったから、ときめきを体験したのだ。つまり、限度を超えて密集した群れのうっとうしさを嘆きつつ、ときめき合うことによってその状態を受け入れていった。
人間が二本の足で立って行動し、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあるかぎり、人間は「嘆く」存在である。その嘆きが、人間的な進化をもたらしたのだ。
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ときめき合う存在でなければ、この限度を超えて密集した群れの中では生きられない。人と人のそうした関係から、ことばが生まれてきた。
人間は、世界と和解していない。このことは大切だ。
原始人は世界(自然)と一体化していた、というようなことがよくいわれるが、こんな不安定で危険極まりない姿勢で立っていて、一体化などできるはずがないではないか。
おそらく直立二足歩行をはじめた当初は、現在のわれわれよりずっと不安定で危険極まりない姿勢だったのだ。
つまり、われわれより原始人のほうがずっと世界と和解できない存在だった、ということだ。彼らのほうがずっと深く世界と和解できない「嘆き」を抱えて存在していた、ということだ。
彼らは、自然と一体化などしていなかった。自然に対する疎外感は、われわれ現代人より彼らのほうがずっと深かったのだ。
そういう生きてあることのいたたまれなさから、世界や他者に悲しんだり怒ったりときめいたりしながら、さまざまなニュアンスをもった音声が口からこぼれ出るようになってきた。
人間は、二本の足で立ち上がったことによって、世界や他者に対してより豊かで深い「感慨」を持つようになった。そういうところからことばがこぼれ出てきたのだ。
知能なんか関係ない。人類の歴史において、知能=脳容量が発達してきたのは、直立二足歩行をはじめてから数百万年後のことである。人類の知能の発達には、空白の数百万年がある。そしてもしかしたら「原始言語」は、その空白の数百万年のあいだに生まれてきたのかもしれないのである。さらには、その傾向は直立二足歩行の開始直後かはじまっていた、という可能性はないわけではないのである。
「知能」というパラダイムで「起源論」が語れると思ったらとんでもない話で、そんなことをのうてんきに信奉している研究者なんかみんなあほだと僕は思っている。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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