祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 11

ありがたい励ましをいただいたから、もう一度、ことばの発生段階に戻って考えてみます。
「ことだま」とは、つまるところことばが発生する体験のことであって、ことばそのものの構造や文章表現の問題ではない。
ことばの構造や意味にではなく、ことばという「音声」に「ことだま」が宿っているのだ。
原初、ことばが発生したときに見出されていった快楽とは何だったのだろう。
そういうことがあるはずですよ。なんの契機もなく、ただ「知能」が発達したから生まれてきたとか、そんないいかげんなことがあるものか。
だったら、「伝達する」ことの快楽か。そうじゃない。そんなことくらい、猿でもカラスでもしている。そして猿もカラスも人間のようなことばを持っていないということは、伝達しようとする衝動からはことばは生まれてこない、ということを意味する。
いったい原始人の暮らしの中で、ことばで「意味」を伝達するべきどんな必要があったというのか。猿やカラスでもしている遠くから危険を知らせるというようなことに、ことばはあまり役に立たない。ことばは、至近距離で使われるものだ。
石器の使い方などを伝えるといっても、それだって表情や身振り手振りですむことだろう。日本の職人は、何も教えてもらえないまま見よう見まねで仕事を覚えてゆくのが伝統だった。
至近距離での伝達は、表情や身振り(ボディランゲージ)ですむことで、そんなことがことばが生まれてくる契機になったのではない。
人間は、伝達しようとしてことばを持ったのではないし、ことばを持ったことによって、ことばの本質は「意味」を伝達することにある、と気づいたのでもない。そんなことは、ことばの本質でもなんでもない。そんなことは、「共同体」の発達とともに表面化してきた機能にすぎないのであり、それによって人間の観念がつよく「意味」にとらわれるようになってきた、というだけのことだ。
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原初の人類は、チンパンジーのような猿から分かれてきたといわれている。彼らの歴史と人類の歴史とのもっとも大きく本質的な違いは何かといえば、人類の歴史は群れの規模がどんどん膨らんできた、ということにある。チンパンジーの群れの規模はたぶん、この1千万年のあいだほとんど変わっていないはずである。
人類は、群れの規模が膨らんでくることに耐えることができた。
チンパンジーは、それに耐え切れず、つねに余分な個体を追い出すという歴史を歩んできた。
人類が耐えることができたのは、直立二足歩行をはじめたからであり、それこそがもっとも大きな直立二足歩行の効用だったのだ。
手に棒を持って道具を使うことを覚えたとか、そんなことはたいしたことではない。
大きな群れを形成する高等霊長類であること、これが、人間の人間たるゆえんだ。
動物が進化してくると、体の動きも脳のはたらきも複雑になって、他の個体との関係がややこしくなってくる。だから高等霊長類であるチンパンジーは大きな群れをつくれないのだが、人類は、そのややこしい関係を、直立二足歩行によって克服していった。
二本の足で立ち上がって、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保してゆく。これが、直立二足歩行が生まれたときに起きたことだ。
人類はまず、直立二足歩行をはじめることによって、猿から分かれ、より大きな群れを形成してゆくことができるようになった。
そのとき人類は、大きな群れをつくることの醍醐味と、そのうっとうしさを克服してゆくすべを知った。
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しかし、直立二足歩行の効用だけで群れが無際限にふくらんでゆくことができるというわけにはいかなかった。
軍隊の一個師団は100名から150名くらいで編成されるそうで、それくらいの規模が、全員の統制がとれて動くことのできる限界であるのだとか。
原初の人類の群れも、これくらいの規模になったころから、密集してあることのストレスが大きくなり、それを契機にことばを覚えていったのだろう。
その時期がおよそ数十万年前、人類が寒い北の地域にも住み着いて寄り集まって暮らすようになり、ネアンデルタールという人種が現れてきたころだ。
ただ、いきなり「ことば」を話しはじめたということがあるはずもないわけで、直立二足歩行をはじめたころから人類は、無意味に音声を交し合うような習性になっていたのだろう。
「音声」を交し合うことをすれば、密集した群れのうっとうしさが緩和される。最初からチンパンジーより密集した群れの中に置かれていた人類の歴史は、そのときからすでに音声を交し合う行為とともにあったのかもしれない。
もともと「かしましい」生きものだったのだ。
人類は、「意味」に目覚めてことばを覚えたのではない。「意味」のない音声を交し合ううちに、それが「ことば」になっていったのだ。
意味のない「音声」のそれぞれに、それぞれ固有の「色合い」が生まれてきた。最初は「あー」とか「えー」というような話の接ぎ穂のような音声を交し合っていただけだったが、やがて、「いろはにほへと……」それぞれの音声の違いが生まれ、それぞれの違いに気づいていった。
つまり、ことばの歴史はたぶん700万年前の直立二足歩行からはじまっていたのであり、その音声に「いろはにほへと」のちがいが生まれその違いに気づくようになるまでにはつい最近の数十万年前までかかった、ということだ。
その数十万年前までの「かしましい音声」のことを、「原始言語」という。
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それは、チンパンジーの集団内で唸り声を発しあっているのとはちがう。チンパンジーはそれぞれ勝手に唸り合っているだけだが、人類集団におけるその「音声」は「共有」されていたのだ。
人類の歴史は、原始言語が「ことば」になるまでに、数百万年かかった。
そして、べつにことばを覚えたからといって文明が発達するものではない。ただ、密集した群れのうっとうしさを克服することができるようになっただけだ。
言い換えれば、密集した群れが知能や文明の発達をもたらしたのだ。
人類は、その歴史のはじめから、群れの密集状態に耐えることができた。その能力によって、チンパンジーなどの他の霊長類と分かれた。
まず直立二足歩行によって、そうして「音声」を共有してゆくことによって、密集状態のうっとうしさを忘れることができた。ただ、その「音声」が「ことば」というかたちになるまで数百万年かかったということは、その能力を超えてさらに大きな規模の群れをつくってゆくという体験がなかったからだろう。つまりそれまでは、直立二足歩行とただの「音声」だけで間に合っていた。
間に合わないほどの大きな群れになっていったのは、数十万年前、地球上に拡散していった人類がとうとう極寒の北ヨーロッパにも住み着くようになったからだ。そこで定住を始めた人びとは、身を寄せ合うようにして暮らしながら、しだいに限度を超えて群れの規模を膨らませていった。
そうなればもう、人間関係がややこしくなってきて、ただの「音声」だけではそのうっとうしさを克服することができない。
だからといって、群れの規模を小さくしたり、広い地域にばらけて住むということをしていたら生き延びられない環境だった。その極寒の空の下では、あくまで大勢が集まり身を寄せ合っていなければ生き延びられなかったのだ。
食料となる対象が大型草食獣しかないから、チームワークで狩をしていかなければならない。そして、そんな大型草食獣の脂肪の乗った肉を食っていなければ寒さはしのげなかった、ということもある。
いろんな条件がそろって、彼らはもう、限度を超えてでも大きな群れを形成して生きてゆくしかなかった。そういう状況から、ただの「音声」であった原始言語が「ことば」へと昇華していったのだ。
つまり彼らは、群れが膨張してしまうという「不幸」を取り除くのではなく、「不幸」それ自体を生きて、その「不幸」からカタルシスを汲み上げてゆくすべを身につけていった、ということだ。
それが、原始言語が「ことば」へと昇華してゆく、ということだった。
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群れが密集してくると、心理的に圧迫されて、他者の身体との距離感を失ってしまう。胸の中がざわざわして息苦しくなり、ヒステリーを起こしそうになる。
そこから、音声がこぼれ出る、という体験が生まれてきた。
胸の中のざわざわを、息とともに吐き出すと、自然に「音声」になった。
そのとき原初の人類は、密集した群れの中に置かれてあることの「うっとうしさ=なげき」をたえず「音声」として吐き出しつづけていたのであり、その「音声」を共有してゆくことによって群れが成り立っていた。
その「音声」は、たがいの身体のあいだの「空間」を約束してくれた。その「音声」を共有してゆくことによって、「空間」が約束されていった。
原始言語としての「あー」とか「えー」という「音声」は、「なげきの表出」ではない。それは、純粋な「音声」である。「音声」であるということそれ自体に意味と意義があったのであって、それによって相手の「なげき」が伝わるとか、自分の「なげき」を表出したという満足があったのではない。
そういうことをいうなら、猿の唸り声のほうがまだ「自己表出」になっているし、彼らはそれによってひとまず気持ちの落ち着きを取り戻している。犬の「ワンワン」だって同じだ。他の動物たちの音声はすべて「自己表出」になっている。
しかし原初の人類だけが、「自己表出」をともなわない純粋な「音声」を共有していた。
原始言語としてのその「音声」は、それを発したがわも、それを聞くことによってはじめて気持ちの落ち着きを得ているのであり、その気持ちの落ち着きは、「そこに音声が漂う空間がある」と気づくことにあった。
それは、「なげき」から生まれてくるが、「なげき」の表出ではない。純粋に「音声」であり、純粋に「音声」であることに意味と意義があった。
これが、「ことば」が生まれてくるまでの数百万年にわたるトレーニングだった。(つづく)