祝福論(やまとことばの語源)・女の嘆き

普遍的な女の嘆きは、どこにあるのだろう。
おそらく、うっとうしい体を抱えて生きている、ということにあるのではないか、と思える。
彼女らは、体のことなんか忘れてしまいたい、と願っている。だから、忘れてしまう心の動きを自然に身に付け、忘れてしまうことの心地よさを深く体験している。そうやって世界や他者にときめき、そうやってセックスしている。彼女らがセックスしているときは、自分の体のことなど忘れて、男の手やペニスや体ばかりを感じている。男だってまあ、女の体の柔らかさや膣の感触ばかりを感じているわけで、他者にときめくとは、自分のことなど忘れてしまう体験にほかならない。他者との出会いのときめきとは、つまりそういう体験なのだ。そういう体験を、女は、男よりもずっと深くラディカルに持っている。
女が男よりもずっと身体の苦痛に耐える能力を持っているのは、みずからの身体に対する嘆きを深く抱えているからだ。彼女らは、ふだんから、そういう苦痛やうっとうしさに耐えて生きている。
そしてそれこそが、じつは男も含めた人間そのもののありようかもしれない。
生きものとして危険で不安定な姿勢である直立二足歩行は、避けがたく身体に対するうっとうしさをともなっている。
人間は、そういううっとうしさを支払って直立二足歩行の姿勢を維持している。これはべつに、種として自然な姿勢ではないのだ。われわれは、種としてはいまだに猿の仲間なのである。
われわれはそういう身体に対する「嘆き」を抱えながら人間になっているわけで、女は、その嘆きを、男よりもずっとラディカルに抱え込んで存在している。
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ことばが、問題を浮かび上がらせてくれる。
僕はいま、「例外」ということばに少々こだわっている。
人間になることは、「例外」になることだ。
原初の人類が二本の足で立って歩くことは、生きものとして「例外」になることだったのであって、種として「進化」したのではない。
恐竜やペンギンやカンガルーのように、二本の足で立って歩くように体が変化していったのではなく、猿と同じで四本足で行動するほうが都合のいい体なのに、それでも二本の足で立ち上がったのであり、それは「例外」になることだった。
二本の足で立ち上がって行動しているうちに、少しずつそれにあった体型になってきただけのこと。そして、あれからもう数百万年が過ぎたというのに、われわれの体は、まだ完全な二足歩行の体型になっていない。いまだにふらふらして、この姿勢でいることの居心地の悪さから逃れることができていない。
というか、この「居心地の悪さ」こそ、人間を人間たらしめているのである。
この「居心地の悪さ」を抱えているから、衣装を着るようになり、ことばを話すようになってきたのだ。
「例外」であることの居心地の悪さ、嘆き、それが、人間であることのかたちなのだ。
誰もが「例外」であることの居心地の悪さ(嘆き)を抱えているから、百万人千万人一億人の群れの中に置かれることにも耐えることができるのだ。
四足歩行の安定した姿勢でいるなら、人間だって猿と同じように、二、三百人の群れが限度なのである。
人間は、「例外としての嘆き」を抱えて寄り集まっている。もしもその「嘆き」を持っていなかったなら、この生きものとしての限度を超えた群れの中で、たちまちヒステリーを起こして混乱してしまうだろう。
人間は、知能が発達しているから大きな群れをつくることができるのではない。誰もが「例外」としての「嘆き」を抱えて存在しているからだ。どんな大きな群れになっても、どこかしらに「例外」であることの嘆きを抱えているから耐えられる。その「例外」であることの嘆き(=無意識の自覚)が、他者とのあいだに精神的な「すきま」をつくっている。
人間は、大きな群れをつくろうとする衝動を持っているのではない。大きな群れになっても耐えることのできる心の動きを持っている、というだけのことだ。人間だって生きものなのだから、うっとうしくはあるけど、耐えることができるのだ。
人類の群れが生きものとしての限度を超えて膨らんでしまったことは、それに耐えることのできる心の動きを持ったことの「結果」であって、大きな群れをつくろうとしたのではない。
人類は、直立二足歩行をはじめたことによって、大きな群れに耐えることのできる心の動きを持ってしまった。言い換えれば、原初の人類が直立二足歩行をはじめることは、限度を超えた密集状態に耐えてゆくいとなみだったのであり、直立二足歩行によって限度をを超えていったのだ。
そうやってひとりひとりが「例外としての嘆き」を抱えてゆくことによって、限度を超えた密集状態に耐えていったのであり、限度を超えた密集状態にカタルシスを見出していったのだ。
人間は、直立二足歩行によって、嘆きつつ生きものとしての「例外」の存在になっていった。そうして、大きな群れをつくることができるようになり、文化や文明が生まれてきた。
「例外」であることの居心地の悪さと嘆き、それが文化や文明をつくってきた。
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では、そうした嘆きと居心地の悪さと嘆きをよりラディカルに抱えている女によって文化や文明がつくられてきたかといえば、そんなこともない。
女は、その居心地の悪さと嘆きから、カタルシスを汲み上げてゆく。そうやって、生が完結しているから、少なくとも共同体や文明をつくり上げてゆこうとする衝動は希薄である。
それに対して嘆きもカタルシスも中途半端でこの生を完結させてゆく能力を持たない男は、共同体をつくることや文明によってそれを補完していった。
いずれにせよ生きものとして「例外」である人間は、この生が完結していないという居心地の悪さと嘆きを負って存在している。そこから、文明や文化の歴史がはじまったのであり、人間の知能の高さはその「結果」にすぎない。知能の高さが文明や文化を生み出したのではない。文明や文化によって、知能が育っていったのだ。
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そして、少なくとも原初の「ことば」の文化は、女によって育っていったのだろうと思える。
もともと女のほうが、ことばに敏感である。それは、ことばが身体から身体の外に出てゆくものだからだ。そうやって、意識を身体から引きはがしてくれる機能を持っている。
女がことばに敏感であるのは、それほどにみずからの身体のうっとうしさを嘆いている存在であるからだ。
女は、男よりもずっと語り合う(おしゃべりする)ことのカタルシスを知っている。
ことばという文明や文化の基礎は、女がつくった。
つまり女は、ことばによってこの生を完結させてゆく習性というか能力を持っているらしい。
だが男は、それだけではすまないで、共同体や文明をつくってきた。したがってそれは、原初のことば本来のかたちを変質させてゆくいとなみでもあった。
もともとことばは、身体に対する「居心地の悪さ=嘆き」を身体から引きはがしながら意識を他者に向けてゆく機能として生まれてきた。
ことばは、他者とのあいだの「空間=すきま」で生成している。ことばが語り合われるとき、たがいのときめきをその「空間=すきま」で共有している。
原初の人々は、そうやって語り合うことによってみずからの身体のうっとうしさに対する嘆きから解放されていった。
つまり、たがいの音声をたがいのあいだの「空間=すきま」に投げ入れ合う。これが、語り合う、という行為だ。
したがって原初(おそらく数百万年前)においては、ただ「あー」とか「うー」といううなり声を交し合っていただけだろう。しかしそれでもそれは、たがいにときめき合い、たがいにみずからの身体のうっとうしさに対する嘆きを解消し合うという機能を持った行為として、まぎれもなく人間ならではの「ことば」だった。
そうやって、おそらく女たちが寄り合う場から「ことば」が生まれてきた。
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「ことば」は、みずからの身体のうっとうしさに対する嘆きを抱えた者たちのあいだから生まれてきた。
「意味」を伝達するためなどではなかった。その場の空気が楽しく盛り上がる機能として生まれてきたのであり、そんなこと、当たり前ではないか。最初は、女たちがキャッキャとさえずりあっていただけなのだ。
それがやがて、群れが大きくなってきて、群れをコントロールする機能もそなえるようになってきた。そこではじめて、ことばに「意味」が付与されていったのだ。そして、「意味」を付与していったのは、おそらく男たちである。
人類の群れの規模が2,3百人という生きものとしての限度を超えていったのは、たぶん数万年前(もしくは氷河期明けの1万年前)のことである。そこから、一気に文明が進化していった。しかしそれは、ことばほんらいのかたちが変質してゆくという体験でもあった。
ことばは、男たちが共同体を組織してゆくことによって変質していった。
これがまあヨーロッパ大陸の歴史で、日本列島においては、弥生時代がはじまる二千年前まで共同体は組織されなかった。したがって、ことばが、原初のかたちと機能をとどめたまま洗練されてきた。そこに、やまとことばの特異性がある。
やまとことばが身体的で感慨の表出の機能を色濃くそなえているということは、女のおしゃべりによって磨き上げられてきたことばであることを意味する。
やまとことばを問うことは、女とは何かと問うことであり、すなわち人間の根源と究極を問うことだ。
人は、心の奥に「例外であることの嘆き」を抱えて存在している。やまとことばの語源を問うことは、おそらく普遍的な、そういう心の動きを検証することでもある。