祝福論(やまとことばの語源)・伊勢

伊勢に、母親の墓参りに行ってきました。
母親が死んで八年、今はもう伊勢の家もないし、べつに行きたいわけでも行かなければという義務感もなかったのだけれど、娘にどうしてもといつも言われていたので、まあその場所を教えておくためにとりあえず連れていっただけです。
娘からすれば、父親が生まれ育った土地を見てみたい、という気持ちもあったのかもしれません。そして、関東の新興住宅地で育った当人からすれば、そうした人の暮らしの歴史がしみこんだ町の景観は、それなりに新鮮であったようです。
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伊勢は、大和朝廷伊勢神宮をつくる前から、わりと大きな集落があった土地であったらしい。だから、伊勢神宮をつくる際に、土着の信仰とどう折り合いをつけるかという工夫もしなければならなかったらしく、伊勢神宮のほかにもわけのわからない神社がたくさんある町で、内宮と外宮に分けたのも、まあそのような「折り合い」のひとつだったのかもしれない。
伊勢市は、もともとは宇治山田市といっていました。われわれの子供のころは、自分たちの町のことを「山田(やまだ)」といっていて、それはもう江戸時代からの呼び習わしだったらしい。
つまり「山田(やまだ)」の人々は、自分たちの土地のことを「伊勢」と名乗ることは、畏れ多くてできなかった。そういう気持ちはあったと思う。
よくは知らないが、もしかしたら「伊勢」という地名は、土地の人々がみずから名乗ったのではなく、大和朝廷が勝手につけたものかもしれない。
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「伊勢(いせ)」の「い」は、強調の語義。
「せ」は、「困難」「不可能性」の語義。「せめて……」と嘆くときの「せ」、「せーの」と頑張るときの「せ」。
「伊勢(いせ)」とは、神に対する遠い畏れや憧れ、すなわち神に対する敬虔な感慨をあらわすことばだったのかもしれない。
したがってそれはまあ、ありがたいお名前ではあるが、土地に住む人々の実感をあらわすことばではなかった。
伊勢の人々の「お伊勢さん=伊勢神宮」に対する遠慮は並々ならぬものがあって、伊勢神宮の本殿の玄関が横にある(この形式を<棟入り>という)のに対して、自分たちの住居は必ず屋根の三角形が向いている正面側に玄関(妻入り)をつくっていた。それくらい、伊勢神宮に遠慮していた。
また、それくらいの遠い畏れや憧れこそが、「伊勢(いせ)」という言葉がほんらい持っているニュアンスであり、伊勢神宮に与えられた厳粛さのイメージであった。
伊勢神宮にお参りして、本殿の優美な姿を眼にすることができると思ったらとんでもない間違いで、屋根の一部が二重に仕切られた塀の向こうにかすかに見えるだけである。それは、隠されてある。隠されて見えないことが、その「ありがたさ(尊さ)」なのだ。屋根の一部が見えるだけでもありがたいと思え。ほんとに敬虔な信仰心を持っているものは、その屋根すら見ようともしない。「そこにある」という気配そのものが、「神」のありがたさである……まあ、日本列島の文化の根源は、そういうコンセプトの上に成り立っている。
「伊勢(いせ)」という言葉は、伊勢の人々の土地に対する愛着や実感をあらわすことばではない。
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土地に住む人々の実感は、あくまで「やまだ」という響きにあった。
では、「山の田んぼ」という意味かといえば、おそらくそうではない。伊勢に「山の田んぼ(=棚田)」なんかほとんどない。
日本列島の稲作農耕の歴史は、日本海側から下りてきたのであるから、弥生時代から古墳時代にかけての太平洋側の伊勢は、稲作農耕の後進地であったはずだ。
「やまだ=やまた」ということばは、おそらく稲作農耕を覚える前からあった。
「田」は、たんなる当て字だろう。
とすれば、そのことばの語源は、「山が立つ」ということに対する感慨にあったのではないだろうか。
「やまと」に対する「やまた」。
伊勢もまた、奈良盆地のようなやさしい姿をした山なみをいただいている土地です。
外部の人々からすると、伊勢といえば、「伊勢エビ」ということばに象徴されるように、何か海産物の獲れるところのようなイメージがあるらしいのだが、伊勢はあくまで内陸部で、海辺の鳥羽や二見や志摩地方は、昔は泊りがけで行くところだった。
やさしい山なみをいただく内陸部であることにこそ、「伊勢=山田」の人々の土地に対する愛着と誇りがあった。
「やまた」……「やまと」ほどみごとに山に囲まれているわけではなく、海辺の地域につながっている平地もあったから、「と」ではなく、ひとまず「た」になったのだろう。
「山田(やまだ)」に住んでいる人々は、われわれは海辺の人種とは違う、という誇りがあって、ことばも気質も、伊勢と志摩ではかなり違っていた。
僕の母親も、どちらかというと、海辺の人種のがさつなところを軽蔑していた。
そして、僕の中にも、人や社会に対する「遠慮」や「卑屈さ」がある。母親は、僕ほど「卑屈」な人間ではなかったが、「伊勢=山田」の人々は、僕のような「卑屈さ」を持っている人が多い。
だから母親は、「伊勢=山田」の人間も軽蔑していた。人間を軽蔑しつつ、人間を愛していた。やっかいな女だった。そしてそういうところは、因果なことに、僕の娘にも引き継がれているようだ。