祝福論(やまとことばの語源)・「例外」であること

現代人は、「例外」になりたがる。自分だけは違う、という優越感にひたりたい。誰もが、どこかしらにそんな心を抱えている。幸せとは、不幸の「例外」のことである。不幸に対する例外感(ということばがあるのかどうか知らないが)、すなわちそういう優越感なしに幸せなんか成り立たない。
いまどきの知識人たちが好きな「個の確立」というのも、まあそんなような「例外」になろうとする心の動きのことだろう。
だったら、そう思うのが人間性の基礎というか、心の根源のかたちなのかといえば、そうではない。そういう時代であり、共同幻想なのだ。現代を生きるわれわれは、そういう心の動きを、不可避的に背負い込んでしまっている。
ひとりひとりが「例外」として存在しているのは人間の根源的なありようだが、しかしそれは、「例外」になろうとすることではない。すでに、先験的に「例外」として存在しているのだ。
人間の群れは、「例外」であることの悲しみ(嘆き)を持ち寄って集まっているから、際限なく膨らんでゆくことができる。
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自分が「例外」であることは、けっして誇らしいことではない。
人間は、先験的に「他者=群れ」から置き去りにされているという思いを抱えて存在している。
「例外」として抜きん出てゆくことが、人間であることの証しではない。抜きん出ようとするのは現代社会の病理であり、共同体のシステムが完成されてというか高度になりすぎて、「すでに例外である」という自覚を喪失しているからだ。
そういう自覚は、そう思うほかない弱者だけが知っている。それは弱者の自覚であり、それが人間存在の根源的なかたちなのだ。
人は、存在そのものにおいて、すでに置き去りにされてしまっている。それが、直立二足歩行という二本の足で立つ姿勢の与件であり、そこから「人間」のいとなみがはじまっている。そうしてそれが、人間存在の究極のかたちでもある。
なのに、この世の中には、ちんけなことしか考えていないくせに、むやみに「例外」になりたがり、あげくの果てにいっぱしの「例外」になったつもりでいる人間が、うんざりするほどあふれている。内田樹氏などはその典型だし、近頃の「大人」という人種は、たとえ名もない町工場の臨時雇いのお父さんでも、おおむねそんなふうに思いたがっている。
それが、近代市民社会の正体だ。
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原初の人類にとって二本の足で立ち上がることは、他の個体や他の生きものから抜きん出ることではなく、置き去りにされる姿勢だった。置き去りにされる嘆きをあたため合いながら、みんなでいっせいに立ち上がったのだ。
直立二足歩行は、自然界の生きものとしてはきわめて不利になる姿勢であるのだから、ひとりだけではじめることはできない。みんなでいっせいに立ち上がらなければ実現しない。
そうして、置き去りにされることの恍惚(カタルシス)を発見した。
またそれは、「死」の発見であり、「死」の恍惚(カタルシス)の発見だった。
その恍惚(カタルシス)を見てしまったから、人間は、人殺しや戦争をするようになっていったのだろう。
人間にとって「死」はひとつの恍惚(カタルシス)であり、殺してしまいたいという衝動は誰の中にもある。何かきっかけがあれば、それはもう避けがたく湧き上がってくる。
たとえば誰かに殺されそうになったときとか、家族が殺されてその犯人に対してとか、そういうときに相手を殺そうとするのは自然なことだし、犯人のがわにしても、殺したことに対する後悔や罪の意識が起きてくるとはかぎらない。後悔や罪の意識を持つような人間なら人殺しなどしない、ともいえる。人間の心は、人殺しをすることに対する後悔や罪の意識を持たないような構造も持っている。持たないから、人殺しや戦争が生まれてきたのだろう。
死ぬことは不幸なことではないのだから、殺したってかまわない……ひとまず、人間はそういう原則を持っている、と認めるべきだと思う。置き去りにされてあることが、人間存在の根源的なかたちである。だから、殺す、というかたちで置き去りにしてしまってもかまない、と思う。そういう原則を持っているから、わざわざ「殺してはいけない」という律法を定めねばならなかった。
「置き去りにされた」というルサンチマンや「置き去りにされそうだ」という不安が、人殺しの衝動になる。共同体のシステムは、そういうルサンチマンや不安を肥大化させる。共同体において、置き去りにされることは、決定的な敗北でありアイデンティティの喪失である。そういう強迫観念が、人殺しの衝動になる。そしてそういう人殺しは、後悔や罪の意識が希薄である。
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共同体の中の人間は、置き去りにされることの嘆きからカタルシスをくみ上げてゆく能力を喪失してゆく。
われわれに必要なのは、よいシステムではなく、システムから解放されることだ。プライベートな時間は大切だ。その時間までシステムに侵食されてしまったとき、ルサンチマンや不安が肥大化してくる。
現代人のプライベートな時間は、システムに侵食されてしまっている。よいシステムであろうと悪いシステムだろうと、個人の心を侵食してしまう。よければよいなりに、悪ければ悪いからこそ、心がとらわれてしまって、逸脱してゆくことを許してくれない。
共同体の発展とともに、人は「死」の問題を解決できなくなってきた。
古代人は、迷信深かったからその問題を解決していたのではない。置き去りにされることのカタルシスを汲み上げてゆく能力を持っていたからだ。そして現代人は、その体験を失っているから、死を前にして悪あがきしなければならなくなった。
誰もが、群れの中の「例外」になって、他者を置き去りにし、「個」を確立しようとしている世の中になった。
置き去りにされることのカタルシスを喪失し、置き去りにされることに対するルサンチマンや不安ばかりが蔓延している。おそらく「近代」とはそういうものであり、それは倒錯的な事態であるに違いない。
古代人であろうと現代人であろうと、人間であることに変わりはない。どんな世の中であれ、置き去りにされることと和解してゆかなければ、誰も「死」にたどり着くことはできない。
死ぬことは、人間の群れから置き去りにされることだ。それはもう、どうあがいてもそうなのであり、他者を置き去りにして抜きん出ることではない。
抜きん出たつもりでいい気になっている大人が多すぎる世の中だ。そんなふうにして死の問題が解決されるわけではないし、人にときめくという心の動きを豊かに体験できるのでもない。
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「早(はや)い」ということばは、物が動くスピードをあらわしているのではない。あっという間に遠くまで行ってしまったというその「空間」に対する感慨である。
「は」は、「はかない」の「は」。「空虚」「空間」の語義。
「や」は、「弓矢」の「や」。「矢」は、遠くまで飛んでゆく。遠くまで到達することを「や」という。
つまり、置き去りにされてしまった、という感慨を「はや」という。
「気持ちがはやる」という。それは、置き去りにされて焦っている状態である。
「はや三年」というときの「はや」も、時の流れに置き去りにされた感慨をあらわしている。
置き去りにされることのカタルシスから、「はや」という音声がこぼれ出る。
快楽とは、ようするに置き去りにされることだ。抜きん出ることではない。
われわれは、なぜスピードにときめくのか。
車のスピード、スピードを争うスポーツ、そういうスピードを目撃することは快楽であるに違いない。
時間があっという間に過ぎてしまうことは、いずれ死なねばならない身としてはせつないことである。なのに人は、スピードを求める。
それは、げんみつにはスピードの渦中に身を置くことではなく、「スピードを目撃する」ことなのだ。そうして、そのスピードから置き去りにされてあることを楽しんでいる。
自動車を運転するとき、車だけが動いて、自分はじっとしている。そのとき自分は、車のスピードから置き去りにされている。置き去りにされて、「今ここ」にひたりきっている。
置き去りにされることは、「今ここ」をより濃密に体験することだ。
われわれは、スピードにときめくのではなく、じつはスピードから置き去りにされることにときめいている。
女を口説くときは、もたもたしていたらだめだ、スピードに巻き込んでしまえ……むかしその道の先輩からそんな教訓をもらったことがあるが、そのとき女は、そのスピードに乗っているのではなく、置き去りにされているのであり、その快感に浸りながら「イエス」といってしまう。女は、「ちょっと待って、考えてみるから」などということはいわない。そういう習性があったら、悪い男にだまされることもない。
置き去りにされることの快感は、女のほうがよく知っている。
置き去りにされてあるとき、人は、よりたしかに「今ここ」に生きてあることを実感する。
もしかしたらオルガスムスとは、置き去りにされて「今ここ」という時間の「裂け目」の中に堕ちてゆく体験であるのかもしれない。
そのとき彼女らは、「死」と遭遇するらしい。
「死ぬ」とは、そういう体験なのだろうか。
置き去りにされて「例外」になる、その快楽が、人間であることの根源的なかたちになっているのではないだろうか。人は、そうやって死んでゆくのだろうか。われわれは、そうやって死んでゆくことができるだろうか。