祝福論(やまとことばの語源)・「泣く女」

ピカソの絵に、「泣く女」というのがある。
ごていねいに、涙の粒まで描いてある。
泣いている女の心というのは、男にとってはひとつの神秘である。
女に泣かれることなんかうんざりだが、なぜうんざりするかといえば、その心の動きがよくわからないからだ。
そのとき、女自身も、よくわかっていないらしい。
心は、手に負えないしろものだ。
心が意のままになったら、人は、泣くということをしなくなるだろう。なぜならそれは、不幸な体験なのだから。
わざと泣いている、というときでも、わざと泣いていることを見せているのではない。どうにもならない心の動きに引きずられて泣いている、という演出をしている。心はどうにもならないしろものだという共通認識があるから、その演技が効果的なのだ。
女は、自分の心が手に負えないしろものだということを、深く思い知っている。だからこそ、ときには泣く演技をして見せたりするのだ。演技と真実の境目なんか、男にはわからない。そして、女自身もわかっていない。
自分の心を完璧にコントロールしているつもりの人間は、けっして泣かない。彼は、自分の心が手に負えない状態になってしまう体験をしたことがないから、その行為に感情移入してゆくことができない。
手に負えない、という絶望を抱えているから、演技であれなんであれ、つい泣いてしまうのだ。
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女の心は、体調に支配されている。身体さえうまくコントロールすることができれば心だって同じようにできるはずだが、女にとっては、その身体こそが、さらに手に負えない対象である。
つまり、われわれにとって身体はコントロールできる対象ではないのだから、心だってコントロールできる対象ではない、ということだ。
身体が老いて死んでゆくという事実から逃れられる人間などひとりもいない。多少の個人差はあるとしても、それはもう、避けがたい生きものとしての宿命だろう。
坊主が、たかが千日修行をしたとか悟りを開いたとか、そのていどの自己コントロールなどたいしたことじゃない。われわれが愚かに浅ましく生きていることと、目くそ鼻くそなのだ。
おまえらだって、そういう体験をして、自分が「生きもの」であることを思い知っただろう、と僕はいいたい。
自分が生きものであることを深く思い知っている人を、僕は尊敬する。心や体が手に負えないしろものであることを深く思い知っている人を、僕は尊敬する。なぜなら、そういうなやましさやくるおしさこそ、生きてあることの醍醐味であり真実であろうと思えるからだ。
心や体を自分の都合のいいようにいっときコントロールできたことなんか、何ほどのものかと思う。そうやって、自分が生きものであるという大切な事実を取りこぼしているだけのことじゃないか。
まあ、コントロールしないですむ、あるいはコントロールしようと思わないでもすむためには、一時的にそうやって徹底的にコントロールしてゆくという試みも有効ではあるのかもしれないが。
いずれにせよ、人間の根源的なかたちは、心や体は手に負えない対象であるということの上に成り立っている。人間社会のそういう共通認識があるから、坊主が尊敬され、威張っていられるだけのこと。つまり、彼らは、心や体をコントロールせよと説くものではなく、コントロールできないことを誰よりも深く思い知っているものとして存在するべきだろう、ということだ。
徹底的にコントロールしても、コントロールできない何かが残る。そこを説くことができないで何が坊主か、何が仏教か、と僕はいいたい。
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鴨長明は「発心集」の中で、こう語っている。
「仏の教えあり、心の師となるとも、心を師とするなかれ、と」
つまり、心をコントロールせよ、ということだ。
そうだろうか。釈迦が、そんなことをいったのだろうか。
心をコントロールしたがることの俗物根性、しているつもりの無知。そんなことに右往左往しながら、現代社会は混乱していっている。
どう生きよとか、どう考えよとか、どう思えとか、そんなことを指示する「師」など僕の中には存在しないし、僕の外にも存在しない。
ただもう、「心」の動きの不思議さに驚きうろたえて生きているだけだ。
釈迦の悟りだって、心をコントロールできるようになったのではなく、心をそのまま解き放つことができるようになっただけだろう。
この社会の混乱は、心をコントロールできないことにあるのではなく、心をコントロールしたがっていることにある。自分で自分の心を引きずりまわしてしまうことにある。
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人を殺したいと思って、殺してしまう。それは、殺したいと思え、と命じるもう一人の自分があったからだ。心が、そういうもうひとりの自分に引きずりまわされて殺してしまうのだ。
誰の心も、どんなかたちにもなる。誰の心だって、殺したくないというかたちにもなれば、殺したいというかたちにもなる。
殺したいと思え、と命じる自分が存在する。それは、その人の生まれ育った環境の場合もあれば、社会の状況の場合もあり、まあその両方が複雑に組み合わさって「自分」がつくられている。
そういう環境や社会状況に憑依して「自分」を形成し、心を支配してゆく。
自分で自分の心を支配しているから、殺したい、と思ってしまうのだ。
殺したいという心を生み出すような「自分」が形成される環境や社会状況があり、心を支配せよという環境や社会状況があるから、人殺しにいたってしまう。
自分の心を支配しコントロールしているから、人殺しをしてしまうのだ。
自分の心を支配しコントロールしなければ、人殺しなんかそうかんたんにできるものじゃない。彼は、心に引きずりまわされたのじゃない。自分で自分の心を引きずりまわしたのだ。
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たとえば、十年前に起こった酒鬼薔薇事件の犯人の少年の両親によるその告白を読めば、そりゃあもう、徹底的に自分の都合のいいように自分の心を動かしている人たちであることがわかる。読んでいて、人間らしい正直な心なんか、何も感じない。徹底的に自分の心の動きをつくろっている。あきれ果てるくらいだ。そういう親に育てられたら、そりゃあ、自分の殺そうとする心を徹底的に支配し育ててゆく子供にもなりうる。
自分の心をなぜ正当化できるかといえば、自分が命じた心だからだ。そしてその「自分」は、環境や社会状況という「正義」に憑依している「自分」だからだ。彼は、「心の師」になって、徹底的に殺そうする自分を正当化していった。彼のそういう習性は、彼の家庭環境や現代の社会状況が育てた。誰もが「心の師」となりたがる世の中だもの、そういう子供だってあらわれてくるさ。
「人を殺してはならない」という律法なんか無意味だということを思い知るべきだ。人間は、ときに「人を殺してもいい」という律法を自分で自分の中につくってしまう。それは、死は不幸なことではない、という前提を持ってしまっているからだ。だから。戦争があり、死刑がある。人間の心は、そういう律法をつくってしまうような構造になっている。われわれが「心の師」となって「個の確立」を求めようとするかぎり、人殺しはときに正当化されてしまう。
「人を殺してはならない」という律法は、「人を殺してもいい」という心の動きを生み育てる温床でもある。
それは、根源的には、悪いことではないのだもの。「心の師」となって心を支配しコントロールしてゆくことが正義であるかぎり、どうしたって人殺しは起きてくる。
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人殺しに走ることは、心を解き放つことではない。それはそれで、「心の師」になって、自分の心を支配しコントロールしてゆく行為にほかならない。
われわれは、そうやって知らず知らず自分の心を追い立てて生きている。
社会から追い立てられのではない。「心の師」である自分が追い立てるのであり、社会に毒された自分が自分を追い立てているのだ。
人の心は、社会から解放されてあるとき、人殺しなんかしようとしない。なぜなら、人の心を根源に向かって解き放てば、置き去りにされてあることの悲しみがあるだけで、人から抜きん出て個を確立しようとする衝動などない。
人を殺そうとすることは、人から抜きん出て個を確立しようとする衝動であり、その実現がおびやかされているときに殺意が生まれてくる。
そして誰だって、じっさいに人殺しはしなくても、精神的な人殺しは日常的にしてしまっている。個の確立にしがみついて生きているものは、それがおびやかされそうなときに、平気で精神的な人殺しをする。
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「心の師」となるのも、「心」である。だったら、その「心」にもさらに「師」があらねばならない。そうやって永久にたまねぎの皮をむいていって、なんになる。「心の師」になることなんか、論理的にありえないのだ。
まあだから、「神・仏」や「社会の規範」を「師」としてその代理になろうとするのだが、そのときの「神・仏」や「社会の規範」も、けっきょくは人間の「心」のあらわれでしかない。
われわれは、「心の師」になることなんかできない。
神や仏が何を考えているかということなど、人間が勝手に決めるな。勝手に決めているという時点で、そんなものはすでに「人間の心」でしかないのだ。
ぎゃくにいえば、「仏の心」とか「社会の規範」でつくろった自分の心など、あなたの本当の心ではないではないか、ということになってしまう。酒鬼薔薇少年の両親は、まさにそうやって自分の心をつくろって生きていたのだ。
いったい、人間の本当の心はどこにあるのか。どんなかたちをしているのか。「心の師」になって心を支配するひまがあったら、まずそのことを問い直すべきではないだろうか。
「仏の教え」などというものはないのだ。それは、人間の外部にある。そういうことを深く思い知っていない人間が、そういうしゃらくさいことを言い出すのだ。
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「神・仏の教え」なんか、わからない。
われわれは、人間の始まりであり究極でもあるところの「心」のかたちを確かめたいだけだ。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、置き去りにされることの悲しみ(嘆き)を抱いた。二本の足で立ち上がることは、「置き去りにされる」姿勢であって、「抜きん出る」姿勢ではない。そうしてその心をあたため合いながら、それをカタルシスに変えていった。
仏教では、「慈悲」ということばがある。「大悲心」などともいう。それは、世界や他者から置き去りにされてあることの悲しみ(嘆き)であるのかもしれない。
中宮寺弥勒菩薩の「アルカイック・スマイル(古代の微笑)」を眺めながら、「なんだか、私の力ではどうにもなりませんわ、といっているようだ」といった人がいる。
アルカイック・スマイルとは「嘆き」のことだったのか、とそのとき僕は、はっとさせられた。
心は手に負えないしろものである、という嘆き、そこから人間の歴史がはじまっている。そしてそれが、おそらく究極のかたちなのだ。中宮寺弥勒菩薩は、そういうことを思っているらしい。人間であることのなやましさやくるおしさが、その微笑にやどっている。
つまり、「慈悲」とか「大悲心」というのは、そういうものであるのかもしれない。
「心の師になる」なんて、自分の心も他人をも支配して思い通りに動かそうとする、ただの俗物根性じゃないか。そんなことができているつもりのその傲慢さの、いったいどこが「悟り」なのか。
われわれは、「神・仏」にならねばならないのか。心が手に負えないしろものであることのなやましさやくるおしさを抱えて人間になりきることは、絶望的なことなのか。そうやって人間になりきることは、人殺しになることか。
そうではないだろう。そういうなやましさやくるおしさを排除して、徹底的に心を支配していった先に人殺しがあるのではないのか。
置き去りにされてあることのなやましさやくるおしさとともに人間になりきることはとても困難なことだけど、その嘆きの向こうにしか生きることのカタルシスはないし、そこにしか「死」との出会いはない。よくはわからないのだけれど、中宮寺弥勒菩薩が、そう語りかけているような気がした。
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あるブログで、どこかのお坊さんが、鴨長明のこの言説を引き合いに出して、何かを人に教えたつもりのえらそうなポーズをとっておられた。
もともとこのお坊さんは、いつもいつも、知識をひけらかしてばかりいる。ものを考えていないから、知識をひけらかすことでしか自分を表現するすべを持っていないのだ。そうして人に教える態度をとることで、人から抜きん出たつもりになっている。この、俗物野郎め。おまえなんか、現代人の病理をまるごと抱え込んでしまっているだけじゃないか。
「心の師になる」ことが、そんなにえらいのか。笑わせてくれる。「心の師になる」ということがどういうことか、もう一度よおく考えてみろよ。
僕は、こんなことを言い出すところが、鴨長明の「発心」や「隠遁」や「無常観」の限界だと思っている。
心が解き放たれれば、もう悲しみ嘆くしかない。それはもう、どうしようもなくそうなのだ。それを「大悲心」というのであって、どこかの知識オタクの坊主の知ったかぶりのことをいうのではない。。
死は、悲しみの向こうにある。
それを体験できないで、「心の師」になりたがるような人間のいうことなど、僕は信じない。
心は、手に負えないしろものである。そのなやましさやくるおしさは、「心の師」になりたがるような人間にはわからない。
僕は、「心の師」になれるようなどんな「教え」も持っていない。心が手に負えないしろものであることのなやましさやくるおしさを味わい尽くしている人から、人間についての何かを学びたいと願っているだけだ。
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女は、みずからの身体から置き去りにされている。
わずらわしい毎月のさわりは、いやでもやってくる。身体の変調が、すぐ心の動きにあらわれる。のんきな男のように、身体を置き去りにして、すなわち身体のことなどすっかり忘れて生きてゆくのは、とてもむずかしい。
女は、みずからの身体を呪っている。呪い方の差はそれぞれあるにせよ、男ほど身体から自由になることはできない。
たとえば、何日も風呂に入らないで平気でいるというようなことは、現代社会の普通の女には、なかなかできない。
そういう女にとって、みずからの身体を忘れてしまうもっとも有効な方法のひとつは、セックスをすることだろう。
そのとき女は、相手の身体ばかりを感じながら、みずからの身体を忘れてゆく。
女は、身体を呪っているがゆえに、身体を忘れてしまう恍惚もより深く体験する。
べつにセックスでなくてもかまわないが、身体を忘れてしまう瞬間がなければ、人は生きられない。
多くの身体論の語り手たちが「身体をちゃんと意識せよ」などというが、いわれなくても、誰もがすでにうんざりしながら意識しているのだ。
むしろ身体を意識することによって、この生が生きにくいものになっている。
腹が減った、と感じることは、身体を意識することだろう。熱いとか寒いとか、痛いとか痒いとか、ことに現代人は、必要以上に身体を意識している。
現代社会の快適な環境は、必要以上に身体を意識することの上に成り立っている。
だがそれは、けっして健全な事態ではない。
身体のことを知れば問題が解決されるわけではない。身体のことなんか忘れている状態のほうがずっと心地いいに決まっている。
同様に、自分のことなどすっかり忘れてしまっている状態のほうが、自分を知って自分の心の師になっている状態より、はるかに心地いいに決まっている。
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「身体という自分」に執着することは、現代の病理である。
身体を意識すれば、とうぜん自分も意識してしまう。
そして女は、身体を呪いつつオルガスムスを体験できる能力を持っているがゆえに、いわゆる「忘我の境地」も知っている。
我を忘れて泣く……それは、心を喪失している状態ではなく、心が、「自分」という「師」を振り払って解き放たれている状態であろう。
心が「自分=身体」から引きはがされて世界や他者に憑依しているとき、女は泣く。
「泣(な)く」の「な」は、「親愛」「憑依」の語義。古代人は、泣くことが何かに憑依することだということを、深く思い知っていた。
人は、他者の身体との出会いのときめきとともに、みずからの身体を忘れてゆく。われわれは、他者の身体を必要としている。そういうことに対する切実さの足りないものが、インポになり不感症になるのだ。
女は、自分の心も身体も、自分でコントロールできるような対象ではないことを切実に思い知っている。だからこそ、他者の心や身体に深くときめき憑依してゆくことができるのだし、自分でコントロールできない「死」という事態を受け入れることもできる。
それに対して、心や身体を支配しコントロールしてゆくことができると思っている人間は、死を受け入れることができない。それが、現代社会に生きている人間の生態なのではないだろうか。