祝福論(やまとことばの語源)・若者ことばの受難

近頃のギャルたちが選んだ今年いちばんの流行語は、「あげ・さげ」なのだとか。
「最高・最低」という意味です。
たとえば、「昨日のコンサート、超<あげ>だったわね」というように使うらしい。
これは、興味深い現象です。
「最高・最低」に対する「あげ・さげ」なんて、まさに「やまとことば」のタッチだ。
彼女らは、大人たちが使う、というか、世間一般に流通している漢字熟語に対する違和感が、どこかしらにあるのだろう。
たしかに、近頃は、無意味に漢字熟語を使いたがる大人たちが多すぎる。政治家の答弁なんかその典型だし、ビジネス社会でも、横文字の外来語や漢字熟語を多用すれば何かかしこくなったとでも思っているのだろうか。
彼女らは、そういう光景に対して、きっと寒々としたものを感じている。「チョー、ウゼー」、と。
つまりこれは、現在、大人たちと若者のあいだで、ことばに対する感覚のずれがどんどん広がってきている、ということではないだろうか。
大人たちはますますやまとことばを壊してゆき、若者は、けなげにそれを取り戻そうとしている。
若者のほうが、ずっと日本列島の伝統を大切にしている。とくに、大人たちから頭が空っぽだといわれている若い「ギャル」たちのほうがずっと。
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それは、若者の言語能力の低下の現象である、と大人たちはいう。
たしかに、そんなことばの使い方ばかりしていたら、社会に出て大人たちのように漢字熟語を連発するような話し方をしろといわれても、それは無理だろう。
就職のときの面接試験では、そういう話し方をしなければならない。
面接を受けに来た理由を聞かれたら、「御社の業績の将来的な展望」がどうのこうのと、そんな言い方をしないと格好が付かないらしい。
「この会社はこれからもずっと延びてゆくと思ったものですから」といったほうが、ずっと真実味があると思うのだけれど。
というわけで、若者は、がんばって返答のマニュアルを覚えて面接に望むことになるのだが、マニュアルにないことを聞かれると、とたんに絶句してしまう。
答えのイメージはあっても、そんなややこしい社会人ことばでは語れない。
ただそれだけのことなのに、大人たちはもう、近頃の若いやつらは思考力がないだの言語能力が低下しているだのといってくる。
おまえたちが、日本列島の伝統を無視した妙な言語空間をつくってしまったせいじゃないか……と若者たちは抗議をするべきだ。
たとえば、
「あなたの生まれ育ったところはどこですか?」
「盛岡です」
「では、盛岡はどんな町か説明してください」
「……」
それは、マニュアルになかった……盛岡がどんな町かということくらい、わかりすぎるくらいわかっているが、それでもそれが、とっさにことばとなって出てこない。
「盛岡の基幹産業は」とか、あれこれ漢字熟語を使って説明しなければならないと思うと、それはもう、英語に翻訳してしゃべれ、といわれているのと同じ気分になってしまう。
その気分は、わからなくもない。君は、思考力がないのでも言語能力が貧弱なのでもない。君はちょっと、大人に対して素直すぎるだけだ。半分の責任は、大人たちがつくったいびつな言語空間にある。
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「若者の思考力が退化している」ということはつまり、自分たち大人の思考力は今なお健全で豊かに機能している、といいたいのだろうか。
しかし、大人たちが見くびるほど若者の思考力は貧弱ではないし、大人たちがうぬぼれていられるほど大人たちの思考力が健全で豊かだとも思えない。
大人たちが牛耳っている世の中だから、そのように見えるだけのこと。
いまどきの大人たちがそれほど健全で豊かな思考力をそなえているのなら、もっと若者から尊敬されていてもいいだろう。
いまほど、賢くて魅力的な大人が枯渇している時代もなかった、という意見もある。
若者の活字離れ、劇画ばかり読んでいる……などといっても、小説よりずっと高度な表現をしている劇画はいくらでもある。
ある部分、いまどきの大人より若者のほうがずっと高度で洗練された思考力や美意識をそなえている。
思考力があるかないかではなく、思考の仕方が違うのだ。いまどきの若者たちは、大人たちのような制度的な思考はできないし、したくない。しかし、そういう制度的な思考ができないと、ちゃんと生きてゆけない。そういう社会の仕組みがしっかり出来上がっていて、それが若者たちのしんどいところだ。
大人たちが尊敬できるのなら、自然に大人たちのような思考力が身についてゆく。しかし、そんな大人がいないのだもの、とうぜん大人たちとは違う流儀の思考になってゆく。
つまりそれは、若者が愚かであるのではなく、大人たちが尊敬されていない現象であり、その思考の流儀の違いが、「ことば」に対するセンスのちがいになってあらわれている。
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大人たちは、意味を伝達するための外来語や漢字熟語などを多用する表現に重きを置いて、社会生活をいとなんでいる。おそらくそれが、経済活動には便利であるのだろう。
それに対して若者たちは、やまとことば的な感慨表出のタッチを大切にする。そのために、ニートやフリーターなどの、社会生活に適合できない若者が大量に生まれてきている。
ジェネレーション・ギャップは、いつの時代にもある。しかし、若者ことばと大人のことばにこんなにもギャップを生じた時代は、かつてなかったのではないだろうか。
若者に、「うまいことをいうなあ」と唸らせるような言葉使いができる大人なんか、どこにもいない。それが、問題だ。だから、ことばが引き継がれていかないで、いたずらに若者の強迫観念ばかりをあおっている。その強迫観念で、ニートやフリーターとなって逃げ出す若者があふれ出てくる。
現代は、大人と若者のあいだに、「ことば」の溝ができてしまっている。それはおそらく、どちらにとっても不幸なことだろう。