いまどきの大人たちは、いまどきの若者は無能でみじめな境涯で生きている、と決めつけている。
しかし若者たち自身は、大人たちがいうほど無能でもなければ、みじめな思いでいるわけでもない。
今の大人たちは自分たちが思うほど魅力的でも思慮深くもないし、若者たちはそんな大人たちにさげすまれねばならないほどだめな人種でもない。大人たちは若者を教化し救ってやるというが、今の若者たちの方が大人よりずっと魅力的で、人と人の関係に対する感受性も創造力も豊かだ。
大人たちがどんな意気がったことをいっても、若者たちはもう彼らに幻滅している。そのことこそ問題だろう。
世の中には、大人たちの敷いたレールに乗っかって安定した人生を歩んでいる若者もいれば、そこから落ちこぼれてしまっている若者もいる。その落ちこぼれた若者たちが大人を見限っているのだから、そうかんたんには事態は改善されない。彼らは自分の現状にそう悲観していないから、大人たちと現在の社会制度を共有してゆこうという意欲はあまりない。彼らにとって、社会制度も大人たちも、魅力的じゃない。
なんといっても、大人たちが魅力的じゃないから若者がかんたんに落ちこぼれてしまうのだ。
落ちこぼれた若者はそこから必死に抜けだそうとしている、という優越感で見下すような考えでいたら、事態を見誤る。「このままでけっこう」と彼らはいう。大人に幻滅しているから、大人に追随しようとする意識が薄い。
なんのかのといっても、高度経済成長期の若者たちは大人のあとを追いかけていた。だから団塊世代全共闘運動などによって大人に取って代わろうとしたし、バブル期の若者たちは大人の真似をしてバーバリやアルマーニの服を着たりするなどの消費意欲の盛んな行動をしていた。
しかし現在はもう、大人の文化と若者の文化が大きく分かれてしまっている。
たとえば、秋葉原メイド喫茶に通う若者は、そこで女の子の電話番号を聞いたりして口説くということはほとんどしない。あくまでその場限りの一期一会の出会いを楽しもうとしている。
去年、膝枕で耳掃除をするフーゾク店の女の子を口説いて断られたあげくに殺してしまったという事件があったが、そういう事件を起こすのは、いつだって40代以上の大人世代である。
若者はほんらい、刹那的などといわれたりするように、この生を「いまここ」で完結させようとする傾向を色濃く持っている。だから、「このままでけっこう」というし、大人ほどにはむやみにフーゾク嬢を口説こうとはしない。
いまどきの若者は、大人のように意地汚くない。だから、消費意欲が希薄である。彼らは、大人のそんな意地汚さに、違和感や幻滅を感じている。
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「幸せ度」という意識調査があるらしい。それによると、現在の若者の70パーセントが自分のことを幸せだと思っているのだとか。しかしこの調査は正確ではない。「幸せか?」と聞かれれば「そうだ」と答えるしかないが、ほんとうのところは「このままでけっこう」「幸せでなくてもけっこう」と思っているだけではないだろうか。
若者からすれば、「幸せってなんなのさ」といいたいところだろう。
幸せだと思わなければ生きてあることを納得できないというわけでもないだろう。彼らは、幸せという価値意識で生きているわけではない。そういう物差しで測ろうとすること自体がもう時代遅れなのだ。その「幸せ」という物差し自体が、高度経済成長時代の遺物にすぎない。
もちろん若者たちだってその「幸せ」という言葉に飼いならされてしまっている部分がないわけではないが、生きてあることの実感としての本音の気分はもうそんなところにはないのだ。
彼らはただ、自分が今生きてあることを納得しているだけだ。そして、もっと何かが欲しい、ということもないのだろう。それだけのこと。べつに、幸せだと思っているわけじゃないし、不幸だとも思っていない。
何はともあれ彼らは、みずからのこの生を「いまここ」で完結させるタッチを持っている。
この生を「今ここ」で完結させるとは、人と正面から向き合おうとしている、ということだ。そうやって「いまここ」のときめきを彼らは体験しているから、「幸せです」という答えにもなる。
彼らは、「いまここ」でこの生を完結させ、大人のあとなんか追いかけていない。
現在、病んでいるのは大人の方であり、また、大人みたいになってしまっている若者も少なからずいるのだろうが、彼らは人と正面から向き合うことを避けながら傍若無人にふるまったり、逆に逃げ回っていたりしている。逃げ回ってやり過ごしながら「幸せです」と答えるようなすでに社会秩序に組み込まれてしまっている若者もいるのだろうし、そんなことばかりして生きているから、不測の事態が起きるとノイローゼになったりする。
まあ世の中は、何かとややこしい。
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かんたんに「若者は幸せだと思っている」と決めつけられても困る。派遣切りとか就職氷河期とか世代間格差とか、こんな時代の社会のひずみのしわ寄せを一身に受けて、「嘆き」がないはずがない。しかし彼らは、社会を恨むよりも、生まれてきてしまったことそれ自体を嘆いている。そこがかつての若者たちとは違うところであり、したがってそのかつての若者である大人たちの物差しで「幸せかどうか」と問うても無意味なのだ。
彼らは、大人よりもずっと深く切実に生きてあることの「嘆き」を抱えている。しかしだからこそ「癒される」という体験ができるのであり、だからこそメイド喫茶での一期一会をたのしむことができる。
彼らは、幸せなのではない。この生を「いまここ」で完結させるタッチを持っている、ということだ。だから、幸せすらも望まない。
ただ、大人たちよりもずっと深く確かに「癒される」という体験をすることができている、というだけのこと。
彼らの「幸せ度」なんか問うてもナンセンスだ。その「嘆き」の純粋さこそ問われなければならない。純粋というのか、イノセントというのか、彼らの「嘆き」は、根源的で実存的で原初的なのだ。
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近ごろの若者は、せっかく入った会社をあんがいあっさりとやめてしまったりする。あんなにもがんばって就職活動をしておいて、どうしてそんなことができるのか。やめてしまえば次はもう非正規雇用のポストしか得られないとわかっていても、決断してしまう。
あのときはあのとき、いまはいま……彼らはつねに「いまここ」を生きている。今までがんばってきたものがぜんぶ水の泡になる、という悲劇を、あんがいあっさりと受け入れてしまう。
しかしこの心の動きは、けっしてネガティブなものではない。むしろこの心の動きこそ、この生を根源において支えている。
まあ死ぬというのはそういうことであるし、原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、それまで培ってきた猿としてのキャリアを全部捨ててしまうことだったのだ。
生き物は、もともとそういう習性を持っているというか、それこそがこの生の根源的なかたちだといえるのかもしれない。この生は、そのようにして「いまここ」で完結するのだ。
われわれはもう、人生を後戻りすることができない。この事実と和解しなければ生きてあることはできない。この生は、今まで生きてきたという事実をすべて水の泡にしながら死に向かって流れてゆく。死んでしまえば、生まれてこなかったのと同じなのだ。
テーブルの上のリンゴを見る。視覚がそのリンゴに焦点を絞ってゆけば、まわりの景色はどんどんぼやけてゆく。それはリンゴである、と認識することは、リンゴのまわりのものを見るという体験をすべて無化してしまう体験である。
「いまここ」でこの生を完結させること、すなわち「いまここ」に意識の焦点を絞ってゆくことは、今までのことをぜんぶ水の泡にしてしまう体験なのだ。
それほどに現在の若者は「いまここ」に対する意識が切実であり、それこそが人間の普遍的な意識のかたちなのだ。
未来に対する希望もなく、生きてきた過去だってさほど懐かしくもないのなら、意識は避けがたく「いまここ」をクリアに感じてしまう。そしてそれはたぶん、けっして不幸なことではないし、ここからしかときめき合う人と人の出会いの関係は生まれてこない。
それに対して高度経済成長期の若者たちは、自分の未来に対する希望にも過去の懐かしさにも大いに執着していたから、すべてが水の泡になるという体験には耐えられなかった。だから、かんたんには会社を辞めなかった。まあ、辞めさえしなければ、自動的に給料も地位も上がってゆく時代だったし、現在の若者のような「いまここ」の人との関係に対する切実さもなかった。
みんなが横並びの関係の仲よしこよしで生きている時代だった。そうやって彼らは経済成長社会と調和して生きてきたが、それによって人と人が正面から向き合うという関係を喪失し、自分を捨てて「いまここ」にヴィヴィッドに反応してゆく心の動きを喪失していった。
現在の若者たちの不幸は、経済的に恵まれていないことにあるのではなく、追いかけることのできる大人がいないということにある。
まあ一部には、若者をたらしこんで引きずりまわすのが上手な大人もいるらしいが。
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いまどきの若者たちは、無能なのではなく、横並びの「競争」を無化し、たがいに「弱者」として向き合いながら生きようとしているのであり、もともと人間はそういう生き方をしてしまう存在なのだ。
大人たちの生き方や思考が人間の自然であり必然であるのなら、若者だってちゃんとそのあとを追いかけるに決まっている。
いまの大人たちは、自分たちの過去を振り返って「あれは何かの間違いだったのだ」と思うことはないのだろうか。
若者たちは、自分ががんばって会社に入ったことを「何かの間違いだった」と思って会社を辞めてゆく。
人がこの世に生まれてくることだって、何かの間違いなのだ。オスのペニスから吐き出された無数の精子の中のひとつが卵子に着床することに、なんの正当性も必然性もない。「何かの間違い」としかいいようがないではないか。
われわれはこの生の一瞬一瞬を無数の選択の可能性の中で生きているが、つねにたったひとつの行動しかできない。その行動に、正当性も必然性もない。われわれはつねに「何かの間違い」として「ひとつ」を選んで生きているのだ。
生きていれば、つねに「何かの間違いだった」という感慨がついてまわる。
「何かの間違いだった」と思うことが人の心の自然なのだ。
だから原初の人類は、四足歩行を捨てて二本の足で立ち上がっていった。
だからネアンデルタールとその祖先たちは、わざわざ住みやすい土地から地球上でもっとも住みにくいはずの氷河期の北ヨーロッパに移住していった。
人類は、「何かの間違いだった」と過去を清算しながら歴史を歩んできたのだ。
過去を清算することが、人間の自然である。
今の大人たちのように「あのころやあのころの自分はすばらしかった」と過去をまさぐり続けることが、人間であることの自然であるのではない。どんな素晴らしい過去であれ、「何かの間違い」なのだ。だから原初の人類は二本の足で立ち上がり、ネアンデルタールは氷河期の北ヨーロッパに移住していった。
すべては「何かの間違い」なのだ。それが、この生のこの世界のどうしようもない事実なのだ。よいとか悪いとか、素晴らしいとかみじめだとか、そんなこととは関係なく、すべては「何かの間違い」なのだ。
現在、せっかく入った会社を辞めてフリーターの身分になってしまっている若者はたくさんいることだろう。そうして「どうして自分の人生はこんなになってしまったのだろう」と嘆いているのかもしれない。
それはもうしょうがないのだ、すべては「何かの間違い」なのだ。生きてあるかぎり「嘆き」は避けられない。それが、人間の自然なのだ。その「嘆き」を共有しながら、人と人の心が響き合う。
自分の人生に正当性や必然性を付与していい気になっている大人たちの方が、よほど不自然でみすぼらしいのだ。「かまってちゃん」なんだよね。彼らには他者にときめいたり「癒される」という体験などなく、かまってもらおうとばかりしている。自分で自分をまさぐるように、他人からもこの自分をまさぐってもらおうとばかりする。そういうかたちでしか、彼らは、みずからの生きてある根拠を確かめられない。
生きてあることなんか「何かの間違い」なのだから、それを嘆きそれを忘れてしまうことこそ、生きてあることの根拠になり、「癒し」になるのだが。
いまどきの若者たちがかんたんに会社を辞めてしまうのは、もっといい未来が欲しいからではなく、とりあえず未来のことも過去のことも忘れてこの生を清算し、この生を「いまここ」で完結させようとしているのだ。
そして、それこそがこの生の普遍的根源的なかたちであり、人類はそうやって歴史を歩んできたのだ。
ほんとうは、誰もがどこかしらで「自分がこの世に生まれてきたことは何かの間違いだ」と思っている。われわれの思考力も想像力もじつはそこからはじまるのであり、そうは思いたくないあなたはすでに思考停止に陥っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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