祝福論(やまとことばの語源)・「生存権」

五月三日は、憲法記念日だったそうですね。
で、NHKでは、知識人が出てきて、さかんに「生存権」とやらを語り合っていた。
憲法では、国民の「生存権」が保証されているのだとか。
だったら僕のような「非国民」は、「生存権」がないということになる。
生存権」などというものは、社会から与えられるものであって、生き物としての自然に存在しているものではないでしょう。
シマウマに「生存権」があるのなら、この世のライオンはみな殺してしまったほうがいい。
いや冗談ではなく、人間の社会だって、弱者にも「生存権」があって生き延びよというのなら、強者を全部抹殺してしまうのがいちばんいい。そうしないと、生き延びられない。
みんなが弱者になれば、みんな生き延びられるか、みんなそろって滅んでしまうか、どちらかでしょうね。
僕なんかそれでいいと思っているけど、そんなことを思っているやつは、「生存権」を与えてもらえない。
僕の「生存権」は、ライオンに食われるシマウマ以上でも以下でもない。
生存権」て、何なのですか。
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派遣切りとか、まあいろいろあって、このごろ貧しく弱い若者が増えているのだとか。
この社会はそういう若者の「生存権」を保証しきれていないし、若者自身も、自分なんか生きていてもしょうがない、と思ってしまっている。そういう世の中であるのだとか。
それに対して、内田樹先生のように「生存権」を謳歌している大人たちもうようよしている。
生存権」にしがみついて死ねなくなってしまっている老人たちだって、あわれだ。
僕は、「生存権」などということはよくわかりません。
自分に生存権があると信じて疑わない人なんか、あまり好きじゃない。
自分の生存権を信じて疑わないから、貧しく弱い若者にも、おまえらにも生存権があるんだぞ、という。
ちょっと待って……。
「自分なんか生きていてもしょうがない」「自分は生きていてはいけないんじゃないか」……そう思ったらいけないのですか。
貧しく弱い若者は、不可避的にそう思ってしまうのですよ。
「おまえにも生存権があるんだぞ」という論理で説得できるのは、そのうちの何人だろうか。
貧しく弱い状態から抜け出せそうになったら、きっとそう思うことができる。
しかし、正真正銘の貧しく弱く敏感な若者は、ぜったいそう思うことができない。もしもその状態が一生続くのなら、一生「生きていてもしょうがない」と思いつづけなければならない。
いまの彼に必要なことばは、たぶん「生存権」ということばではない。そのことばこそ、彼を息苦しくさせている。
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いまの彼に必要なことはたぶん、「生きていてもしょうがない」という気分を誰かと共有することだろう。
「自分だけじゃない」ということと、「自分よりももっと深くそのことをかみしめている人間がいる」ということを知ったら、すこしは心が動くかもしれない。
生存権」などといわれたら、ますます身動きできなくなってしまう。
明日なんかあるのかどうかわからないし、自分の生きてきた過去は「生存権」から見離されたしょうもないものだったと思うほかない。そんなところに立って、自分の生をどう見つめればよいというのか。
彼にとって「おまえにも生存権がある」といわれることは、「おまえの生きてきた弱く貧しい過去などないも同じの無意味なものだったのだ」といわれているのと同じなのですよ。
そしてそれはそのとおりなのだから、それはもう受け入れて耐えてゆくしかない。生きていることは無意味で、ないも同じのことだ、という事実にいかに耐えるか。そのとき彼は、のうのうと「生存権」を信じてそこに安住したりしがみついたりしている人びとより、ずっと深く根源的な問題と向き合っているのです。
生きてあることの深く根源的な問題はそこにこそある、と僕は思っている。
生存権」にあるのではない。
彼が、「自分なんか生きていてもしょうがない」と思っているとしたら、それは誰よりも深く根源的なこの生の問題と出会っていることの証しなのだ。
誰もが死ぬ間際になって、人生なんかあっという間だった、という感慨を抱くのは、過ぎてしまったことはなかったも同じだという、この生の避けがたい事実があるからだ。。
最後の最後で、その厳粛な事実に耐えられないでうろたえ大騒ぎするのは、「生存権」などという言葉をあたりまえのようにもてあそんで生きてきたからだ。
誰の人生だろうと過ぎてしまえばあっという間のことだし、誰だって「生きていてもしょうがない」生を生きているのだ。
僕は、そういう問題を彼と共有できているだろうか。
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仏教の「空(くう)」という問題を、生きてあることの大切さ、いかに幸せに生きるかという問題として語っている人がいる。
僕は、そういう人とちょっとだけ話したことがある。そして、なんだか喧嘩別れみたいになってしまった。
僕は、その問題は、生きていてもしょうがない、人生なんて過ぎてしまえばないも同じさ、という問題だと思っている。それは、僕にとって厳粛な事実だ。
だから、もうむやみに「空(くう)」などということばは使えないな、と思うようになった。
仏教とは、幸せに生きるための道具ですか。「悟り」とやらを開くための道具ですか。
そんな問題など「うわのそら」でいることこそが、その問題と向き合っていることだ、と僕は思う。
社会が「生存権」を与えてくれる。
それは、自然に存在するものでも「神」が与えてくれるものでもない。
「社会」って、いったい何なのですか。
僕は、よくわからない。いい年して、いまだによくわからない。
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若者にとっての「世界」とは何か。
大人たちの「社会=世界」というイメージとは、ちょっと違う。
「社会」などというあいまいなものなどよくわからない。
若者にとっての「世界」は、もっと具体的だ。「いまここ」で人と出会っていること。今ここで見えている景色、聞こえてくる音、そんなことが「世界」になっている。そういうことをありありと感じているからこそ、そこから逸脱した「社会」などというあいまいなものをうまくイメージしてゆくことができない。
「社会」などよくわからないし、くだらないとも思う。
そんなふうに「社会」と向き合っている若者に「生存権」をどうイメージしろというのですか。
「社会」と向き合えば向き合うほど、「生存権」から置き去りにされてしまう。
「社会」と向き合えば向き合うほど、「社会」から心が離れていってしまう。離れていってしまっていることに気づかざるを得ない。
彼に必要なものは「社会=生存権」という「未来」ではなく、「いまここ」という「現在」だ。
「いまここ」にいきいきと反応できれば生きてゆける。
「生きていてもしょうがない」という「今ここ」を誰かと共有して、誰かにときめくことが出来るのなら、生きてゆける。
生存権」などというこの社会のお題目は、よくわからないのです。
彼らは、あなたたち大人ほど、「未来」のイメージが確かではないのです。あなたたちよりずっとクリアに具体的な「いまここ」に反応しているから。
いいかえれば若者は、あなたたち大人よりずっと、貧しく弱い立場にいることに耐えることができる。なぜなら、あなたたちよりずっと体力があるし、ずっと「いまここ」にときめいて生きているからです。
生存権」などよくわからない。
それより、「生きていてもしょうがない」という気分を共有できない大人たちの、その横着な鈍感さこそめざわりだ。