祝福論(やまとことばの語源)・雑感

わるいけど僕は、坂本竜馬だろうと織田信長だろうと、道元だろうと親鸞だろうと、柿本人麻呂だろうと聖徳太子だろうと、あまり興味がない。僕にとって歴史とは、その時代の自分と同じ庶民がどんな思いでどのように生きていたのかということが中心です。
それが、「人間とは何か」と問うことだと思っている。
僕は、あくまで人間とは何かということにこだわりつづけた秋山駿という批評家をものすごく尊敬していたのだけれど、最後に織田信長のことなんか書いちゃって、あああんたもあっちがわの人か、とちょっとがっかりした。
いや、批評という行為にあっちがわもこっちがわもないのだけれど、そういう天才と呼ばれる人物をむきになって批評しようとする心の動きは、僕にはあまりよくわからない。
「歴史」ということばにはものすごくこだわっているつもりだけれど、偉人とか天才と呼ばれる人物にはあまり興味がわいてこない。
そういう人物の気持ちがわかるような資質も持ち合わせていない。
わからなければ、文学者にも哲学者にもなれないのだろうが、ほんというと、そこがあなたたちの限界さ、という気持ちがないわけでもない。
天才なんて、歴史の表層であって、根源ではないのだ。
秋山先生、僕があなたから教わったのはまさにそのことであって、まさにそのことにおいて、あなたが織田信長を書いたことは、ただもうせつないような落胆以上のことは何も感じられない。
で、秋山氏に比べたら百倍もちんけな内田樹先生にいたっては、才能のある人間のところにしか人間の根源はないかのような言い方ばかりしているが、そうじゃない、才能があるということは、根源を喪失して表層でしか生きられなくなってしまっている人間のことをいうのだ。
内田氏の並べ立てる才能といってもいろいろあって、おしゃべりの才能、人と仲良くする才能、何かの仕事をする才能、そしてもちろん文学や哲学や学問や芸術やスポーツや政治の才能、そういう才能をもった人間こそほんまものの人間であって、それ以外のものはもう人間の範疇に入らないかのような言い方をしてくる。
高橋源一郎橋本治内田樹、この仲良し三人組は、自分たちこそ人間の根源を知っているかのような言い方をいい気になって合唱しているが、そうやって知っているつもりであることがあほな証拠なのだ。
才能がある自分たちは根源を喪失している、という「なげき」がない。才能がある人間こそほんまものの人間であるかのようなつもりでいる。
知性とはほんらい、その「なげき」を携えてどこかに遡行してゆくことだろうと思えるのだが、彼らは、俺たちは知っていると舞い上がってばかりいる。
いや、あんなあほな三人組のことはこのさいどうでもいいのだが、やまとことばの語源について考えるとき、やっぱりそういうことを語る知識人たちのリーダーである中西進氏の言説は見過ごすことができない。
この人も、自分が現代人として、才能のある人間として、何かを失ってしまっているという「なげき」を携えていない。
そういうのうてんきな態度でやまとことばの語源を語っても、薄っぺらなだけだ。
そういうのうてんきな態度で古代人の心の動きに推参できるはずがない。
僕には天才について語る才能がないそのぶんだけ、古代人の心の動きとしてのやまとことばの語源に対しては、中西氏よりも推参できているという自信はある。
俺はあんな薄っぺらな語源の解釈はしていない、という自信はある。
わるいけど、やまとことばの語源に対する考察に関してだけなら、中西先生よりも僕のほうが上ですよ。
中西先生を擁護されたい方は、どうぞおっしゃってきてください。でないと僕は、これからもますます中西先生をけなしつづけるかもしれない。