戦後世代の限界・「漂泊論」79

     1・アメリカがお手本だった
「人間の自然」、あるいは「ヒトのネイチャー」とはなんだろうと思う。
戦後日本は、「上手に生きれば幸せになれる」と信じて復興の歩みをはじめた。
そのように目的意識で方法論に執着してゆくことが近代合理主義のスローガンであり、アメリカがお手本になった。
日本列島にはいまだにアメリカ軍の基地があり、「日本はアメリカの属国である」などという人もいるが、そんなことはどうでもいい。
そんなことよりも、われわれは無意識のうちに、「上手に生きれば幸せになれる」というアメリカ的近代合理主義を信じている。
アウシュビッツの収容所に入れられた体験を持つというある作家は「夜と霧」という著作で「どんなに人を支配しても精神の自由まで奪うことはできない」といっているそうだが、必ずしもそうとはいえない。
この国はすでにアメリカからの独立を果たしているが、戦後ずっとお手本にしてきたアメリカ的近代合理主義に支配され続けている。
三つ子の魂百まで、というが、われわれ団塊世代が幼児体験として植え付けられてしまったこのアメリカ的精神は、そうかんたんには変えられない。死ぬまで変わらない、のかもしれない。
戦後日本は、アメリカに洗脳されたというより、みずからアメリカをお手本にした。みずから洗脳されていった。
親は子供を洗脳するといっても、子供だって洗脳されたがっている。だから親が、「私は洗脳していない」といっても、子供が無傷とはいえない。
人と人は、不可避的にそういう関係になってしまう。
人の心は、すでに何かに支配されている。時代とか歴史とか氏素性とか、それ以外にもさまざまなものにすでに支配されてしまっている。
精神の自由って、いったいなんなのだ、と思う。
おまえが自由であるつもりでいるだけのことじゃないか、とも思う。
金主席万歳、と叫ぶことだって、本人はそれが精神の自由のつもりでいる。
友達が好きだということと、金主席を崇拝していることと、いったいどれほどの違いがあるというのか。どちらだって、すでに精神の自由を奪われている。
われわれの精神は、すでに何ものかに染め上げられている。
「上手に生きれば幸せになれる」という精神は自由なのか?
われわれは上手に生きねばならないのか?
幸せにならねばならないのか?
そういう価値観に閉じ込められているだけではないのか?
精神の自由なんかないと嘆くことと、私は自由だとうぬぼれることと、いったいどちらが自由なのか?
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     2・「幸せを分かち合う」という幻想
幸せを分かち合う、という。それは、幸せであらねばならないという不自由な精神の上に成り立っている。
現代社会では、そういう関係が正義のようにいい、おたがいがそういう関係にならねばならないと支配し合っている。
相手が幸せかどうかなどわからない。
幸せであらねばならないと思って幸せなふりをしているのだとすれば、気の毒なことだ。
人と向き合えば、自分のことなど忘れている。自分が幸せかどうかということなど忘れてときめいている。相手の幸せも自分の幸せもわからないまま、ただもう相手の存在そのものにときめいているのが、自然な人と人の関係だろう。
たがいに出会って向き合っているというそのことにときめいてゆくのが人間の自然であり、たがいに幸せであることをまさぐり合って満足しているなんて、近代社会の病理的な関係なのだ。
われわれが生きてゆくのに、そんな馴れ馴れしくべたべたした関係が必要だろうか。
東北大震災に遭遇した人々は、そのあと、ただもうたがいに出会って向き合っているというそのことにときめき合っていった。それが人間の自然だろう。
何はともあれ、幸せを分かち合うことは、原理的に不可能なのだ。人間の自然として不可能なのだ。
人と人の関係なんて、ただもう一方的にときめいてゆくことができるだけで、「分かち合う」ことなんか不可能なのだ。
また、そういう関係に執着するものは、相手の不幸や嘆きにとうぜん鈍感である。
人間とは不幸の嘆きの上に成り立っている存在であり、そういうところから豊かな思考や感性が生まれてくる。そういうところに思いをいたすことができるのが人間の自然なのではないだろうか。
人は、「幸せを分かち合う」という幻想に縛られ執着していることによって、人間の自然を失い、ますます鈍感になってゆく。
戦後の高度経済成長は、そういう不自然な人と人の関係を育ててきた。
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     3・いろんな若者がいる
僕はべつに、上手に生きたらいけないとか幸せになったらいけないといっているのではない。
ただ、その能力とその人の思考力とか感性の豊かさとか人間的な魅力とか、そういうこととはまた別の話だ、といいたいのだ。
なんといっても、人間の思考力や感性や性衝動は、生きてあることのいたたまれなさから生まれてくる。人間は、そういう存在の仕方をしている。そこに、人間の自然がある。
だから僕は、自分よりも生きてあることのいたたまれなさを深く豊かに抱えて生きている人を尊敬する。そういう人は僕よりも思考力や感性が深く豊かで、何より人間として魅力的だからだ。
しかしいまどきの世の中は、上手に生きる能力があることや幸せであることが尊敬され、またそれを自慢したがる人も多い
幸せを分かち合うことが人と人の関係の理想であり自然であると合意されている世の中なら、そうなるのは当然である。
われわれは、こういう関係を、アメリカから学んだ。
そしてこの社会的合意は、バブル景気の到来で決定的なものになった。
なんのかのといっても、そんなバブルの余韻を引きずっている大人たちがまだまだしっかりと支配している世の中だ。
いったんバブルに洗脳されてしまったら、そうかんたんには変わらない。たぶん、死ぬまで変わらない。
しかしそれでも近ごろは、上手に生きる能力や幸せであることを自慢するだけではすまない人と人の関係も生まれてきている。
「上手に生きることができなくてもいい」「幸せでなくても幸せだ」という若者の一群がある。
そういう若者たちはもう、上手に生きることができるだけの大人も幸せであるだけの大人も尊敬しない。そういう大人たちに追いつめられながらも、そういう大人たちに幻滅している。
大人たちは、そういう若者たちを「草食系」などといって、思考力や感性がやせ細っているかのようにいうが、そうではないのだ。
むしろ逆に、思考力や感性に目覚めたから、上手に生きる能力や幸せなどどうでもいいと思うようになってきたのだ。
そういうところから「ジャパンクール」といわれる文化が世界に発信されている。
思考力や感性がやせ細っているのは、大人の方である。やせ細っていなければ、人間の自然として、若者から幻滅されることはない。
とはいえ、今の若者だって今の大人に育てられてきたのだから、大人のように上手に生きることや幸せを得ることに邁進している若者だっている。
そうやって若者の生態が二分されているのだろうか。あるいは、右の端から左の端までさまざまな若者がいる、ということだろうか。
だから、団塊世代の若者のようにビートルズファン一色になるということはないし、バブルのころの若者たちのように、誰もが消費行動に狂奔するということもない。
少しずつ時代は、人間の自然に遡行しようとしはじめているのだろうか。
上手に生きることや幸せになることよりも、より深く思考し、より豊かにときめきたいということだろうか。
大人たちに幻滅したことの反動として、そういう若者たちがあらわれてきた。
大人たちの、その「幸せを分かち合う」という人と人の関係の手法が幻滅されている。
そういう意識で関係を結べば、人にやさしくて人の気持ちがよくわかっているとはいえない。そうやって自分の幸せを確認しているだけのこと。相手のことなんか、なんにも思っていない。
おまえら、そうやってやさしい人間のふりをしながら自分をまさぐっているだけじゃないか。
相手のことを思うとは、自分のことを忘れて相手の存在そのものにときめいてゆくことだ。
相手のことはわからないし、自分のことなんか忘れている。
相手も自分も、幸せであらねばならない理由なんか、何もない。
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     4・元気でなんかいられない
僕と久しぶりに会うと、必ず「元気そうじゃないか、よかった、よかった」といってくる同世代の友人がいる。
勝手にそう決めつけて、自分の友情のあつさをまさぐっているのだ。
友情の押し売り。
僕は、元気であらねばならないのか。おまえと幸せを分かち合わねばならないのか。
元気でなんかあるものか。おまえなんぞにこの俺のしんどさがわかるものか。
僕は、この社会から遺棄された人間だ。元気でなんかいられない。やっとこさ生きているだけだ。
元気と幸せを売り渡して毎日考えているのだ。明日死ぬかもしれない。そうして、おまえらの考えの薄っぺらなことにうんざりしている。
僕には、同世代の仲間なんかいない。みんな敵だ。そういう環境で生きてきた。
僕は、彼らと世界の見方を共有できなかったし、彼らにうんざりしている。
いまだに、一緒に青春時代を懐かしんでよろこんでいやがる。そうやって「幸せを分かち合う」という意地汚い市民根性が骨の髄までしみついていやがる。
彼らは、幸せを分かち合って上手に生きてきた。
僕は、その思考や生き方に同意することも参加することもできなかった。
そうじゃないだろう、といつも思っていた。
人間なんだもの、誰だって胸の奥のどこかしらに、生きてあることのいたたまれなさを抱えている。僕は、このことがいつも気になっていた。
おまえらみたいに、そのことにふたをしながら自分をまさぐっている余裕なんかない。
こっちは、自分が生きてあるというそのことから追いつめられている。
「幸せを分かち合う」なんて、よくそんな馴れ馴れしい態度がとれるものだ。そうやって、相手のことを思っているという自分を見せびらかしている。
自分を見せびらかすことしか頭にないのだ。見せびらかすためには、相手が必要だ。彼らにとって他者は、そのための道具でしかない。
いや僕は、彼らが醜いといっているのではない。彼らはなぜこんなにも思考が薄っぺらで人間に対して鈍感なのか、ということに驚いているのだ。そしてちょっと、気味悪くもある。
戦後のこの国は、そういう人間を大量に育てあふれさせた。
問題はいろいろある。
が、さしあたって「上手に生きること」や「幸せであること」が欲しいのなら、意識は自分にばかり向いている。
しかし、人間の自然において、どのように生きねばならないとか、どのように生きたいという問題など存在しない。
人間なんて、そこに他者が存在するというそのことに反応しながら生きているだけだ。
まったく、僕がなぜ元気で幸せであらねばならないのだ。
彼らは、他者に「反応」するという感性を持っていないから、他者の存在の仕方を勝手に決めつけようとする。
人間が「こうあらねばならない」「こうありたい」という「目的」にしたがって存在していると決めつける意識で生きているから、「反応する」という知性も感性も鈍磨してくる。
「反応する」という「エロス=生命力」をすでに喪失している。
僕のまわりには、インポなオヤジがいっぱいいる。
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     5・人間は、目的や欲望だけで生きているわけではない
彼らは、他者と幸せぶりっこの戯れをすることに熱心なだけで、他者の不幸や嘆きに思いをいたす知性も感性も持っていない。
それは人間の自然に対する想像力が欠如している、ということだ。
表面的に「幸せを分かち合う」ことばかりしているから、その奥の人が生きてあることの「嘆き」に思いをいたすことができない。
そこに彼らの思考の限界がある。
根源的には、人間は欲望によって生きているのではない。存在することの不安やいたたまれなさからせかされる衝動というものがある。そこに、思いをいたすことができない。
マスメディアに登場してくるいまどきの社会学者なんか、欲望だけで人間を分析しては、いつも未来を見誤っている。
どうしたいか、どう生きたいか、ではない。人間の自然として、どう反応し、どう生きてしまうか、ということに対する想像力が彼らにはない。
近ごろのインテリやプチインテリは、上手に文章を書くことはできても、探究するということができなくなってきている。
探求するとは、「わからない」という「嘆き」の森に分け入ってゆくことだ。そういうところで身悶えしながら考えるということを、彼らはできない。
考えることは、知ろうとする欲望でなされるのではない。「わからない」という「嘆き」にせかされて起きてくることなのだ。
欲望や目的だけで考えていても、限界がある。欲望や目的のぶんだけしか思考は進まない。
生きてあることの「嘆き」を失ったら、学問も芸術も人と人の関係も、けっきょく予定調和の陳腐なものであるしかない。
人間は、愛そうとする「目的」を持っているのではない。生きてあることの「嘆き」にせかされて愛してしまうのだ。
それは、愛してしまったあとに気づくことなのだ。
人間は「嘆き」を持ち寄って集団をつくっている生き物であり、「嘆き」を共有してゆくところに人間の自然がある。
生きてあることなんかうんざりだ、という反応が生命力になるのであって、上手に生きれば生きるほど、幸せになればなるほど、生命力も思考力も感受性も失ってゆく。
生きることに上手なものたちがどんなに気取ってみても、その思考力や感受性は、生きることに無力な「この世のもっとも弱いもの」にはかなわないのだ。

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