閑話休題・島根で起きたこと

先日起きた島根の女子大生殺人事件はほんとにひどくてむごいなあ、と思う。
そんなことをいっても、牛や豚などの生き物を平気で切り刻んで食っている人間がいえるせりふか、といわれると、そうじゃない、という理屈がなかなかうまく出てこない。
それはまあ、そうなのだ。人間は、そういうことを平気でできる生きものなのだろう。
人間のやったことだ。
しかし僕がほんとに恐ろしく気味悪いと思うのは、そういう物理的なことよりもむしろ、人の気持ちを、よくもあそこまで無残に蹂躙してしまえるものだということにある。
あんなふうにされるなんて、想像しただけでも身震いするだろう。本人もそうだし、本人と親しいまわりの人だって、やりきれない。そしてあんなふうに人の心をじわじわ行き着く果てまで追いつめてゆくなんて、ものすごく残酷だ。
犯人たちはそれをおもしろがってやっていたのかと思うと、たまらない気持ちにさせられる。
彼女の恐怖がわからなかったのではない、手に取るようにわかって、それをおもしろがっていたのだ。
そんなやつは人間じゃない、というべきではない。
あなたたちだって、同じようなことを平気でやっているじゃないか。
人を叱って、「ごめんなさい」と謝られたら、気持ちいいだろう。そうやって人を追いつめていい気になっているじゃないか。
それと同じことを、彼らは極限までやっただけのことだ。
ちょっとだったらいいとか、正義だったらいいとか、そういう問題だとは僕は思わない。
同じことは、同じことだ。
イカフライさん、あなただって同じ人種なんだぞ。
もちろん僕だって、違う人種ではない。
人間は、そうやって人を残酷に追いつめることを平気でしてしまう人種なのだ。
どいつもこいつも、自分だけは無傷なような顔ばかりしやがって。
自分の心の極北のかたちが、あの事件であらわれたのだ。
犯人たちは、追いつめられることの恐怖や惨めさを知っている。それは、自身が現実にいじめとかの体験をしているのか、あるいは、親や家族や社会から「愛情」とか「正義」とかの名のもとにじわじわ追いつめられて身動きできなくなってしまうような心の動きを無意識の底にため込んでいるのか、そのへんのことはわかりようもないが、とにかく、人間に対するルサンチマンを有り余るほど抱え込んでいるから、あそこまで徹底してすることができる。
体を切り刻むことは、ついでの駄賃のようなものだ。彼らが目指しおもしろがったのは、人間の心を蹂躙することだ。そうやって支配し蹂躙することだ。
そういうことをしないと自分の人生の帳尻が合わないから、やったのだ。だから、やってもいいと思ってやったのだ。
自分の人生の帳尻を合わせなさい、それが人間の幸せだ、人間はそういうことを目指すようにできている……と、誰もが当然のことのように合意し合っている社会ではないか。
誰もが、自分の人生の帳尻を合わせようとして生きている。
自分の人生の帳尻を合わせて「個」を確立しないと生きたことにはならない、と思っているし、そういうことをいいたがるあほな知識人がうじゃうじゃいる。
その合わせ方が悪人たちとは違うからといって、いばるもんじゃない。私の合わせ方は正しく清らかだなんて、何様のつもりでいやがる。
人生の帳尻を合わせようとすること自体が、倒錯的でぶざまでグロテスクなのだ。
もともと人生なんて、帳尻が合わないものだ。
自分がブスでブ男で、頭が悪くて、派遣社員で、失業者で、女にもてなくて、そんなことはぜんぶ、しょうがないことだ。自分に与えられたそういう現実を全部受け入れて生きてゆくことができるのも人間だ。
そういう帳尻が合わないことを全部受け入れて生きている人がいる。
全部受け入れて死んでゆく人がいる。
この世にそういう人がいるということから何かを学ぶことができるのなら、帳尻を合わせようと悪あがきをすることもないだろう。帳尻が合っていると、えらそうに自慢することもないだろう。
僕は、帳尻が合っていると自慢するやつらなんか、たとえ釈迦だろうとキリストだろうと、大統領だろうと総理大臣だろうと、社長だろうとロックスターだろうとお偉い学者先生だろうと、みんな尊敬もしないし信用もしない。
帳尻が合わないことを受け入れ死んでゆく人から何かを学びたいと願っている。
そういう人がこの世のどこかにいることは希望であるし、島根の殺人犯人のような人間がいることは悲しいことだ。そしてそれは、どちらも、まぎれもなく人間であることのかたちなのだ。