閑話休題・脳なんかたいしたものじゃない

ヤフーのページの広告に、「脳を鍛えて自己開発しよう」というようなメッセージが載っていた。
何いってるんだか。
脳なんか、二十歳を過ぎればどんどん衰えてゆくのだ。
脳の機能なんか、誰の脳も大して変わりはない。
優秀な脳とだめな脳があるのではない。そんなものは、知能指数が高い連中の、ただの自己満足であり、幻想にすぎない。
たとえアインシュタインだって、大工ほど家の建て方を深く豊かに知っているわけではない。おまえの脳みそが俺の脳みそより優秀だというなら、俺より上手に家を建ててみろ、と大工はいえばいい。
僕は、誰かさんの「唯脳論」なんてくだらない、と思っている。
脳なんか、みんな大して変わりはない。脳に損傷が出れば困るが、損傷がないかぎりたいした差はない。
脳の「環境」が違うだけのこと。学者には学者の脳の環境があり、大工には大工の脳の環境がある。音楽家には音楽家の脳の環境があり、パン屋にはパン屋の脳の環境がある。
その「環境」が脳をはたらかせている。脳は、エンジンみたいなものだ。エンジンは運転手ではないように、脳は、運転手ではない。
脳は電話交換室みたいなものだ、といった人がいる。そのとおり、電話交換室の機械が話しているのではない。
「意識」とは、「脳の環境」であって、脳そのものではない。われわれの脳は、「意識」という「脳の環境」に動かされている。
青い空は、青い空に見える。それ以外に見えようがない。それは、青い空に脳が動かされている、ということだ。そこから脳のはたらきがはじまって、しだいに「心」や「感性」といった「脳の環境」がつくられてゆき、それが脳を動かしてゆく。
ものが見えるということは、ものと身体(=目)との関係が脳にはたらきかけているのであって、先に脳がはたらいているから見えるのではない。
青い空を見たことがない人間がはじめて青い空を見たとき、青い空以外のものに見えるということもないだろう。「脳の環境」から脳が動かされているから、人は感動という体験をするのだ。
「脳の環境」から脳が動かされているから、朝が新鮮なのだ。はじめに脳のはたらきがあって朝と出会うのなら、朝なんか新鮮でもなんでもない。
言い換えれば、何も見たことがなく、何も聞いたことがなく、何も匂いを嗅いだことがなく、何も触ったことがない脳のはたらきなどありえない、ということだ。つまり、先験的な脳のはたらきなどないのだ。論理的に、ありえないではないか。
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意識は、つねに何かについての意識である。
その「何か」という対象を持たない意識など、論理的にありえない。
はじめに意識があって、「何か」に気づくのではない。「何か」によって意識が発生するのだ。
したがって、「意識の志向性」などというはたらきもない。
「脳の環境」が脳を動かしている。
生まれ出てきた赤ん坊は、まずこの世界の「空気=空間」に体が触れる。それによって意識が発生し、おぎゃあ、と泣く。
生きものは、「何か」を見たり、聞いたり、匂ったり、触ったりする。そのあとに、脳が動き出すのだ。
「脳の環境」が貧弱であれば、脳のはたらきも貧弱になる。だから、アインシュタインは上手に家を建てられない。
「脳の環境」が豊かになれば、そこにおいて脳のはたらきも活発になる。それだけのこと。優秀な脳があるのではない。脳そのものは、みんなたいして違いはないのだ。
「脳の環境」がいびつであれば、脳のはたらきもいびつになってしまう。
精神を病んだとき、「脳の環境」が変わらないかぎり、薬で対症療法を施しても、完治はしない。
脳をいじくっても、精神の病は直せない。彼は、脳のはたらきがいびつになってしまうような「脳の環境」を抱えてしまっているのであって、脳そのものの構造が異常であるのではない。むしろ「いびつ」になってしまうというそのことが、正常な脳であることの証しなのだ。
異常な脳だから統合失調症になるのではない、統合失調症になったから、脳に異常をきたすだけのこと。だから、薬で症状を和らげることはできても、そのような「脳の環境」を抱えているかぎり、根治することはできない。
すなわち、「心」の問題なのだ。「脳」の問題ではない。だから「唯脳論」なんてくだらない。優秀な脳、などというものはないのだ。
みんな、たいしてかわりばえのしない「人間の脳」を持っているだけのこと。
脳などというものは、ただの「電話交換室」にすぎない。話すのは、あなたの「心」であり「脳の環境」なのだ。
脳が人の「心」を決定できるわけではない。
脳は、「心の師」ではない。
「心の師」などというものがあると思っているのが「唯脳論」であり、そういうイデオロギーこそまさに、現代社会の病理そのものなのだ。