祝福論(やまとことばの語源)・「あはれ」と「はかなし」1

唐木順三氏は、「無常」という著書の中で、<日本列島の住民のこの生に対する感慨の原型は「あはれ」と「はかなし」があり、それが中世以降の無常観として傾斜し定着していった>といっておられる。
「あはれ」と「はかなし」は、似ているようで、ちょっと違う。
それらのことばに対する一般的なイメージをおおざっぱにいえば、「あはれ」の感慨のほうが普遍的客観的で、「はかなし」というと何か個人的主観的な感慨のようなニュアンスがある。
いずれにせよ、その語源を考えるとき、研究者はみな、古事記万葉集源氏物語などの文献を引き合いに出して、その範疇でかたをつけてしまおうとする。
しかしたぶん、「あはれ」も「はかなし」も、それらの文献があらわれるよりもずっと前からあったのだ。もしかしたら縄文時代から使われていたかもしれないし、弥生時代には当然あっただろう。したがって、それらの文献にあらわれたときは、すでに語源のかたちから変質してしまっているのかもしれない。
そして、変質するなら、するなりの必然性があった。もちろん研究者たちもそこのところは考慮しているらしいのだが、彼らは文献にとらわれすぎて、考慮の仕方がいまいち踏み込めていない。
踏み込みが甘いボクサーのパンチは相手に届かない。寸前のところでかわされてしまう。彼らの語源に対する思考は、何かそのような隔靴掻痒の気配がある。
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「あはれ」ということばは、現代においても、すでに紫式部源氏物語のころとは、ずいぶん違ってきている。
現代語としての「あわれ」は、「みじめ」とか「みすぼらしい」というようなニュアンスのほうが強い。
しかし、源氏物語で多用されている「あはれ」のニュアンスが語源のかたちかといえば、そうではないかもしれない。
「あはれ」の「あ」は、「あ」と気が付く感慨、あるいは「ああ」という詠嘆。後に続くことばを「強調」している。
では「はれ」の語源は、どういうかたちだったのか。
空が晴れているときの「はれ」。それは、もっとも原始的な感慨のひとつだろう。おそらく、人類の歴史がはじまったときから「はれ」という感慨はあったに違いない。
原初の人類は、二本の足で立ち上がったことによって、「空」と出会った。その出会いのときめきから、人間の歴史がはじまっている。最初はアフリカの森の中で暮らしていた人類が250万年前にサバンナの草原に出てきたのも、「空」に対するときめきにうながされたことだったのかもしれない。
晴れた空に対する感慨から、「はれ」ということばが生まれてきた。
「は」は、「空間」の語義。「れ」は、「だれ」「それ」「あれ」「これ」の「れ」、「方向」の語義。
何もない広々とした空間、それを「はれ」という。その空間に気づく感慨を「あはれ」という。「あ、空が晴れている」「ああ、空が晴れている」という感慨、詠嘆。
それはたぶん、とてもさわやかな感慨の表出だったのだろう。
そこから、すっきりとしていること、わかりやすいことも、「あはれ」というようになっていったのかもしれない。ただの「空」だけのことではないから、「あ」という音韻を付け加えたのかもしれない。
「あっぱれ」ということばは、「あはれ」がなまったものだろう。漢字で「天晴れ」と書く。とすればこのことばは、「あはれ」の原初的なかたちを残しているのかもしれない。「あはれ」ということばは、おそらくそういうニュアンスだったのだ。
空が晴れてすっきりとさわやかであることや、そのような感慨全般のことを「あはれ」といった。
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それがなぜ、源氏物語のころの、あわれではかないことをいうようになっていったのか。
それは、「何もない」ことをあらわすことばだったからだ。
時代が変わって、人々が定住し、生産力が上がり、共同体が発展してくると、死の恐怖が芽生え、この生やこの世界は何なのだろうという感慨が深くなってくる。
そうして、この生もこの世界もないも同じではないか、という思いが湧いてくる。そういう無常観とともに、「あはれ」ということばを紡ぐようになってきた。
ただ、古代には「無常」ということばが定着していなかったから、「あはれ」とか「はかなし」といっていたのだろう。
そういう「無常」の無意識は、おそらく縄文時代からあった。だから彼らは、共同体をつくったり農耕生活をしたりしていい暮らしをしょうとする欲望を持たずに、ひたすら男と女の出会いのときめきを第一とする生き方を続けていた。
縄文人は、農耕や共同体を知らなかったのではない。稲作農耕など縄文中期にはすでに遊びで始めていたし、群れが大きくなり過ぎるとすぐ壊して移住していった。彼らは、そういうものに対する欲望を持たなかっただけなのだ。
そうしてその伝統は、万葉集から平安朝の女流文学へと引き継がれてゆき、王朝の男たちが共同体の権力闘争に明け暮れるそんな時代になっても、女たちはまだ男と女の出会いのときめきこそがこの生のすべてだというような生き方感じ方をしていた。
男と女の出会いのときめきこそすべてだという感慨は、ひとつの無常観であり、そこから「あはれ」とか「はかなし」ということばが生まれてきた。
日本列島における「無常」は、まず女によって見出されていったのだ。
女たちが、ほんらいすっきりとさわやかであることを意味したはずの「あはれ」ということばを、「無常」という意味に変質させていった。
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もののあはれ」という。存在そのものが無常である、という感慨。「あはれ」とは、「もの=存在」に対する感慨であり、抽象的には、心にまとわり付いてくるものに対する感慨をいう。
「ものめずらし」というときの「もの」は、「めずらし」ということばにまとわり付いてそれを強調している。
まとわり付いてくることの存在感を持った「もの」でさえ「あはれ」な対象でしかない、つまり、そういう大切なものでさえ「あはれ」でしかない、という感慨を、「もののあはれ」という。
それに対して「はかなし」は、まとわり付いてくるもの(大切なもの)がないという、その「ない=空間」に対する感慨を表すことばである。
この世界の存在ものの根源的な「不在性」を「もののあはれ」というのだとすれば、「はかなし」は、存在に対する不在の感慨、そういう限定された空間の不在性をあらわすことばである。
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もののあはれ」というように、世界の存在(もの)に対する感慨が「あはれ」であるとすれば、「はかなし」は、世界の中の空虚や空間に対する感慨である。「もの」に対する感慨が「あはれ」であるなら、「もの」と「もの」のあいだの「空間」に対する感慨が「はかなし」である。そういうニュアンスの違いがある。
「はか」とは「区画の単位」をあらわすことばである、というのが一般的な語源解釈である。
田植えのとき、植えた稲株と稲株のあいだの空間や、仕事をする一区切りの区画のことを、「はか」といったのだとか。
では、日本列島に稲作農耕が定着する前や稲作農耕をしていない土地には「はか」ということばはなかったかといえば、そんなこともないだろう。
「墓(はか)」ということばがいつごろからあったのかはわかっていない。このことばはもともと「忌詞」で、表立って使われることはなかった。
「墓」という漢字は「土を盛り上げる」という意味で、そうやって埋葬したその部分だけは他界という別の「区画」であるという意味で「はか」といった、と語源辞典に記されている。
「はか」の語源は、「区画」という意味にあったのだろうか。
おそらく、そうではない。
最初は、「はか」という音声がこぼれ出る感慨を表出することばだったのだ。
それがやがて、農耕生活とともに「区画」という意味を生じるようになっていった。
なぜそれが、「区画」という意味になったのか。そこを問わなければ、語源まではたどり着けない。
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結論から先にいってしまえば、「はか」とは、何もない空っぽのことをあらわすことばだったのであり、それが語源なのだ。
「墓(はか)」とは、命がなくなって空っぽになってしまった人の体が埋められているところ、という意味。
縄文人が栗拾いに行く。栗のイガを見つけて開いてみたら、中味は空っぽだった。そういうときに「はか」といったのだろう。
誰かの家を訪ねていったが、家の中には誰もいなかった。ああ「はか」だった。
何もないこと、空っぽであること、そういうことに気づく感慨から「はか」ということばが生まれてきた。
そこから、物と物のあいだの空間・距離、すなわち「区画」のことを「はか」というようにもなっていった。「区画」を、「物」ではなく、物と物のあいだの空っぽの「空間」として見る視線、それがやまとことばのタッチなのだ。
日本列島においては、「区画」は、「物」ではなく「空間」である。そこのところろを、唐木順三氏も語源学者たちもわかっていない。
つまり誰もが、「はかない」とは、「はか・ない」であるという。「区画」という「物」がないことを「はかない」という、と。
そうじゃない。「はか」という言葉自体に、最初から「はかない=何もない」というニュアンスがあったのだ。それに「な」という形容詞の語尾つけて「はかな」になり、時代とともに「はかな」の感慨がなおいっそう深くなってきて、さらにだめを押すように「し」まで付け加えて「はかなし」になった。
「な」も「し」も形容詞の語尾であって、「なし=ない」ではない。
「大きな」「小さな」「おかしな」「きれいな」、というではないか。それと同じ「な」なのだ。
「やさし」「かなし」「うれし」「たのし」、というではないか。それと同じ「し」なのだ。
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「もの」と「もの」のあいだの「空間=すきま」を「はか」といった。
「は」は、「空間」の語義。「はあ」とため息をつく。「はあ?」と問うて不安になる。そういう「ない」ことに対する感慨を表す音韻である。
「か」は、「離(か)る」の「か」。古代人は、離れることを「かる」といっていた。稲を「刈る」ことは、稲と茎を切り離すことである。「駆る」は、もとの場所から離れてゆくこと。
「か」と発声するとき、息が口の中らきれいさっぱり離れていって、口の中が何か真空になったような心地がする。「離れる」ことに対する感慨から、「か」という音声がこぼれ出る。
「はか」という音声がこぼれ出る感慨は、気持ちが空っぽになってしまうことにある。たしかな気持ちが胸から離れて、胸の中が空っぽになってしまうこと。
「はか」の語源は、「空っぽ」「何もない」ということ。
そこから、「もの」と「もの」のあいだの空間(スペース・距離)、すなわち「区画」のことを「はか」というようになり、さらには、望みがないことやありえないことを、「はかな」というようになっていったのだろう。
唐木順三氏や語源学者たちは、「はか」を「たしかな区画」というように解釈しておられるが、「はか」は、「たしかな」ものをあらわすことばではないし、そんな語感でもない。
「はか」ということばそのものに、すでに「はかなくたよりない」感慨がこめられている。
「はかなげ」などというように、「し」がなくてもこのことばは成り立つのであり、したがって、「はか」がない、というかたちの「なし」ではない。
「はかな」という感慨がさらに深くなって、「し」が付け加えられた。
「し」は、「しーんと静か」の「し」、「静寂」「孤立」「固有性」の語義。「まことにそのようであることだ」という感慨を込めて、形容詞の最後に「し」という。
「な」は、「なれる」「なじむ」の「な」。「親愛」「憑依」の語義。
「かなし」は、もともとは、人と別れたりものを失くしたりしたときの喪失感をあらわすことばだった。「か=離(か)る」という音韻だけで、人と別れたりものをなくしたりすることをあらわしている。したがってこのことばもまた、「か」が「なし」といっているのではない。「か」という「離れる」ことにを表出することばに、形容詞の語尾である「な」が付き、さらに「し」がくっ付いて、その喪失感が強調されていっただけであろう。
で、「かなし」が「離れる」ことに対する感慨であるとすれば、「はかなし」は、その離れている「空間=すきま」に対する感慨である。
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「はかなし」の語源のかたちは、「はかな」である。
「バカな」という、「そんなバカな……」。「バカ」とは、頭の中というその限定されたスペースが空っぽ、という意味である。したがって、「はかな」と「バカな」は、同じことばだともいえる。
「そんなバカな」といえば、その限定されたそれだけがありえない、という感慨であり、
おそらく語源としての「はかな」もまた、「ありえない」というような意味だった。
存在に対する不在、それを「はかな」という。そしてその感慨がさらに深くなっていって、「し」が付け加えられた。
「はかな」とは、「もの」と「もの」のあいだの限定された空間(スペース)の「不在性」「むなしさ」のこと。
「命のはかなさ」といえば、それは、誕生から死までのあいだの限定された空間(スペース)の「不在性・むなしさ」のことである。
「墓(はか)」とは、「区画」という物性をあらわすことばではなく、「命の不在」をあらわしている。
「もの」を見るのではなく「もの」と「もの」のあいだの「不在=空間」を見る視線から、「はかな」ということばが生まれてきた。
原初の日本列島の住民は、「不在=空間」をとらえる意識が鋭敏だった。その伝統が現在まで引き継がれているのかどうかはにわかに判断できないところだが、ともあれこれは、根源的な意識なのだ。
身体は、「もの=存在」ではなく、この「世界=もの」の中の「空間=すきま」である。
直立二足歩行は、身体をそのように扱うことの上に成り立っている。それは、身体を忘れてしまう行為である。身体を「存在=もの」だと意識すれば、なんとも居心地が悪くて立ってなどいられない。忘れてしまうことによって、はじめて立っていられるのだ。
人間を人間たらしめている根源的な意識は、「不在性=空間」を認識する意識である。
西洋の近代合理主義が標榜する「存在=もの」を認識する意識ではない。
「はかな」は、きわめて原初的なことばであって、近代的な自我意識から生まれてきたのではない。
まあ、「はかな」に「し」を付け加えたのは、平安王朝の女流文学者たちによる自我意識かもしれないのだが。
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「はかどる」という。これを辞典などでは、「(仕事の)成果を得ること」と説明している。
つまり成果という「存在=もの」を得ることだ、と。
そうではない。やまとことばのタッチは、「存在=もの」に対する認識を基礎にしているのではない。
「はかどる」とは、終わってしまってもうする必要がないという、その「ない=不在性」を獲得することなのだ。
「はかどる」とは、成果を得る充実感をあらわすことばではない、する必要があることがどんどん少なくなって、気持ちが軽くなってゆくことをあらわしている。
成果を得る充実感など、欲望の肥大化した近代人の意識であって、古代人は、気持ちが軽くなってさっぱりするカタルシスを汲み上げて生きていたのだ。
いや、現代人だって、仕事がはかどることの心地よさは、おおむねそんなところにあるのではないだろうか。成果を得ることの充実感に舌なめずりしながら仕事をしている仕事の亡者や金の亡者なんか、おそらく一握りの人種だけだろう。そんな心の動きは、「欲望の肥大化」という近代の病理にほかならない。
近代の病理に犯された欲望の亡者が、辞典の編纂をしているらしい。
またその大仰な辞典では、謡曲「悪源太」の中の「正しき主の重盛を捨てて行方も知らず逃げしやつが討手とは、はかばかしや」という一節の「はかばかし」は、「けなげである」「ものものしい」という意味である、としている。何をとんちんかんなことをいっているのだろう。「はか」という「区画」を「存在=もの」だと考えているから、そんないい加減な解釈になってしまう。
どう考えてもそれは、「ろくなもんじゃない」とか「ばかばかしい」といっているだけだろう。
この場合の「はかばかし」は、そのまま「ばかばかしい」でいいのだ。何の威圧感も成功の可能性もない、というその「不在性」をいいあらわしているだけだろう。
そういう「不在性=空間(すきま)」に対する視線が、やまとことばのタッチなのだ。
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「あはれ」が、世界=存在のむなしさや陰影をあらわすことばだとすれば、「はかなし」は、不在であることのむなしさ、すなわち世界の中のみずからの存在に対する疎外感を表出している。
「花が散る」ことを「あはれ」というとき、花が散る情景そのものを世界=存在として認識した上での感慨であるが、「はかなし」というなら、それは、花びらが世界の中の居場所を失ってゆく情景であり、そこにみずからのこの世界に対する疎外感を投影している。
「はかな」「はかなし」は、平安王朝の女流文学者の、政治や権力闘争に明け暮れる男社会に対する疎外感とともに生まれてきた。
「あはれ」は、すぐれて無常観的であるがゆえに、そのほんらいの意味はやがて隆盛してくる「無常」ということばに吸収されてゆき、現在ではもうかなり意味合いが違った使われ方をしている。
それに対して「はかなし」は、いまなおほんらいの意味をとどめながら生き延びてきた。
「あはれ」は、宗教的論理的男社会的な「無常」という言葉に吸収されてゆき、「はかなし」は、その後の「幽玄」や「わび」「さび」「すき(数寄)」「すさび」などの芸術表現と寄り添うようにして生き延びてきた。
命にはかぎりがある、というのが「あはれ」であり「無常」であるのなら、「はかなし」は、その命すらも「ありやなしや」と問うてゆく。
日本列島的な「無常」というなら、むしろ「はかなし」のほうにあるのかもしれない。その「疎外感」という「空間意識」は、けっして世界的ではないのだろうが、そこにこそ人間の心の動きの根源的なかたちがあるのではないかとも思える。(つづく)