祝福論(やまとことばの語源)・「あはれ」と「はかなし」2

「はかなし」とは、一般的にいわれているような、「はか・なし」すなわち「はか=区画」(という確かなもの)がない、という意味ではない。
「はか」ということばそのものに、もともと「空っぽ」という「はかなし」のニュアンスがあったわけで、その「空っぽ=はか」に対する「な=愛着」の感慨から「はかな」ということばが生まれてきて、さらには世界のあり方もみずからの生ももうこれしかないという「し=疎外感」が付け加わって「はかなし」となった。
「はかなし」の「なし」は、「ない」という意味ではない。「はか=空っぽ」という事態に対する深い嘆き・詠嘆をあらわす音韻なのだ。
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「なぜ」のことを「なして」という地方がある。「なして、そんなことをしたのか?」という。
「な」は、「愛着」「憑依」「確信」の語義。
「し」は、「静寂」「固有性」の語義。
「なし」とは、固有の事実(真実)。
さっぱりと何もないことほどたしかなこともない。何かがあれば、それは何かを確かめなければならない。日本列島においては、「確信」という心の動きは、何もない状況においてのみ体験される。だから、「なし=ない」という。
そして「て」は、「照る」の「て」。「証明」の語義。
なぜそんなことしてしまったのかは、してしまった本人だけが知っている事柄である。「なして」とは、その人だけが知っている固有の真実を明らかにすること。明らかにせよ、と問うことば。
「なし」とは、「確信」の語義。つまり、「はかなし」とは、「まことにもって<はか>であることよ」という感慨・詠嘆の表出。
「うれしいでなし」とか「恥ずかしいでなし」と、「なし」でみずからの感慨を強調する地方がある。「そうだなもし」などと、「なもし」という地方もある。おそらく「なし」のバリエーションなのだろう。リズム感の問題だ。「なもし」といったほうが、後のりで、スイングしている。
この場合の「なし」は、おそらく東国のことばである。それが、大和朝廷の発展とともに畿内地方に伝わり、「はかなし」ということばが生まれてきた。「かなし」は、信州あたりが発祥の地らしいが、「はか」+「かなし」で、「はかなし」となったのかもしれない。
(ちなみに、「なもし」は四国松山あたりの方言らしいが、これは、江戸時代になって四国の宇和島藩が東北の伊達家の分家になったところから来ているのかもしれない。)
いずれにせよ「なし」は、日本列島の住民お気に入りの、深い思い入れがこめられた詠嘆の表現なのだ。
「はか=確かなもの」が「なし=ない」、という意味ではない。既成の語源辞典なんか、みんなそのていどの解釈ですませてしまっている。
「はかなし」は、日本列島のもっとも深い「詠嘆」の感慨を表すことばである。誰だってその語感から、「詠嘆」の響きを感じるだろう。ただ「<はか(=確かなもの)>がない」とそっけなく意味を説明しているだけのことばではなかろう。語源辞典の編纂者たちは、古代人のそういう心の動きに推参してゆくことに失敗している。
あなたたちの思考は、踏み込みが甘い。研究者の考えることなんて、しょせんそのていどなのだ。
「はか」ということばに「確か」という意味があるのではない。「なし」にこそ、「確かにそうだ」という感慨がこめられているのだ。
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「はか」の語源は、「空っぽ」「何もない」ということにある。それはとても根源的な感慨で、そのことばは、おそらく縄文時代からあった。
縄文人は、その「何もない」ことの嘆きを、そのまま「はか」ということばで表現した。彼らは、その嘆きをそのまま受け入れて暮らしていた。だから、共同体をつくらなかったし、うまいものを食いたいとかその他もろもろの生活の欲望を必要以上に肥大化させるということもしなかった。そのあたりの心の動きは、現代人とずいぶん違う。
「何もない」青い空を眺めることは、ひとつの悲しみであると同時に、心がさっぱりするするカタルシスでもある。彼らは、そういう心の動きをわれわれ現代人よりずっと深く豊かに体験して生きていた。そして「何もない」という事態と和解することができなければ、「死」の問題も解決しない。
現代において、いたずらに死の恐怖が肥大化しているのは、「何もない」という事態と和解できるカタルシスを喪失しているからだ。
縄文人は、その当時の世界でもっとも高度な石器を持ち、漆塗りの技法も知っていた。そして稲作農耕をすることもできたが、それを本格的にはじめて米を主食にしようとするような欲望もなく、主食はあくまでどんぐりや栃の実などでまかなっていた。そんなことにかまけることよりも、男と女の出会いのときめきのほうがずっと大切で、ペニスをかたどったオナニーの道具などはしっかりつくっていた。そういう社会だった。
彼らは、「何もない」という嘆きをカタルシスとして汲み上げてゆく心の動きを持っていた。そういう心の動きから「はか」ということばが生まれてきた。
「はか」ということばには、「何もない」ことに対する「嘆き」がこめられており、「はか」という音声を発するときの心がさっぱりと洗い流されてゆくカタルシスがある。「何もない」ことほどさっぱりしていることもない。縄文人は、そういうカタルシスを知っていた。日本列島のそういう伝統が、平安時代の女流文学者たちに引き継がれ、「はかな」や「はかなし」ということばになっていった。
日本列島の住民には、「はかなし」という音声を発せずにいられないような心の動きの伝統があり、それは、「けがれ」という嘆きの意識から生まれてきて、「はかなし」と発しながらそこからカタルシスを汲み上げてゆくことにある。
平安時代の王朝文学の「はかなし」は、「けがれ」という嘆きの深さから生まれてきた。
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「はか」ということばは、おそらくそうとう遠い昔から使われていた。
したがってそれは、弥生時代以降の古代においては、土地の区画や物と物との間隔を表す単位として「ひとはか」「ふたはか」などと計量する単位としても使われていたのだが、「墓(はか)」ということばだけは禁句(忌詞)になっていた。
天皇の墓は、「陵(みささぎ)」といった。それはたぶん、民衆がつくって天皇に「ささげる」ものだったからだろう。奈良盆地の巨大な前方後円墳は、権力者がみずからの威光を誇示するためにつくられたのではない。民衆が「ささげる」ものだったのだ。日本列島の天皇と民衆の関係の歴史はそのようにはじまり、今なおおおむねそんな関係なのだ。
「墓(はか)」ということばは古代にもあったはずだが、文献には出ていない。
「墓」の「はか」も、とうぜん「何もない」という意味のはずだが、仏教伝来と共同体の発展によって、日本列島土着の宗教である神道的な「死=何もない」という生命観が否定され、それは忌避すべき生命観になっていった。
「墓(はか)」ということばはあっても、それを使わないのが日本列島の住民のたしなみになっていった。
ことに支配階級では、厳然とした禁句であったらしい。
「墓(はか)」とは、命を持たない人が埋められている場所のこと。そこにはもう命が存在しない、という感慨を込めて「墓(はか)」といった。
しかし仏教が伝来し共同体が発展してきた古代になると、そこに死者の霊魂がひとつの命として眠っている、という生命観になってきた。
そうして支配階級のものたちは、霊魂の永遠を信じようとした。「死んだら何もなくなってしまう」ということを認めたくなかった。彼らにとって「何もない」ことは、もはや恐怖だった。つまり、「何もない」ことからカタルシスをくみ上げてゆくという心の動きをすでに失っていた。
彼らの欲望はすでに肥大化しており、「ある=存在」にしかよりどころを見出せなくなっていた。
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「何もない」ことは、そこからカタルシスをくみ上げることができないかぎり、恐怖であり、忌避すべき事態である。
人は、生れ落ちて、まず「何もない空間」と出会う。それを肌で感じ取り、おぎゃあ、と泣く。それはきっと、恐怖を感じている泣き声なのだ。
それまでは体内の羊水にくるまれていたのだから、その「空間=空気」との出会いは、いわばおそれおののく未知との遭遇だったはずだ。
その恐怖に追い立てられるようにして赤ん坊は、母親のおっぱいという「物性」にしがみついてゆく。
その「何もない」空間と出会った恐怖がなければ、おっぱいにしがみついてゆくということも起きないのかもしれない。
何ごとも「契機」というものがある。
赤ん坊にはおっぱいにしがみついてゆく生きものとしての「本能」がある、などという言い方を、僕は信じない。
赤ん坊にも、おっぱいにしがみついてゆく「理由=契機」があるのだ。
われわれは、この世界の「何もない」空間に対する恐怖を根源的に抱えている。それが、赤ん坊がおっぱいにしがみつく「理由=契機」であり、平安時代において「墓(はか)」ということばが忌避されてきた「理由=契機)」なのだ。
「墓(はか)」ということばは忌避されても、「はかなし」ということばは止揚されていった。
すなわち人は、「何もない」空間に対する根源的な恐怖を抱えていると同時に、心や体がよどんでゆくことの「けがれ」を自覚する身として、その「何もない空間」こそが心や体がさっぱりと洗い流されるカタルシスにもなっている、ということだ。
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赤ん坊が母親のおっぱいにしがみついてゆくとき、みずからの身体のことは忘れている。みずからの身体は「何もない」空っぽの空間になっている。そのカタルシスとともにおっぱいを吸っている。
と同時に、おっぱいの「物性」にときめいている。おっぱいの物性が、みずからの身体を忘れさせてくれている。
胎内においては、みずからの身体は「何もない」空間で、世界は羊水の物性として存在していた。それが、生れ落ちて、世界が「何もない」空間でみずからの身体が物性を持った存在として感じられる、というふうに逆転し、そのことに驚きおののいた。
そうして、おっぱいの物性と出会うことによって、ひとまずもとの落ち着きを取り戻す。
われわれのカタルシスは、身体が「何もない」空間として感じられることにある。
そのカタルシスを置き去りにして、「何もない」空間そのものを消去してゆくのが、共同体のいとなみである。
共同体とは、「何もない」空間に対する恐怖を消去する装置である。共同体が存在すること、すなわち権力や金や名声とともに「自我」を手に入れることは、この世に生れ落ちたときの「何もない」空間に対する恐怖を消去することである。権力や金や名声、すなわち共同体のシステムは母親のおっぱいであり、自我を確立することは、「何もない」空間に対する恐怖と「何もない」空間それ自体を消去する行為である。
共同体に寄り添おうと共同体に異をとなえようと、どちらも「自我」を確立しようとする観念の裏表にすぎない。どちらも、共同体にしがみついている。
そうやって「自我」とともにみずからの身体に「物性」を付与してゆくことによって、人は、みずからの身体が「何もない」空間になるというカタルシスを喪失してゆく。
みずからの身体存在を「何もない」空間と感じながらカタルシスをくみ上げてゆくことは、共同体から離脱(逸脱)することである。そういう行為として人はセックスをするのであり、またそういう行為として芸術が生まれ、「はかなし」ということばが生まれてきた。(つづく)