閑話休題・レイプ、という問題

作家の曽野綾子氏が「レイプをされたくないのならミニスカートをはくな」というような発言をして、世の多くの女性の物議をかもしているらしい。
それじゃあまるで、レイプされるほうが悪い、と言わんばかりではないか、と抗議する人たちがいて、それはまあそのとおりだと僕なども思うのだが、じつはその一方で、曽野綾子氏の言う通りだ、何をふざけたことを言ってやがる、と抗議する女性たちをことばでレイプしてしまおうとする男たちも意外にたくさんいる。
あきれるくらいたくさんいる。
そういうまっとうな抗議の意見を書いた女性のブログに、どっと非難のコメントが集まったりして、僕なんかはもう、いったいこの国はどうなっちまっているのかと思ってしまった。
そういうのって、何か自分のインポ状態(あるいはそれに類する状態)、さらには自分がもてない男であることをさらけ出しているみたいじゃないですか。
よく恥ずかしくないものだと思うし、そんな意見が正義として通るつもりでいるきちがいじみた頭の中味というのは、いったいどうなっているのだろうか。そういう男がこの世にわんさかといるということは、いったいどういうことだろうか。
まったく信じられないのだが、これが現実なのだ。
僕は、世間知らずだ。
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女は挑発する性である、それによって男は欲情勃起する……これは、西洋的な考え方です。
西洋人は、女の尻や胸を強調する衣装を考え出した。
西洋の歴史は、そのようになっている。
西洋人は、ほんらいアフリカで発生した熱帯種であったはずの人類の歴史において、最初に寒い地域に移住していった人種です。
それがおよそ、50万年前。氷河期のドーバー海峡を渡っていった人類がいる。2,3万年前にいきなりアフリカから移住していったのではない。50万年前から、その間幾度となくやってきた氷河期をを潜り抜けてそこに住み着いて暮らしてきたのが、西洋人の歴史です。
また、アイルランドスカンジナビア半島などの北欧系の人種が、たとえばローマ帝国に追われてそこに逃げ込んでいった人々の子孫だというのは間違いで、西洋人は、何十万年も前から、すでにそんな極北の地にたくさん住み着いていたのです。
しかも原始時代は、北に行くほど人口密度が高かった。なぜなら、そんな寒いところでは、たくさんの人たちが寄り集まっていなければ生きてゆけない。10人や20人の群れで生きてゆけるところではない。
また、マンモスをはじめとする大型草食獣は、大勢のチームプレーでなければ狩をすることができない。これは、時代をさかのぼればさかのぼるほどそうだったはずで、石器も知恵も未熟であるのなら、もう大勢でがんばるしかない。
だから、原始時代の北の地方は、人口密度が高かったのです。
たぶん、ローマ帝国に追われてそこに住み着いていった人々など、その地の少数派だったのだ。彼らがそこに住み着いたということは、すでにそこにたくさんの人がいた、ということです。
べつに、無人の原野を切り開いていったのではない。
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遠い原始時代にそんな極北の地で暮らせば、とうぜん乳幼児の死亡率はきわめて高い。
だから、群れの個体数を維持するためには、それを追い越す勢いで産み続けていかなければならない。一人の女が生涯で十人も二十人も生まなければ、群れは維持できなかった。
5万年前以前の原始人の平均寿命は、30数年。それくらいのペースで産み続けるためには、生まれた子供は、母親一人ではなく、群れで育てるしかない。
西洋人の群れ意識が強いのは、そんなあれやこれやの伝統があるからだ。そして群れ意識が強いから、かえって大きな国家ができない。あるていどまで大きくなると、それ以上大きくなれないほどに群れが完結してしまう。それが、西洋の「都市国家」の伝統なのだ。
問題は、ここからだ。
大勢で狩をするというのは、強姦みたいなものです。
一対一の勝負じゃない。大勢になるということは強い立場のものになるということであり、そうして弱い草食獣をしとめる。そうしないと、原始時代の狩は成り立たなかった。
群れの大勢で子供を育てるということは、強姦のようなものです。そうやって育てられた子供は、母親との一対一の関係を知らず、大勢から支配されたというルサンチマンを抱えながら「自我」を肥大化させ、大人になれば逆に大勢で個人を支配するという共同体のシステムを自然に身に付けてゆく。
共同体のシステムとは強姦のようなものであり、強姦は、共同体のシステムの上に成り立っている。
女を強姦してもいいという論理や強姦したいという衝動は、大勢が個人を支配する論理から生まれてくる。西洋人は、そうやって狩をし、そうやって子供を育ててきたという伝統を持っている。
そういう伝統を持っているから、彼らは人類の歴史でいち早く共同体をつくり、いまだにレイプが絶えない状況も抱え込んでいる。
共同体の支配に対するルサンチマンと、共同体の支配の論理を身にしみつかせてしまった意識から、強姦の衝動が生まれてくる。
それは、強い集団が弱い個人を支配する、という論理だ。
西洋人の男は「強い集団」になろうとする衝動を持っている。「強い集団」になること、すなわち個人として「強い集団」になることが、西洋人の「自我」のかたちである。
それが、強姦の衝動になる。それは、「自我」を確立しようとする衝動である。
共同体に対するルサンチマンと親密感、それが、強姦の衝動になる。父殺しの衝動と、父になろうとする衝動。それが、、強姦の衝動になる。
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昔は大久保清、近頃なら千葉の女子大生を殺した犯人、それがサンプルでしょうか。
性欲と支配欲が結びついたとき、強姦の衝動になる。
「自我」を確立しようとする衝動が肥大化して、強姦の衝動になり、インポテンツにもなる。このへんの構造は、ややこしい。
内田樹先生のように「セックスだけが人生じゃない」と言っているのと、「強姦こそ男の根源的な衝動だ」というのは、たんなるコインの裏表であり、どちらも「自我」の病に取りつかれている。
強姦という現象は共同体が産み出したのであり、共同体の発生以前はなかった。
猿や鳥は強姦などしないし、共同体に支配されることを知らない自由な人間の男にもそんな衝動はない。
原子時代に、強姦などなかった。原始人は、われわれよりずっと知的だった。
それは、男の根源的な衝動でもなんでもない。
あえて言うなら、「家族の問題」なのだ。「家族の問題」から生まれてきた、その恨みがましい視線が、強姦の衝動になる。
過剰な家族は、欠損した家族と同義であり、その構造がややこしい。
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5万年前の氷河期、ヨーロッパの極北で暮らしていた人々は、大勢で寄り集まり、毎晩セックスし、たくさんの子供を産み続けていた。
同じ組み合わせのカップルが生涯毎晩セックスし続けることは、不可能だろう。
だから彼らは、絶えずパートナーを代えていた。絶えずパートナーを代えられるくらいの大きな集団で暮らしていた。
それに、集団で育てるのだから、誰の子供かということなどどうでもよかった。
大切なことは、毎晩セックスすること。抱き合っていないと、寒くて眠ることができない。そして、子供を産み続けなければ、群れが消滅してしまう。
しかし、女は毎晩でもセックスすることができるが、男のペニスが勃起することは、そうそう思い通りになることではない。
だから、女が挑発してやらねばならなかった。
西洋社会は、女が挑発する、という伝統を持っている。
挑発するのが女のたしなみであり、挑発できない女は女の値打ちがなかった。
挑発されてその気になるのは、いいことなのだ。
ただそれは、挑発されて勃起した男はやらせてもらえる、という合意が出来上がっていた社会での話である。
氷河期が明けて一夫一婦制の社会になり、その合意がなくなった。
それは、男たちが、「俺の女には手を出すな」と約束し合った社会だった。
しかし、社会の伝統がそうかんたんになくなるわけではない。
女たちは、いぜんとして挑発し続けた。
そして、毎晩やることが伝統の社会だから、それを守らない男は許されなかった。
同じパートナーと毎晩セックスすることは、かんたんなことではない。
女たちは挑発を続け、男たちは去勢(勃起不全)の不安を持つ社会になっていった。
妻以外の女の前なら勃起できる、それは、男の自然な生理だ。しかし、妻以外の女はしてはいけないのだから、もう強姦するしかない。
勃起できないことは、男としてのアイデンティティを失うことだ。
そういう不安から逃れるために、強姦に走った。
もちろん、狩の伝統があったということもあろうが、いちばん大きな要因は、去勢(勃起不全)の不安だったはずだ。
一夫一婦制で、しかも毎晩セックスするという暗黙の合意がある社会では、去勢(勃起不全)の不安が肥大化し、そこから強姦という現象が起きてくる。
勃起するから強姦に走るのではない。勃起したくて強姦に走るのだ。
挑発されたから、強姦をしたのではない。強姦をしたくて、強姦をしたのだ。
だから、強姦魔は、いつだって挑発などしないおとなしそうな女を狙う。
それは、チームプレーで草食獣の狩をするのと同じ行為であり、乳幼児期に大人たち(社会=父)に支配され続けたというルサンチマンの排出でもある。
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西洋の男たちのちんちんは勃起してもやわらかい、などとよく言われる。
それほどに彼らは、去勢(勃起不全)に対する不安を持っている。
それは、女が挑発し、夫婦は毎晩セックスすることが義務のようになっている社会に置かれているからだ。彼らは、毎晩勃起しなければならないという強迫観念を、歴史的無意識として抱えてしまっている。
セックスをしなければならない社会だから、ポテンシャルが弱くなる。
だから彼らは、してはいけないセックスをしようとする。
してはいけないセックスをするとき、ポテンシャルは高くなる。
彼らは、セックスをしなければならない、という強迫観念を持っている。そこから、レイプの衝動が生まれてくる。
性欲が強いからではない。そんな男の性欲など、マスターベーションでけりがつく。
レイプに向かう衝動は、生き物のオスとしての根源的な衝動などではない。猿や鳥でさえ、やらせてもらおうとあんなにも涙ぐましい努力をしている。人間だけが、そんなことをしたがる。それは、人殺しの衝動と同じなのだ。相手の人格や身体を蹂躙しようとしているのだから、人殺しの衝動と同じだろう。
彼は、レイプをしたい、と思った。この世の中には、レイプのときにこそもっとも強く勃起する人種がいる。普通の男は、女に拒絶されたら、ちんちんは萎えてしまう。しかし彼は、その拒絶を蹂躙して、激しく勃起してゆく。それは一種の「ヘンタイ」であって、生きものの性衝動の普遍的なかたちではない。人間的制度的「ヘンタイ」。
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「自我の確立」という。
西洋人に「自我」は確立されていて、だから彼らのちんちんはやわらかく、日本列島の男の自我は希薄だから、ちんちんが硬い。そういう対比がある。
もともと日本列島は、レイプなどしなくてもちんちんが硬くなる社会だった。たとえば江戸時代の旅籠の飯盛り女とか、「やらせ女」がたくさんいて、その代わりやらせてくれないならあきらめる、という社会だったのであり、猿や鳥などの生き物の社会でもそうなっている。
原始人は、レイプなどしなかった。それでどうして、それがオスとしての根源的な衝動だと言えるのか。
人間の社会だけが、レイプという現象を持っている。おそらくそれは、西洋の社会で生まれてきた。きっと、戦争という人殺しと同時発生なのだろう。奴隷を使うということだって、一種のレイプに違いなく、彼らは、レイプによって、はじめてちんちんが硬くなる人種なのだ。
なぜなら、彼らは、「自我」を確立しているから。
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西洋人は、五十万年前の氷河期の極北の地に進出してゆき、集団で草食獣の狩をするという、レイプのようなことをしてその五十万年の歴史を生き延びてきた。
西洋には、一対一で狩をするという伝統がない。狩は、レイプだった。
そして、子供もレイプのようにして集団で育てていた。彼らは、集団に育てられて成長するという五十万年の伝統を持っている。そういう伝統を持っているから、彼らの「自我」は肥大化しているのだ。「自我」は、集団に対する意識として成長し、肥大化してゆく。
西洋は、レイプの文化の伝統がある。
「自我」は、集団(=システム)に対する意識であって、一対一の「他者」に対する意識ではない。
西洋人のちんちんがやわらかいということは、彼らは一対一の「他者」に対する意識が希薄であるということを意味している。彼らは、「他者」を「集団の視線」で見ている。そうやって「他者」を見てしまう五十万年の伝統を持っている。
「自我」が確立されているということは、集団から離脱しているところの孤立した「個人」としての視線を持っていない、ということである。
西洋人は「公共心」が高いということは、そういうことなのだ。彼らはつねに「集団」として他者を見ている。「個人」として見ていない。だから、「普遍的な真実」などというものを振り回し、他人に押し付ける。
一対一の個人と個人の関係においては、「普遍的な真実」など成り立たないのである。
たとえば、個人と個人の関係においては、相手が怒り出したら、たとえ相手が間違っていても、その場はもう、「ごめんなさい」と謝るしかないのである。その状況において、「公共性」とか「普遍的な真実」などというものは成り立たないのだ。
そういう孤立した「個人」としてタッチを、彼らは持っていない。
彼らは、あくまでも「公共性」や「普遍的な真実」を主張する。それくらい、「自我」が強い。それくらい自我が強いから、ちんちんがやわらかいのだ。ちんちんがやわらかい者は、レイプによってしか硬くならない。
彼らは、「公共性」とか「普遍的な真実」によって、他者を蹂躙する。それは、「レイプ」の文化だ。
彼らは、「レイプ」によって、「自我」を排出する。排出して、はじめて「自我」から解放される。
「自我」を契機としてレイプが起こり、結果として「自我」から解放されてちんちんが硬くなる。
たぶん、そうだ。「自我」から解放されなければ、ちんちんは硬くならない。そしてそれはまた、「公共性=普遍的な真実」を絶対的な「神」とする一神教キリスト教)の問題にもなってくるのだろうが、それだって彼らの五十万年の歴史の問題でもある。
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ペニスの筋肉は、不随意筋である。
「自我」の意志によって硬くなるのではない。
我を忘れてときめいているときに硬くなる。
言い換えれば、意識が「自我」に閉じ込められてしまったときに、世界(女)に対する反応を喪失し、勃起不全が起きる。
西洋人のいわゆる「去勢(勃起不全)の不安」は、彼らの意識が「自我」に閉じ込められていることから来ている。
「自我を確立している」とは、意識が「自我」に閉じ込められている、ということである。
女の裸を見て美しいと感じるのは「自我」のはたらきである。われわれは、それによって勃起しているのか。
そうではあるまい。セックスの現場においては、抱きしめた感触、触った感触、触られた感触、それによって勃起が果たされている。
見るということにおいても、そのときその場においてはもう、美しいか否かであるかということよりも、女の体であるということそれ自体に驚きときめいている。
女の性器が、美しいわけでもあるまい。おっぱいだって、触ればぐにゅっとゆがんでしまう。しかしそれは、男の体にはないものだ。そのことに驚きときめいている。
男の体ではないということ、すなわち「自分」ではないものとの出会いのときめき、そうやって「自我」から解放されることによって勃起してゆく。
男は、ダイナミックな勃起が起きるとき、「自我」に対する執着から解放されている。女だって、たぶんそうやって気持ちよくあえいでいる。
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筆下ろしにソープランドにいったのだがちんちんが立たなかった、という話しはよく聞く。
元気いっぱいでやりたくてうずうずしている若者に、どうしてこういうことが起きるのだろうか。
女から事務的に扱われたからか。
バカにされているような気がしたからか。
けっきょく、女と自分との圧倒的な経験の差に気後れしてしまったのだ。
つまり、自意識過剰になってしまった。「自我」に閉じ込められてしまった。
「自我」は、男を去勢する。
にもかかわらず、現代の男と女の関係は、「自我」と「自我」の戦いになっている。
女を誘惑することは、女の「自我」を無化してしまうことである。
それができないのなら、もう、レイプしてしまうしかない。
レイプする男は、女の「自我」におびえている。女の「自我」が、目障りでしょうがない。
レイプすることは、女の「自我」を蹂躙する行為である。
それさえできれば、ペニスは勢いよく勃起することができる。
しかしそれは、みずからの「自我を確立すること」ではない。そうなってはじめて、みずからの「自我」から解放される。「自我」と「自我」の戦いから解放される。
女の「自我」を意識しないですむから、安心してそこに「女の裸がある」ということだけに意識が集中できる。そうして、勢いよく勃起する。
女が「自我」を主張する世の中になってきたから、レイプ志望の男が増えてきたのだろうか。それとも、「自我」に閉じ込められた男が増えて、女の「自我」を必要以上に気にするようになってきたからだろうか。
現代社会に暮らすわれわれは、最初から相手の人格や自我など詮索せずに、妙な駆け引きもせずに、相手の存在それ自体にときめいてゆくというタッチを失いつつある。
無邪気に、そこに「女の裸がある」というそのことにときめいてゆくことのできる若者は、はじめてソープに行って勃起に失敗する、ということも、レイプをしないとちんちんが元気に勃起しない、ということもない。
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現代人は、社会に監視され、管理されながら、社会に対する「自我」を無際限に肥大化させてゆく。去勢(勃起不全)の不安やレイプの衝動は、その関係から生まれてくる。
少なくとも健全な勃起に必要なものは、その監視や管理に耐えることのできる自我を確立することではなく、そこから離脱して「自我」から解放されることである。
つまりさ、「やってあげる」とか「やっちまう」などという、そんな駆け引きじみた「自我」の優越感や征服欲は捨てて、「やらせていただく」という気持ちになれば、誰のちんちんも元気に勃起するはずである。
心底やりたいのなら、「やらせていただく」という気持ちになれるはずである。
この世に自分ほど浅ましくスケベな男もいない、と思うほどやりたいのなら、そういう気持ちになれるはずである。
男の性欲は、「征服欲」などではない。男だって、そんな俗っぽい生きものではない。男だろうと女だろうと、抱きしめあって肌と肌が触れ合うことのときめきは、人間存在の根源的な「疎外感」から生まれてくる。それは、征服欲などという社会的欲望ではなく、実存の問題なのだ。
男は、ミニスカートをはいているからやりたくなるのではない。女であれば、時代遅れのもんぺをはいていようと、男の格好をしていようと、やりたくなってしまうのだ。いまさらミニスカートなど見せつけられなくとも、やりたくてうずうずしているのだ。
さあ、どうする?