色好み・源氏物語の男と女1


ここでいう「女のかなしみ」とは、女の心はどこかしらで生きてあることからはぐれてしまっているということで、ナルシズムとかセンチメンタルとか、そういうニュアンスではないつもりです。まあ、男にとっては、女の心の謎の部分のことです。もしかしたら、女自身にとっても謎であるのかもしれない。そいうことを、ひとまず「かなしみ」と呼んでみることにしたわけです。
というわけで、そこのところを考えるために、「ここだけの女性論」はいったん中断し、吉本隆明の『源氏物語論』に対する感想を何回か書くことにしました。
源氏物語には、何か普遍的根源的な「女のかなしみ」が描かれてあるのではないか、という気がします。
と同時に、僕にとって吉本は反面教師であり、そこに書かれてある薄っぺらで下品な男と女の関係に対する解釈を検証しながらこの問題を考え直してみたいと思いました。
吉本隆明は、一部で「戦後最大の思想家」などといわれることもあって、まあ良くも悪くももっとも戦後的な思想家だったのでしょう。
つまり、この本にあらわれている吉本の考え感じ方を通して、今どきの女性論につながる戦後の男と女の関係の意識の一端がのぞけるのではないのか、という気もします。
この本を書いた吉本の生原稿とかゲラ刷りのチェックというのは、一面を塗りつぶしてしまうくらいにびっしり修正が書き加えられてあるのだそうです。解説者はそれを吉本の凄みとか偉大さであるというようなニュアンスで語っているのだけれど、ようするにそれほどに作為性や自己撞着の激しい人だったということです。
その作為性や自己撞着こそがまさに戦後日本のダイナミズムであると同時に病理でもあったわけです。
つまり、今どきの女性論がいい女や幸せになるための方法論をあれこれことごとしく書くのは、そのまま吉本隆明の作為性や自己撞着と一緒でしょう。吉本隆明にぜんぜん負けていないというか、吉本以上でも以下でもない。
そういう作為性や自己撞着の視線がこの「源氏物語」という普遍的ともいえる男と女の話をどのように分析・解釈したか、まずそこから考えてゆきたいと思います。


光源氏の母親の桐壺更衣は、光源氏を産んですぐに死んでゆきます。これが、物語のイントロです。
父の桐壺帝は後に桐壺更衣にそっくりの女を後妻に迎える。そして光源氏は、この継母の「藤壷」を深く愛して育ってゆき、やがて一晩だけむりやり迫って妊娠させ、藤壷はお産したあとにそのまま罪の意識とともに衰弱して死んでゆく。
そこで吉本は、光源氏の色好みはこの近親相姦願望からきていて近親相姦願望こそが人間の「エロス(=性衝動)」の本質である、といいたげな書き方をしており、読者としての僕はもう、ここでつまずいてしまいました。
この人はどうしてこんな薄っぺらで通俗的な解釈ばかりしたがるのだろう。いつだってそうです。
近親相姦願望だなんて、ゲスの勘ぐりもいいとこです。そしてこの視線がいかに戦後的な病理をはらんだものかということが、吉本シンパにはわからないらしい。たぶん彼らもまた、こんな中学生レベルのステレオタイプな解釈をしていい気なっている人種だから。
どんな若者だって、父親の後妻が若くて美人だったら興味を持ってしまいますよ。たとえば中学生くらいだったら、同世代の娘なんか大人のきれいで色っぽい女の生々しさに比べたらただの子供にしか見えないでしょう。
そんなもの、近親相姦願望でもなんでもない。死んだ母親とよく似ているといわれたって、死んだ母親その人じゃないことは当たり前すぎるほど当たり前の事実です。おまけに光源氏は、死んだ母親のことをまったく知らないのです。
そのころの貴族社会では、たとえ血縁でも血縁ではないかのような婚姻関係がいくらでもあり、あまり血縁を意識しない傾向があったのでしょう。そうやって既得権益が拡散してしまわないようにしていた。
そんな世界であれば、おそらく息子と継母との密通なんて、現実にいくらでもあったのでしょう。
普通、近親を意識したらあまり性欲は起きないはずです。近親相姦のタブーがあるからというのではなく、なれなれしくなってしまうと、おたがいあまり異性を意識しなくなる。
そのころの貴族社会は、近親相姦願望が強かったのではなく、近親相姦の自覚がない社会だったのでしょう。
近親相姦願望が男のエロス(性衝動)の原点だなんて、吉本の男と女の関係に対する意識は、屈折しすぎています。
男にとって近親相姦願望はむしろインポテンツな衝動であり、セックスの不可能性の中でまどろんでいたい、という衝動です。そういう「マザコン」の男なんか、世間にいくらでもいるじゃないですか。
吉本自身に近親相姦願望があるのでしょうか。そして、近親相姦のタブーを侵犯することにこそセックスの快楽の本質がある、などとステレオタイプなことを考えているのでしょうか。
近親だから相姦願望が生まれるのではなく、たとえ近親でも近親だと思わないことによって相姦願望が生まれるのです。
近親相姦願望の強い男は色好みになるでしょうか。まあ女に対してなれなれしくなる傾向はあるでしょうが、それはあくまでお友達の関係であって、エロス=性衝動の世界の問題ではないでしょう。
思春期の男の子の頭の中では、「母親対母親以外のすべての女」という図式がひとまずつくられます。そして母親が女のすべてだと思えるのなら、母親以外の女はもうセックスの対象でなくなってしまいます。
母親以外のすべての女がセックスの対象になるから色好みになるのでしょう。



心理学者の岸田秀は、「人間は本能が壊れた存在である」といい、人間のエロス=性衝動は観念(妄想=自己意識)から生まれてくる、といっています。まあそうやって、SMをはじめとするさまざまな変態的な観念や行為が生まれてくるというわけです。吉本がここで語る近親相姦願望も、ひとまずそうした観念(妄想=自己意識)のひとつだといえます。
これが、今どきの文科系インテリの「エロス=性衝動」に対する合意というか共通認識であるらしい。そして吉本も、まさにこの合意に乗っかって近親相姦願望だという論を立てているわけです。
人間のエロス=性衝動は、ほんとにそのような観念的なものでしょうか。
SMとかのもろもろの変態観念および行為が、はたして原始時代から存在していたでしょうか。すべては、文明の発生以後に起きてきた性の関係でしょう。そして現代社会においてもそれらが性関係の主流になっているわけでもなんでもなく、そんな変則的な性関係を基準にして人間性の基礎は語ろうなんて、低俗で中学生並みの想像力です。
ようするに、文明社会にはそういう変則的なことをしないと勃起しなくなってしまっている人がいるというだけのことでしょう。それはたしかに文明人の肥大化した自我によるものだが、基本的にペニスは勝手な「妄想=自己意識」で勃起するのではなく、自己意識を忘れたひとつの「反応」として起こる。「われを忘れて熱中する」という人間性の基礎にある意識現象です。
人間は観念で勃起しているのではない。若者なんか、知らない間に勝手にペニスが勃起してしまっている。文明人は、大人になって観念が発達すると勃起しにくくなる。SMや同性愛やロリコンは、みずからの勃起しにくくなっている「観念」のはたらきをいったん壊して自然=本能に遡行するための方法なのです。
まあペニスは不随意筋であり、基本的に「意思」や「欲望」や「妄想」で勃起するのではない、オートマチックに勃起するのです。
人類が一年中発情するようになったのは、猿よりももっと他愛なく勃起してしまうようになったからでしょう。猿は、いわゆる発情期のメスの性器の匂いや形状に反応して勃起するが、人類のオスはもう、メスの存在そのものに反応して勃起するようになっていった。そのとき二本の足で立っている人類のメスは、性器を尻の下に隠してしまっているし、匂いを強く発することもなくなった。また人類の嗅覚は著しく後退していたし、そのくせ知能(脳容量)も自己意識も600万年の人類史の半分の期間は猿と同じレベルだったのです。それでも、猿よりももっと他愛なく発情(勃起)するようになっていった。そこが問題です。
原初の人類は、二本の足で立ち上がったことによって猿よりももっと弱い猿になっていった。弱い上に、しかも猿よりも寿命が短くなってしまった(1万年前でも、まだ平均寿命は30数年だったのです)。それでも絶滅することなく生き残ってきたのは、猿の何倍もの繁殖力を持っていたからです。べつに猿以上の生きのびる能力を持っていたからではない。その能力においては、猿よりもはるかに劣っていた。
原始人はそんな変態観念で勃起していたのではないし、現代人だって、多くは、それらの変態観念にたよらなくても他愛なく勃起している。
人間のオスはなぜ他愛なく一年中勃起するのか。それが問題です。自己意識=観念で勃起するのではなく、「われを忘れて」勃起する。二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿よりももっと原初的な生命すなわち「自然」に遡行していった。そのとき猿のほうが、ずっと観念的で自己意識が強かったのです。
岸田秀のいうことなんかアホかと思うし、そんな「自然から逸脱した」変態の観念や行為を基準にして人間性の基礎を語られたら困ります。



つまり、光源氏だって、人間性の自然にしたがって目の前の藤壷の存在そのものに向かって他愛なく勃起していっただけのことなのです。しゃらくさい近親相姦願望など持ち出してくる必要なんか何もない。
そうして藤壷は、最初から最後までひたすら光源氏を拒絶していたわけで、しかしその拒絶する気配にこそいやがうえにも美しさとか雅やかさのよううなものがあらわれ、光源氏はもうどこまでも追いかけずにいられなくなってしまった。
この物語における光源氏は、あくまで真面目で挫折し続ける男であり、ただの色好みでも白馬の王子様でもないのです。源氏物語に登場する男も女も、誰もがけっきょくは「もののあはれ」という喪失感に浸されてゆくのであり、そこのところが同時代の宮廷の子女たちに受け入れられ熱狂的に愛読されていった。まあ今でいえば「ベルサイユの薔薇」のような人気だったのでしょうか。
まったく、男と女の関係はややこしい。猿や鳥だって、寄ってくるオスを追い払う生態を持っています。そしてどこかで根負けしてやらせてあげる。光源氏と藤壷の関係だってこれと同じであり、近親相姦願望がどうのという問題ではない。紫式部の視線は、男と女の関係のもっと根源的なところに届いている。
女は根源において男を拒絶している存在であるということ、男だけでなく女はもう生きてあるそのことからはぐれてしまっている存在であるということ、源氏物語は、まずそのことを提示するように書き出しているのです。
すなわち男と女の関係は、愛し愛されるというような近親相姦間的な予定の調和の世界ではないのだということです。紫式部にはというか、源氏物語を愛読していていたそのころの宮廷の子女たちには、そういう男と女の根源が見えていたらしい。まあ、そういう根源が見えてしまう時代だったらしい。彼女らの心は、男からもこの生からもはぐれてしまっていた。だからこそ、それが見えていた。



藤壷は実の母親の桐壺更衣そっくりだとはいわれているのだが、光源氏にとってはあくまで母親以外の女です。母親の立場にある相手だろうと、血がつながっていなければ女だと思ってしまいますよ。
基本的に男には近親相姦願望なんかないし、そんなものが男のエロス=性衝動の原点であるのではない。
一緒に暮らしていている相手にはだんだん性欲が湧かなくなってくるのが人間の自然です。いや、生き物の自然だといってもいいのかもしれない。
男と女の「断絶」を飛び越えてゆこうとするのが性衝動なのでしょう。一緒に暮らしていると、だんだんその「断絶」がなくなってくる。そうやってただなれなれしくなるだけで性衝動にはならない。
まあ貴族社会は家が広いし、直接子供を育てるのは乳母や女中だし、たとえ血がつながっている母親でも女にしか見えないということもあるのでしょう。そうやって古代の貴族社会ではいくらでも近親相姦があったし、しかしそれが彼らの色好みを決定していたわけでもない。
立場とか血のつながりということ以前に、現実生活の関係の近さやなれなれしさは性衝動を減衰させる。
近親相姦願望がエロス(性衝動)の本質だなんて、ありえない。貴族社会の男たちにそんな意識はなかったし、まあ、男が無理やり女に寄ってゆくということはいくらでもあったのでしょう。だから女たちは、十二単の衣装の中に自分の体を閉じこめようとした。
この物語は、もともと現実世界からはぐれてしまっている存在である女が「男という現実世界」と遭遇することによって起こる悲劇を描いているのであり、光源氏だって、そのための狂言回しのような役割を作者に与えられているだけです。



男はどうして女に引き寄せられるのだろうか。
生きてあることからはぐれてしまっている心模様は、多かれ少なかれ誰の中にもあるのだろうが、そういう「かなしみ」は女のほうがより深いところで知っている。女が存在そのものにおいて漂わせている華やぎ=輝きは、たぶんそういうところから生まれてくる。
どう考えても、女の方が、存在そのものの気配として、男よりも華やぎ輝いている。
まあ人間は、心が華やいでゆかないと、生きていられないし、死んでゆくこともできない。そういう華やぎを追いかけて男は女に引き寄せられてゆくのでしょう。
女の華やぎ=輝きは、生きてあることからはぐれてしまっていることのかなしみから生まれてくる。
女はたぶん、死んでゆくことの心の華やぎというものを知っていて、男はその気配を追いかけている。源氏物語はひとまずそういう関係の世界を描いているように思えます。ともかくそれは、いろんな女が死んでいったり出家してしまったりする話です。それでもそこに女の華やぎ=輝きがある。
源氏物語には、平安時代の宮廷の男や女たちの世界観や生命観や美意識が描かれてある。そしてそこに、いつの時代も変わらない人間性の普遍が潜んでいるように見える。だから、優れた古典として高く評価されているのでしょう。
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