もののあはれ・源氏物語の男と女5


源氏物語の世界だけでなく、普遍的に女は「もののけ」を意識している存在であるのでしょう。
「もの」とは「まとわりつく」というニュアンスの言葉です。女にとってはもう、生きてあるというそのことが、まとわりついてくる鬱陶しい「もの」になっている。
源氏物語の女たちは、心が「もののけ」にまとわりつかれて体までも衰弱していった。そうやって、生きてあるというそのことからはぐれていってしまった。
まとわりついてくるものを洗い流していかないと、人は生きられない。逃れられないのなら、この生を消してしまう以外にすべはない。
命のはたらきとは、消えてゆく(=死んでゆく)はたらきであるのかもしれない。命のはたらきのことなんか忘れている状態になって、はじめて生きられる。命のはたらきのことなんか忘れているときに、はじめて命のはたらきが豊かになる。
とすれば、衰弱してゆくとは、命のはたらきにまとわりつかれている状態であるといえる。痛いとか苦しいというかたちで、命のはたらきにまとわりつかれている。
まあ、健康なら、体のことなんか忘れている。
体のことなんか忘れるというかたちで体が消えているのが健康な状態なのでしょう。
健康であるにせよ、衰弱してゆくにせよ、いずれにせよこの生は、体が消えてゆく(=死んでゆく)というかたちの上に成り立っている。
「みそぎ」とは、この生を消そうとする作法のことでしょうか。
女は、生きてあることの鬱陶しさにまとわりつかれている。たぶん女にとっての男も、まとわりついてくる「もののけ」なのでしょう。だから源氏物語の女たちは、本能的に男を拒否しようとする。
女は、「まとわりついてくるもの」に対する過敏な感性を持っている。もう本能的に寄ってくる男を拒否したり怖がったりする。そうして、拒否しながら衰弱してゆく。
源氏物語論」の吉本隆明は、そんな女の心の動きや振る舞いを「妻問い婚=招婿婚」という古代の婚姻制度からきていると説明しているが、そういうこと以前にそれはもっと本能的なものであり、むしろ源氏物語の文章に繰り返しあらわれてくる「もののあはれ」の問題だろうと思います。



たぶん吉本はこの本で、「もののあはれ」について語ることをあえて避けています。たいして重要な言葉ではないと判断したのだろうし、触れたくないプライドもあったのでしょう。また、この言葉に対するとりたてて新しい視点もたぶん持ち合わせていなかった。
本居宣長はたくさんの源氏物語論を書いているのだが、吉本は完全に無視しています。この二人の文学者としての資質や物語に対する視点は、まったく異質です。
吉本は、この物語を「光源氏の近親相姦願望の物語」だと規定した。
そして本居宣長は「人の心の普遍をあらわした完璧な物語」と評した。その、人の心の普遍が「もののあはれ」であるというわけです。
まあ吉本の読みは通俗的で、本居宣長は、この物語によって人の心の普遍に気づかされたと無邪気に感動していると同時に、そこから哲学的な思考にも足を踏み入れている。
とにかく「もののあはれ」の意味についてはいまだに多くの研究者でさまざまに論議されており、これだという定説もない。だから吉本にしても「これだ」というところを提出したい気持ちもあったのかもしれないが、「もののあはれ」は、吉本のいう「近親相姦願望」と矛盾しています。そんな「こだわり」など捨てているのが「もののあはれ」です。
吉本はこの物語を、自我に対する「こだわり」の話として解釈していった。「こだわり」こそ吉本思想の根幹であり、「もののあはれ」なんか趣味じゃなかった。だから、どうしても「こだわり」の話にしてしまいたかった。
吉本は、「この物語のキモは若い光源氏が藤壷という継母に近親相姦願望を抱いたことにあり、彼は終生そのこだわりから離れられなかった」というようなことを語っています。
それに対してこの物語を「もののあはれ」の話として読むなら、そのとき光源氏は「母親の立場の女であるのに母親だとは思わなかった」ということになります。そんな関係など、この世のただのかりそめごとにすぎない。あくまで「目の前にこの上なく美しい女がいた」というそれだけのこと、あるいは「生まれたばかりの子供のような心でその女を見た」ということでしょう。それが「もののあはれ」の視線です。紫式部からしたら、出会いのきっかけがなんであれ光源氏の藤壷に対するあこがれは純粋無垢なものだ、といいたい思いがありそうです。



たとえば、こんなエピソードがあります。
女遍歴を卒業して大人になった光源氏は、藤壷に似た若紫という少女を見初めて養女にし、一人前の女として育ててから妻にします。そうして同衾した夜に死んだ藤壷が夢の中にあらわれ、驚いて目覚める。このときの涙を浮かべた光源氏のさまは、まさに「もののあはれ」に浸されているように描写されています。もちろんこの事態の意味などいっさい語られていません。
そこで吉本は、このことを「もはや源氏の中で母子相姦の願望も父子相姦の願望も和解して、意識的な行動と無意識の願望がひとつに融けてしまったことを意味する」と解釈しています。だから物語は実質的にはここで終わっている、ともいう。物語はまだはじまったばかりだというのに、です。
源氏物語は「自然との調和と和解の物語」なんだってさ。なんとまあステレオタイプでくそあつかましい解釈であることか。そういうあんたの趣味なんかどうでもいいんだよ。どうして自分の趣味の範疇に押し込めてまとめてしまおうとするのか。この人は、おのれの自我を安定させることばかりにやっきになっている。その俗物根性はいったいなんなのか。しょせんはステレオタイプのレベルから一歩も踏み出せないところが吉本の思考の限界です。踏み出したら自我=ナルシズムが揺らぎますからね。まあ世の中にはこういうタイプの人間がたくさんいて、吉本シンパになっているのでしょう。彼らには、自分を捨てて物語の渦中にというかこの表現の渦中に飛び込んでゆくということはできない。何もかも自分の観念世界の中に押し込めてしまおうとする。
このときの光源氏の涙は、深い喪失感をあらわしているのかもしれない。僕は「自然との調和と和解」を果たしてめでたしめでたしの涙であるなどとは思わない。
妻の紫の上に「どうしたの?」と聞かれても、源氏の君は、ただ黙ってじっとしていた。
藤壷は、理想の女性であると同時に、自分が無理やり犯して死に追いやってしまった相手です。藤壷の身代わりのような女と契ったからこそ、あらためて深い喪失感がこみ上げてきた。その喪失感こそ「もののあはれ」です。
もののあはれ」を知る心は、「願望」などというものは持たないし「和解」するということもない。その喪失感(=嘆き)それ自体を生きて、それとともに滅んでゆく。



源氏物語はもう、最初から最後まで、吉本のいうような「調和と和解」の自己完結を目指すようなストーリーにはなっていないのです。紫式部はべつに、吉本のナルシズムに自己完結の満足を与えるためにこの物語を書いたのではない。吉本が勝手にそんな自己完結の物語を妄想しているだけです。
物語は最初からもう、空蝉・夕顔・藤壷と、光源氏とかかわった女たちはつぎつぎと男を拒否して出家したり死んでいったりする。それのどこが「調和と和解」なのですか。
モテもしない男が勝手にそういうふうにこじつけて読んでいるだけの話です。
紫式部は、最初から、光源氏狂言回しにしながら男と調和も和解もできない女たちの悲劇を描いていったのです。
もののあはれ」に予定調和の自己完結などないのです。
吉本は、女の中には男に惚れるとか性欲という心の動きがあると信じているのか信じたいのだろうが、紫式部は、そんなものは当てにしてくれるな、人間はみなひとりじゃないか、といっているのです。それが「もののあはれ」であり、そういう男と女の関係性は吉本のような自己撞着の強い男には死ぬまでわからないのでしょう。
源氏物語の最後は、浮舟という二人の男から言い寄られた女が死のうとして死にきれなかったあげくにすっかり自分を見失ったまま尼寺に引き取られ、二人の男は諦めがつかないような中途半端な心で取り残される、というかたちであっけなく終わっています。
そして本居宣長はこの終わり方こそまさに「もののあはれ」だとほめちぎっているのだが、この終わり方のどこに吉本のいう「自然との調和と和解」の自己完結があるでしょうか。
自分すらも見失った浮舟は喪失感の極北に行ってしまい、男たちは喪失感そのものを見失ってしまった。たしかに「もののあはれ」です。こういうのを「カタストロフィ(悲劇的終末)」というのでしょうか。



もののあはれ」は、ほんとにややこしい言葉です。いろんな解釈ができるし、何をいっても「これだ」という決定的な解釈にはならない。
これに似た現代語を探すなら「もののためし」とか「もののはずみ」とか「もののたとえ」というような言い回しが挙げられるでしょうか。
何度もいいますが「もの」とは「まとわりつく」というニュアンスの言葉です。それに、なぜ「の」がつくのか。そこにも問題がある。
「ものがなしい」とか「ものさびしい」といえば、このときの「もの」は、「なんともかなしげ」とか「なんともさびしげ」というかたちであとに続く言葉にまとわりつき強調しています。
「もののためし」とか「もののはずみ」とか「もののたとえ」という場合の「もの」も、「とにかくためしに」とか「まったくもってはずみで」とか「あくまでたとえとして」というように、ひとまずあとの言葉にまとわりつき強調しています。
ただ、「の」が挿入されることによって、まとわりつき方のニュアンスが広がっているというか融通がきく表現になっています。
ともあれ「もののあはれ」の「ものの」がこれらの言葉と親戚筋のニュアンスであるのなら、この場合の「もの」は「物」とか「自然」というような具体的な事物をあらわしているわけではないことを意味しています。
おそらく「もののあはれ」は、そのときその場のなりゆきで「とにかくあはれ」とか「まったくもってあはれ」とか「あくまであはれそのもの」とか、融通無碍に解釈してゆけばいいのでしょうね。つまり「もののあはれ」の「ものの」は、「あはれ」に対する<親密な(=まとわりつく)感慨>をあらわしている、ということになるのでしょうか。
「の」は「糊(のり)」「乗る」の「の」、「くっついてゆく」とか「重なってゆく」というようなニュアンスです。心が「あはれ」にまとわりついて親密になってゆくことを「もののあはれ」という。
では「あはれ」とはどういうニュアンスなのか。
「あ」は、「ああ」という感嘆の表出で、「はれ」の感慨を強調する機能になっているのでしょう。
「はれ」は「晴れ」の「はれ」、さっぱりと何もないことのめでたさ。
すなわち「あはれ」とは、さっぱりと「消えてゆく」ことのカタルシス。女のオルガスムスのように、人の心は消えてゆくことによって華やぐ。
ともあれ、「もののあはれ」をひとことでいうのは難しい。とにかくそれはひとつの消失感覚であり喪失感であるわけだから、吉本のいうような「自然との調和と和解」といった充足感のことではない。
「ものの」は、ひとつの接頭語だといえるのでしょう。
「ものあはれ」というように「の」がつかない言い方もある。この場合は「あはれ」という言葉に直接まとわりついて「あはれそのもの」というようなニュアンスだろうが、そこに「の」をはさむことによって、「あはれ」という言葉対する「心のあや」がはたらいている。そのつどそのつどの「心のあや」を込めながら「もののあはれ」という。


もののあはれ」という言葉の奥には、何かきらきら輝いている気配がある。かなしみながら華やいでいる。
吉本隆明のように、「自然と調和している自分の存在を確かめてまどろんでゆく」というようなナルシスティックな感慨ではありません。自分なんか忘れ果てている感慨のことです。まあ、一種の消失感覚です。消えてゆくことことこそ命のはたらきの根源であり、人の心は消えてゆくことによって華やぐ。
命が衰弱してゆくことはひとつの悲劇ではあるが、それによる心の華やぎもあるわけで、そうやって人は死に誘惑されながら死んでゆくのでしょう。
藤壷をはじめとする源氏物語の多くの女たちも、そのようにして死んでいった。かなしみ絶望しながら華やいでいった。それが「もののあはれ」です。それは、何も死んでゆくことだけじゃない。この生の一瞬一瞬がそのようなかなしみと華やぎに浸されている。「今ここの死」、それが「もののあはれ」であり、生きることは死に誘惑されることだ、というパラドックスがある。
紫式部は、この物語からそういうことを浮かび上がらせようとしていた。
人類は、共同体(国家)という文明を持ったことによって、原始的な人間性の自然を失った。そのことのかなしみは権力のそばにいた宮廷の女たちがいちばんよく知っており、彼女らはその喪失感そのものをあらためて人間性の自然として掬い上げていった。つまり、この生がひとつの喪失感の上に成り立っていることに気づいていった。それが「もののあはれ」ではないでしょうか。
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