イザベル・アジャー二というフランスの女優がいる。今はもうとうに50歳を過ぎているはずだが、昔はこの世のものとは思えないくらいきれいだった。きっと、フランス女優の歴史に残るのだろう。
カトリーヌ・ドヌーヴとかイングリッド・バーグマンとかグレース・ケリーとか、あんなふうな正統的な美人とはちょっと違う。しかし、それらの正統派美人にはない、何か神秘的で豊かなニュアンスのまなざしを持っていた。まあ西洋人のまなざしの濃密さはわれわれアジア人にはないものだが、彼女のそれは格別だった。狂気のような激情を隠し持った気配から子猫のような不安げなまなざしまでじつに多彩で深みがあり、また、ちょっとだけ出っ歯のところがそれはそれであどけなく愛らしかった。
そのまなざしのニュアンスにおいても、顔面の骨格においても、彼女こそネアンデルタールの末裔かも知れない、と思わせられる。
しかし彼女が結婚して落ち着いてもこの雰囲気が出せるのかどうかはわからない。何か、大人になれないまま不安を食べて生きている女だという感じがある。
そしてこんな女たちを相手にしていたネアンデルタールの男たちも大変である。何しろ西洋では6,7千年前までは女系社会で、10〜5万年前ならさらにその傾向は顕著だったはずだ。
おそらくネアンデルタールの女たちは、現在の西洋女よりももっとわがままでヒステリックで向こう見ずな愛らしさを備えていたのだろう。現代社会の制度性がつくりだした貴婦人とか良妻賢母とはかなり違う。
ろくな文明を持たない原始人であるネアンデルタールの男たちがマンモスなどの大型草食獣に肉弾戦を挑んで狩をするのは、きっと命がけだったはずである。しかも、獲物が見つからなければ何日も原野をさまよい歩いた。100キロ200キロ先の狩場まで遠征することもあった。
であれば女たちは、そういう男たちの疲れた心や体をなだめ癒すことは心得ていただろう。つまり、そういう愛らしいまなざしを持っていた。
と同時に彼女らは、みずからもまた、産んだ子が次々に死んでゆくという現実をもろともせずに産み続けてゆく狂気と激情をそなえていた。
ネアンデルタールの子供は、ホモ・サピエンスの子供に比べて頭の幅があって産道を通りにくいうえに妊娠期間が一カ月くらい長かったから、母体はつねにかなりの難産を強いられた。上手く産み落とせないで死んでいった母親もたくさんいたことだろう。ネアンデルタールの女の胎盤のかたちは、現代人のそれと比べるとかなり変形している。そして妊娠期間が長かったということは、早産の赤ん坊はまず間違いなく死んでしまった、ということを意味する。
そんな思いをしながら次々に赤ん坊を産み続けてゆくのだから、その狂気と激情は、男の比ではなかったのかもしれない。
であれば、その社会はもう、女たちがリードする構造になってゆくほかなかったはずである。
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ネアンデルタールの社会は、一夫一婦制ではなく乱婚社会だった。
西洋の母親は、あまり子供にかまわない。駄々をこねて泣き叫んでも、知らんぷりしている。
ネアンデルタールの女が産んだ子供は、産んでも産んでも次々に死んでゆくことも多く、そんなことにいちいち命がけで悲しんでいたら発狂してしまう。だから、あまりむやみに子供に耽溺することは許されなかった。
産んですぐとか授乳期間中に死なれたら、そりゃあこの世の終わりのように悲しいだろう。そんな体験を何度もさせられたらもう、人と深い関わりを持つことなんか怖くなってしまう。大人どうしだって、誰もがいつ死ぬかわからない身である。狩の遠征先で死んで戻ってこない男もいれば、お産の失敗で死んでしまう女も珍しくなかった。
彼らは集団としての結束は強かったが、ひとりひとりは孤独だった。この傾向は、現在の西洋社会でも同じだろう。彼らは、日本人よりはるかに高い公共心を持っているが、ひとりひとりは孤独である。
そのようにしてネアンデルタールもまた、死者にたいする悲しみは集団のみんなで共有していった。だから、埋葬という葬送儀礼を覚えていったのだ。
彼らは、家族をつくらなかった。集団そのものが家族だったともいえる。死による別れがつねについてまわる社会だったから、身近な関係はつくりたがらなかった。西洋人の孤独は、おそらくそんなところから由来している。
人類が一夫一婦性の家族を持つようになったのは、1万年前の氷河期明け以降のことで、共同体の制度が確立していったことに加え、その温暖な気候と文明の発達によって、親が子供の死を体験することが少なくなってからのことだった。
ネアンデルタールにとっては、子供をいつまでも手元において育てるということは、いつ死なれるかという不安があるし、すぐまた妊娠するということもあって、物理的にも精神的にもできないことで、できるだけ早く集団に預けてしまいたかった。
男女の関係も同じだった。誰もが身近なパートナーを持とうとしなかった。パートナーが明日は死んでしまうかもしれないという心配を毎日しながらいつまでもくっつき合っているということはできるはずもなかった。そして自分もまた、いつまでそばにいてやれるかわからない身だった。
彼らは、出会ったそのときその場を燃焼し尽くそうとした。
つまり、もしも夜毎にパートナーが変わるのなら、誰の子を産むかという計算など成り立たなかった、ということだ。
したがって彼女らには、優秀な子孫を残そうという発想はなかった。どんな子供に価値があるかとあえて言えば、今すぐ死んでしまいそうなもっとも弱い子供こそ、もっとも愛しい存在だった。それが原始人の感性であり、あれこれ未来の計算をしたがる現代人のそれとは違う。
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たとえば、ある臓器不全を持って生まれた子がいるとする。その子が生き残るためには、誰かの臓器を半分切り取り、それをもらって自分のものと入れ替えるしかない。しかし、他人のものではすべて拒否反応を起こしてしまう。親のものでも駄目だ。ただひとつ、同じ両親から生まれたきょうだいのものだけが可能となる。しかし、その子供にはきょうだいはいなかった。そしたら両親は、その子供のために新しい弟か妹をつくるだろうか。それが、倫理的に正しいかどうかは僕にはわからないが、少なくともネアンデルタールなら、迷うことなく新しいきょうだいの子を産むだろう。きっとそうするだろう。なぜなら、もっとも弱い命を生かそうとすることこそ、人間の自然としての本性だからだ。
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ネアンデルタールが恋とセックスに情熱的な人たちだったとすれば、恋やセックスだって、おそらく「もっとも弱いものを生かす」というコンセプトの上に成り立っていたはずだ。そこに、普遍的なセックスアピールの本質が潜んでいる。
彼女らが選ぶ恋の相手はきっと、その夜もっとも女の体を恋しがっている男だった。いい男であるとか強い男であるとか、そんなことはあまり問題ではなかった。疲れ果て打ちひしがれている男を選んだ。けだるさの漂っている男を選んだ。この世界に居場所を失っているさびしい男を選んだ。まあ、直感的な相性を感じる男を選んだ。狂おしくおたがいを求めあうことのできそうな相手を選んだ。それは、他者を生かそうとする衝動だった。
恋愛の文化が進んだ後の時代なら、セクシーな男のニュアンスもいろいろややこしくなってくるのだろうが、原始人の関係はもっとシンプルで直截的で本性的であったはずだ。
たぶんそれは、相性の問題なのだ。たがいにそれを感じてセックスするのが生き物の流儀だ。
原資人は野蛮だったから平気でレイプしていたかといえば、そんなことはないだろう。動物だって、そんなことはしない。鳥たちは、必死で涙ぐましいディスプレイ行動をしてメスの発情をうながす。それは、他者を生きさせようとしているのであって、自分が生き延びようとしているのではない。クジャクが羽を広げていたら、かんたんに天敵に見つかってしまうだろう。それでも彼らはそうする。自分の命を削ってそうしているのだ。
女を口説くことは、女を生きさせようとする行為だろう。レイプしていいのならそんな文化は生まれてこないし、レイプばかりしていてもそんな文化は生まれてこないだろう。それは、レイプを禁止するために生まれてきた文化ではない。レイプなんかしなかったから生まれてきた文化なのだ。
恋やセックスは、自分の命を削って他者を生きさせる行為なのだ。そういうタッチを持っている男や女がもてる。自分の命を削って男は女を口説く。ネアンデルタールの女は、自分の命を削って生きている男を選び、自分の命を削ってそんな男をなだめた。男を生きさせる醍醐味がなくて、何をセックスする必要があろうか。もちろん男だって、それは同じだった。
生き物に、生きようとする衝動なんかない。誰もが、自分の命を削って生きている。生き物の体は、自分の命を削らなければ生きられないようにできている。だからこそ、その命を他者が生きさせようとするのだろう。
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生き物になぜ雌雄が発生したかといえば、生き物は自分の命を削って生きているから、進化すればするほど自分ひとりでは生きられない体になっていったからだろう。それはもう自然のなりゆきの必然で、雌雄が合体することは、削った部分を元に戻すような行為だったのだろう。つまりそのとき生き物は、未来に向かって生きようとしたのではなく、過去を思い出したのだ。そして、過去を思い出して他者を生きさせようとした。他者を生きさせることが、自分が生きることになった。
生き物に雌雄があるということは、自分が自分として生きることはできないということである。それを断念して、はじめて雌雄の交配が成り立つ。したがって、生き物には生きようとする衝動がない。みずからの命を削って他者を生きさせようとする衝動があるだけだ。
言いかえれば、生き物の命の仕組みはもともとそのように成り立っていたから、雌雄が発生してきたのだろう。
生き物の命に、余分な仕組みなど何もない。どんな生き物も、必要最小限の仕組みで生きている。もっと楽して生きる仕組みを持ちたいと思わないし、持つことができないようになっている。人間だって、もっと楽して生きられる文明は持っているが、もっと楽して生きられる体は持とうとしても持てない。それは、根源的には生きようとする衝動を持っていないということだ。逆に、命を削ろうとする。
生きようとする衝動を持ったら生きられないのである。
生き物の進化において、最初から戦略的に雌雄に分かれたのではない。生き物は命を削って生きているという自然の法則にしたがって、誰もが生きられない体になってしまっただけのこと。自然、すなわち宇宙の法則に、そんな意志(=神)など存在しない。すべての進化は、「苦しまぎれ」の結果なのだ。
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ネアンデルタールの恋だって、「苦しまぎれ」として生まれてきた。恋をしようとする先験的な意志=衝動があったのではないし、人類学者がいうような、知能が発達して「恋」という「象徴思考」ができるようになったとか、そういうのんきな話ではさらにない。
知能指数が高ければそのぶん充実した恋をするというわけでもなかろう。生き物は誰もがみずからの命を削って生きているから、不可避的に他者を生かそうとする衝動を持ってしまうというだけのこと。
そのときネアンデルタールは、生き難い生を生きながら、生き難い生を生きさせることのよろこびを見出していった。そうして、生き難い生を生きているという他者の気配にどんどん敏感になってゆき、ついにセックスアピールというものに気づいた。
孤立したひとりでありながら、それでいて「ひとりでは生きられない」という気配をもっていることこそ、セックスアピールなのだ。その気配がなければ、相寄って抱きしめ合おうとはしない。そしてそれはおそらく、雌雄の発生までさかのぼることができる生き物としての自然の問題なのではないだろうか。
ネアンデルタールの恋とセックスがその孤立性と社会性の上に成り立っていたとすれば、それは生き物としての自然がそのまま発展したかたちだったことを意味する。
人間が「苦しまぎれ」で生きている存在でなければ、他者にときめくことはないし、セックスアピールも生まれてこないし、恋も社会性も成り立たない。そういうことを、ネアンデルタールが教えてくれている。
恋やセックスとは、自分の命を削って他者を生きさせようとし、他者が生きていることを確かめようとする行為であるらしい。セックスをしているときの女は、自分の体に対する意識が消えて、自分の中に入ってきている男の体ばかり感じている。
ネアンデルタールの恋とセックスは、生き難い生を生きている他者を生きさせる行為だった。他者を生きさせること、すべてはそのコンセプトで動いている社会だった。そのコンセプトを持たなければ、ろくな文明をもたない原始人が氷河期の北ヨーロッパで生き抜くことはできなかった。
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