ネアンデルタールは「優秀な子孫を残すため」というような動機でセックスをしていたのではない。
彼らは、そんな未来のことは眼中にないほど「今ここ」を生きることに切実だった。
そして彼らが集団を維持するためのコンセプトは、強いものが生き残るということではなく、「もっとも弱いもの生かす」ということにあった。したがって、弱い子供が生まれてくることを避けようというような発想はしなかった。
生き物はみんなそうだ。弱いものを生かそうとする衝動がなければ、この世のもっとも弱い存在である赤ん坊なんか育てられない。生き物の本能に、強くて優秀な子孫を残そうというような動機など存在しない。
生き物の本能は「もっとも弱いものを生かそうとする」ことにある。三流生物学者の先生、これが進化論の基本なのですよ。この本能がなければ、カラスやスズメだってこの世のもっとも弱い生き物である雛を育てることなんかできないのですよ。
強くて優秀な子孫を残そうとすることなんか、現代社会の制度性にまみれた人間だけが考えていること。自分たちのその制度的な観念を生物の進化に当てはめて考えようなんて、俗っぽいよねえ、愚劣だよねえ。原始人だろうと普通の生き物だろうと、そんな薄汚いスケベ根性をたぎらせて生きているはずがないじゃないか。
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弱いものを否定して生き物の生存なんか成り立たないのだ。
すべての生き物は、生きるためのぎりぎりの身体能力で生きている。人間は、安穏な生活ができる文明を持っているから、そのぶん身体能力もどんどん減衰している。
言いかえれば、われわれが生き物であるかぎり、安穏な生存は永遠に得られない。現代人が原始人よりも安穏な生活ができる文明を持っているからといって、そのぶん身体も安穏に機能しているかといえば、そうでもないだろう。原始人が現代人よりもずっと肩こりや腰痛に悩まされていたとは考えにくい。原始人が現代人よりずっと疲れやすく、ずっとかんたんに風邪をひいたかといえば、そんなはずがない。
つまり、生き物は、自分自身がぎりぎりの身体能力しか持たない弱いものとして生きているのだから、自分自身が生きるということ自体が、弱いものを生かす、という行為にほかならない。
だから生き物は、この世のもっとも弱いものである赤ん坊を生かそうとする。弱いものを生かそうとするのが生き物の本能だからだ。
そういう存在である生き物が、優秀な子孫を残そうなどという計算をするはずがないではないか。
逆に言えば、そういう現代社会の制度性に囲い込まれているいまどきの女が、赤ん坊のあまりの弱さに「これで優秀な子孫に育つのかしらん」と不安を募らせ、育児ノイローゼになってしまうのだろう。赤ん坊の今ここのその弱さにときめくことができないのなら、そりゃあ育児ノイローゼになるに決まっている。
生き物に、優秀な子孫を残そうとする本能などというものはない。
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弱いものを生かそうとするネアンデルタールの集団のコンセプトは、そのまま生き物が生きることのコンセプトでもあった。
性の衝動だって、体がむずむずするなど、この世界に対する異和として存在しているみずからの「弱い」身体をなだめようとする衝動だともいえる。
であれば、ネアンデルタールの女が選ぶ男の基準は、優秀な子孫を残すためというようなことであったはずがない。
何はともあれもっとも弱いものを生かそうとする社会であったのなら、疲れ果てて打ちひしがれている男を生きさせることは、女たちのよろこびだったに違いない。そういう気配を持っていない男は、ネアンデルタールの社会ではもてなかった。
それは、世話女房とか母性本能というのとはちょっと違う。人間の共生とか連携というのはそういうかたちになっている、ということだ。たがいに弱いものとして生きるところから、そういう関係が生まれてくる。
すべての生き物が死んでしまう「弱い」存在である。ライオンだって、自然との関係においては、必要最小限の身体能力で生きている「弱い」存在なのだ。彼らにだって絶滅の危機はやってくる。自然の法則からいえば、そのときはきっとシマウマよりも早く絶滅する。
恋や性の衝動だって、根源的には、弱いものを生かそうとする衝動と別のものではないに違いない。
ネアンデルタールが埋葬をはじめたのは、弱いものを生かそうとする社会であったために、弱いものが死んでゆくことに対する悲しみが極まってゆき、そこから起きてきたことだ。
そういう悲しみを知っているものたちが、恋をしないはずがない。
人類の「恋をする」という心の動きは、ネアンデルタールの時代から本格化してきた。
彼らは、誰もが自然との関係において弱いものとして生きていた。そうして、もっとも弱いものを生かそうとする心を共有していった。強いものが弱いものを助けるのではない。みずからが弱いものだからこそ、手を差し伸べずにいられなくなる。それは、援助ではなく、連携だった。
もっとも弱いものが生きられることに彼らの希望があり、もっとも弱いものが生きられないことに彼らの悲しみがあった。みんなで、もっとも弱いものである赤ん坊を生かそうとした。その試行錯誤の中から、喜怒哀楽の感情が深まってゆき、埋葬をはじめ、恋をするようにもなっていった。
恋をすることの根源的なかたちは、弱いものにときめき、弱いものを生かそうとはたらきかけてゆくことにある。それは、男でも女でも、根源的には同じなのだ。
現代の若い男女が恋や結婚をできなくなっているのは、そういうタッチを失いかけているからだ。「優秀な子孫を残す」などという薄っぺらな幸せ志向のコンセプトでは、恋も結婚もできないのだ。
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原初の人類が二本の足で立ち上がることは、弱い猿になることだった。この姿勢を常態化することによって人類は、猿としての能力を大幅に失った。四足歩行に比べてその姿勢では、早く走れないし、俊敏に動くこともできないし、何より胸・腹・性器等の急所をさらすという不安とともに他者と向き合わねばならなくなった。
しかしそのとき人類は、たがいに弱い猿になることによって、ときめき合い連携してゆくという関係をつくっていった。弱い猿なのだからそうしないと生きられなかったし、そうなるのが自然のなりゆきだった。
弱い猿であることが、人間の根源的な生存のかたちである。
弱い猿として連携してゆくことによって、ネアンデルタールとその祖先たちは、氷河期の北ヨーロッパに住み着き、言葉を覚え、埋葬をはじめ、恋をするようになっていった。
恋をすることの基本は、他者にときめくということだが、極寒の地で暮らしていたネアンデルタールの場合、たがいの体を温め合うために抱きしめ合いセックスするという行為が日常化していた。
彼らにとって抱きしめ合うことは、体を温め合うことだった。つまり、弱いものを生きさせる行為だった。自分の体のことを忘れて、相手の体が温まってゆくのを感じることがよろこびであり、エクスタシーになった。
相手の体が生きて存在しているということそれ自体がよろこびであるのなら、それは、死んでしまいそうな弱い体だったからだ。男にとっても女にとっても、相手の存在に生きていられないような危うい気配を感じたところから恋がはじまり、抱きしめ合っていったのだ。
相手の体を感じることは、自分の体を忘れるということであり、自分の体が消えてゆくということだ。それが、エクスタシーになった。彼らは昼間、寒さの中でつねに自分の体を意識している。自分の体を忘れることは、すなわち寒さを忘れてその緊張から解放されることでもあった。
「もっとも弱いものを生きさせる」ことは、みずからの生を忘れてしまうことだ。そしてそれこそが、生きてあることのエクスタシーにほかならない。そのようにしてネアンデルタールの恋が成り立っていた。それは、連携とか献身とも言えるが、強いものが弱いものを援助するというようなことではない。みずからもまた危うい存在である弱いものにならなければ、そのエクスタシーは体験できない。
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誰だって、この世でもっとも弱い存在になる瞬間はある。
一人ぼっちになって途方に暮れてしまったような気分になることはあるだろう。
僕なんか自分の気持ちの行方も知らないままに生きているから、変わらない信念とか正義というようなものを見せつけられと、追い詰められた猫のように怖がってしまう。
ネアンデルタールの心は、さらに行方も知らずにさまよい続けていた。誰もが、その過酷な環境の中で狂気と激情をたぎらせて生きていたが、その狂気と激情のままで生きることはできなかった。夜がくれば、彼らは疲れ果て、この世のもっとも弱いものとして途方に暮れていたし、その狂気と激情をひとりでなだめることはできなかった。
ムンク「叫び」という絵を見てみればいい。あれが北ヨーロッパを生きる人々の普遍的な心象風景であり、彼らは50万年前からずっとそんな狂気と激情を抱えて歴史を歩んできたのだ。
北ヨーロッパの夜は長い。そんなときネアンデルタールは、洞窟の中で火を囲み、みんなで語り合った。その共有された狂気と激情はそうやってなだめられ、言葉がはぐくまれてゆき、恋が生まれていった。
彼らは、その狂気と激情をなだめてくれる異性にときめいていった。そしてみずからもまた、相手をなだめたいと願った。というか、なだめてやることが、なだめられることだった。もっとも弱いものを生きさせようとする社会で生きていた彼らは、そういう恋のタッチを持っていた。
基本的には、男たちは女からなだめられていた。そして女たちは、なだめることがなだめられることになった。そういう連携プレーとして恋が成り立っていた。
みずからの狂気と激情に打ちひしがれ途方に暮れている男、ネアンデルタールの女の好みは、そういう気配を持った男だったのかもしれない。
いずれにせよそれもまた、ネアンデルタール的な連携プレーのひとつだったのであり、彼らによって、現在のわれわれの集団(社会)性や連携や恋愛文化の基礎がつられていったのだ。
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