苦労して生きてきた人は強い、などとよく言われる。氷河期明けのこの1万年の歴史をヨーロッパがリードしてきたのは、彼らが、それ以前の歴史において地球上でもっとも苦労して生きてきた人々の末裔だったからだろう。苦労して生きてきたから、逆境に強く、酸いも甘いも良くわきわきまえている。しかしその一方で、苦労してきたせいで性格が歪んでしまっている、ということも大いにある。ヨーロッパは、この1万年の歴史を、そういう二面性とともに歩み、世界を蹂躙しつつ世界をリードしてきた。現在この地球上で、欧米人(コーカソイド)ほど聡明で魅力的な人々もいないし、欧米人(コーカソイド)ほど根性のひん曲った性悪なやつらもいない。
アフリカ人(ニグロイド)は、ヨーロッパや中近東やインドなどのコーカソイドといわれる人種ほど聡明でもなければ、根性がひん曲ってもいない。したがって、5〜3万年前のアフリカ人がヨーロッパに大挙して移住してゆきたちまちヨーロッパを席巻してしまった、ということなどあり得ない。何度でもいう。そのころヨーロッパに上陸していったアフリカの二グロイドなどひとりもいないのだ。
原初の人類が50万年前の氷河期の北ヨーロッパに住み着いてから1万年前の氷河期明けまで、彼らの歴史は艱難辛苦の連続だった。まず、原初のろくな文明も持たない猿のような人類がその北極のような環境の地に住み着くことができたということなど、ほとんど奇跡に近いことだった。そうしてやっとなんとか適応することができるようになった5〜3万年前ごろになって、こんどは、長生きはできるが寒さに弱いという性質のホモ・サピエンスの遺伝子を拾って体内に抱え込んでしまった。そのためにそのあとの最終氷河期はもう、絶滅寸前の状態に陥ってしまった。それでもそれまでに培ってきた寒さの中を生き抜く文化でなんとか危機をくぐりぬけ、氷河期が明けた。そうなれば、それからの彼らは強かった。たちまち世界でもっとも高度な文明を築き、近代になれば世界中を席巻していった。
5〜3万年前のアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに大挙して上陸してゆき先住民であるネアンデルタールと入れ替わった、と考える現在優勢な「集団的置換説」は、けっきょくそういう氷河期明け以降のコーカソイド1万年の歴史をそのまま5〜3万年前に当てはめているのだろう。
しかしそのころ、苦労人のネアンデルタールの方がずっと賢くしたたかで、人口も多かったのだ。
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ネアンデルタールの社会は乱婚だったといわれている。それが、死と背中合わせで生きている人たちの恋愛のかたちだった。
そりゃあそうだろう。明日も生きてあることを勘定に入れることのできない環境のもとで暮らしていれば、相手を見つけて家庭をつくるということなど発想のしようがない。
一緒にいれば、それなりに情が移るから、別れがつらくなる。彼らはそれをよく知っていた。集団のメンバーは、一緒に暮らしている相手である。みんな、毎日のように顔を合わせている。
彼らの別れは、死とともにやってくる。
ネアンデルタールの平均寿命は30数年で、その異常な寒さのために乳幼児は次々に死んでゆき、大人になるまで生き残ることができない子供の方が多かった。死は、日常茶飯事の出来事だった。
彼らが死者を埋葬していたということは、死による別れを深く嘆いた人々だったことを意味する。
その起源を、知能が発達して「霊魂」という概念を発見したとか、そんなふうに考えるべきではない。
別れの嘆きが極まって、その儀礼がはじまったのだ。
彼らは、その嘆きをみんなで共有し分け合った。それは、ひとりで背負うには悲しすぎた。
その激烈な寒さゆえに乳幼児の死亡率はとても高く、おそらく、自分の産んだ子がひとりも大人になるまで生長できないという母親だっていたことだろう。それでも彼女らは、産み続けた。そうしない、集団の個体数は維持できなかった。
とくに最初の子を育て上げることは、たいていの母親が失敗したことだろう。乳の出もままなければ、何度か失敗して、やっと授乳期間をクリアできるようになる。ベテランの母親たちは、そのうちうまく育て上げることができるようになる、と励ました。
そのようにして、若いころに自分の産んだ子が次々に死んでゆくという事態が起きて、その嘆きを母親ひとりで背負っていたら発狂してしまう。
死者との別れに対する嘆きはみんなで共有した。そういう行為として「埋葬」がはじまったのだ。
子供は集団のみんなで育てた。授乳期間が終わった母親はすぐ次の子を妊娠するという場合も多かった。
まあ、生き物としての自然性においても、みんなで寄り集まっているから体温の低下を防ぐことができるという状況があった。
何はともあれ「共有する」という意識の高い集団だった。
だから、男女の関係もまた、そういう意識の上に成り立っていたのだろう。
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ヨーロッパの女のヒステリーは、ネアンデルタール以来の伝統なのだろう。
自分の産んだ子が次々に死んでゆくという運命を背負わされたら、そりゃあ誰だって気が狂いそうになる。
「レディファースト」いう習俗だって、女のヒステリーを扱いかねた男たちが生み出したのだろう。
女に子を産ませるのは、男の責任だ。客観的な状況が何であれ、ひとまず男はそう自覚するほかない。
ネアンデルタールの男たちは、女に対してそういう負い目を負っていた。何しろたいていの女が、その30数年の生涯で7〜10人の子を産む社会だったのだ。そしてそのうち大人になるまで生き残ってゆける子は2〜3人だった。運のいい女でも、半分は子供のうちに死んでいった。
氷河期が明けて半数以上の子を育て上げることができる状況になり、共同体(国家)のシステムが完成してくるにつれて、男が女を支配するという関係になってきたのだろう。
ネアンデルタールの社会では、女に主導権があった。
彼らは寒さに震えながら生きている人たちだったのだから、男も女も夜毎抱き合ってたがいの体を温め合うということをせずにいられなかったはずだ。
今でも夫婦の性交回数は、日本人より西洋人の方がずっと多い。
西洋の男たちは、いまだにネアンデルタール時代の借りを払い続けている。
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では、ネアンデルタールの女たちは、どんな男を選んだのだろうか。
体が頑丈で大きくて強い男だろうか。
現在の西洋女の好みの傾向からすると、あんがいそうでもなかったらしい。
人類社会でたくましくて強い男がもてはやされるようになってきたのは共同体(国家)が生まれ一夫一婦制が定着してきてからのことだが、それでもなお西洋の女は、彼女らならではのもっとべつの基準を持っている。
彼女らは、体型や顔のことはあまり気にしない。彼女らが男に見ているのは、ひとことでいえば、セックスアピール、ということだろうか。
生物学ではよく、メスがオスを選ぶ基準として「優秀な子孫を残すため」というようなことがいわれたりするが、ネアンデルタールの女にはあまりそうした意識はなかったらしい。
話をして楽しいとか、抱かれて気持ちがいいとか、そういうことが男を見る基準になっていたのだろう。
どんな子を産もうと、子供は集団に属している存在であって、自分のものではなかった。
狩の獲物はみんなで平等に分かち合っていたネアンデルタールには、「所有」という意識は希薄だった。
鳥や魚だって、「優秀な子孫を残す」という意識も本能もないはずである。
なんとなく相性が合う……本能としてはたらいているのは、おそらくこのような直感だろう。
女は、直感のはたらきが豊かだし、それを最優先しようとする本能を持っている。
「優秀な子孫を残す」などということは、そうすれば女にもそれなりのメリットが生じる人間社会の制度性から生まれてくる動機であって、生き物の本能でもなんでもない。
生き物は「今ここ」の背中に「死」を張りつかせて生きている存在である。どんな子を産もうかというような計算はない。頑丈な男と交配すれば頑丈な子が生まれると知っている鳥や魚などどこにもいない。おそらく、チンパンジーやライオンだって知らないだろう。
生き物は、子を産むためにセックスするのではない。体や性器がむずむずするからセックスするだけのこと。
ネアンデルタールは、それに寒いということも加わっていたし、動物とは違って死を意識している存在だったから、「今ここ」に対する意識はおそらくわれわれが想像する以上に切実だったはずだ。
彼女らは、その生きられない環境を生きているという「今ここ」の狂気や激情をなだめてくれる相手を求めた。それは男たちだって同じであったろうし、その「いまここ」をなだめようとする気持ちは彼らが描いた洞窟壁画にも表れている。
彼女らは、未来のことなんか考えていなかった。自分も、自分の産んだ子供も、好きな男たちも、明日も生きてあることなど誰も保証されていなかった。
未来のことなど忘れてひたすら「今ここ」に憑依してゆくことがネアンデルタールの生きる流儀だった。
意識が「今ここ」という一点に凝縮してゆく体験こそが、彼女らの恋でありセックスだった。
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優秀な子孫を残してくれる男が、濃密な「今ここ」を体験させてくれるわけではない。
生き物にとってセックスや恋は、「今ここ」の実存の問題であって、未来に向かう行為ではない。したがって、「優秀な子孫を残す」ということなど頭にはない。
「今ここ」に立ち止まらせてくれる相手こそ、彼女らの恋の対象だった。
西洋人の他者を見つめるまなざしは格別に濃密である。彼らは、じっと見つめ合った。それは、「今ここ」の一点に凝縮してゆこうとする衝動であろう。
また、死んでしまいそうな赤ん坊、すなわちもっとも弱い者を生かそうとする社会だったのであれば、打ちひしがれた男はきっと魅力的だったのだろう。打ちひしがれて泣きごとを言うというのではない。一日をけんめいに生きて疲れ果て、明日も生きてあるかどうかわからないという気配の男なら、手を差し伸べずにいられなかっただろうし、そういう男となら濃密な「今ここ」を共有できると感じたに違いない。そういう男のまなざしには、何か格別の味わいがあったに違いない。
明日のスケジュールで生きている現代人には、そういう切羽詰まったところで生きている男と女の心のやり取りなどあまりない。ただ、そういうヨーロッパ10万年の伝統として育まれかたちになってきたセクシーな男のニュアンスというのはあるのだろう。その具体的な色合いというのは、われわれ極東の島国の人間にはよくわからないところがある。
ただ、ヨーロッパの女は、男が自分よりも背が低くてもあまり気にしない。それは、少なくとも恋愛においては、男にぶら下がって安心するというか「優秀な子孫を残す」というような無意識の衝動(本能)を持っていないからだろう。
強い男が魅力的だといっても、みんなの先頭になって危険なポジションで戦って狩をして疲れ果てているときにはじめてそれが魅力になる。強い男ほど疲れ果てていたのかもしれない。
何はともあれネアンデルタールの社会においては、疲れ果て打ちひしがれている男でなければ魅力的ではなかったのであり、男も女も、「今ここ」に対する切実な心を持っている者のまなざしや言葉によって恋が成り立っていたのだろう。
乱婚といっても、彼らがただ単純に動物のオスとメスのようにくっつき合っていただけだと考えるのは早計であろう。いや、動物だって、相手は誰でもいいというわけではない。「今ここ」を切実に生きている者にとっては「相性」というのは大切だ。ただ強くてハンサムであればそれでいいというものでもない。彼らにとって大切なことは、未来を生きることではなく、「今ここ」をなだめることだった。そういう「今ここ」に対する切実さを共有できなければ、恋なんか成り立たない。
ヨーロッパには「おしゃれな疲れ果て方」というセックスアピールの文化があって、それを「アンニュイ」とか「デカダンス」というらしい。つまり、ネアンデルタールは、男も女もそういうニュアンスを持っていたということだ。もしかしたら現代人よりももっと豊かに濃密に。
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