ネアンデルタールは、およそ150人前後の集団で暮らしていた、といわれている。
チンパンジーの群れの上限が100頭くらいだから、同じような猿であったはずの人間としても、これは限度を超えた密集状態であったに違いない。
ここにいたって人類は、集団性においても、猿のレベルから離脱していった。
寒ければ、みんなで集まっていた方が体温の低下から逃れることができる。
しかし氷河期の北ヨーロッパはもう北極並みの寒さで、人間が生きてゆけるような環境ではなかった。それでもそこに住み着いていったのは、そうやってみんなで集まれば生きてゆけるからという理由ではなかった。
そんなふうに集まっても、生まれたばかりの赤ん坊はどんどん死んでゆくし、大人だって油断すればいつ死んでしまうかわからない。けっして安全な暮らしではなかった。絶滅の危機と背中合わせだった。
安全を志向するのなら、南に行った方がよい。原始時代は、どこにもいくらでも住める場所はあったのだ。それでも彼らは、生きられそうもないような、その極寒の地に住み着いていった。
それは、死んでもかまわなかったからだろう。死ぬかもしれない、ということなんか考えなかった。そうでなければ、住み着けるはずがない。
人類がなぜ地球の隅々まで拡散していったかということは、単純に人口が増えたからとか、もっと住みよい地を目指したからとかというような話では説明がつかない。人類が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった50万年前は、全人類が住みよい温暖な地に集まっていても土地が足りないというほどの人口でもなかった。
住みやすいユートピアなど目指さなかったから、拡散していったのだ。住みにくければ住みにくいほど懸命に住み着いてゆこうとする習性を持っていたからだ。
そして人類の集団性や芸術文化の素養は、もっとも住みにくい土地であったはずの氷河期の北ヨーロッパの、そうした艱難辛苦の体験から開花していった。人間ならではの絵を描くことも言葉を話すことも恋愛やセックスをすることも集団の連携プレーも、ここからはじまっているのだ。
安全に住み着こうとする計画で寄り集まっていったのではない。寄り集まっていれば、安全なんかどうでもよかったからだ。そういう気持ちになれることのエクスタシーというものがある。
人間を生かしているのは、そういうエクスタシーであって、生きていられるという安心なんかではない。そんなことが人間を生かしているのなら、自殺する者なんかいない。
人間は、エクスタシーがなければ生きていられない。
死ぬのが怖いからこそ、死ぬことなんかどうでもいいという解放感は、エクスタシーになる。
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おそらくネアンデルタールこそ、人類で最初に深く死を意識した人々だった。彼らが死と背中合わせの場所に住み着いていったことは、そういうことを意味する。
生きてあることの安心は、けっして解放にならない。それは、死が怖いということからの解放ではなく、その意識を飼いならしているだけである。それによって死が怖いという意識がなくなるわけではない。むしろ、ますますその意識が肥大化してゆくことになる。
死を意識した人類がその怖れからの解放として最初に獲得した境地は、死ぬことなんかどうでもいい、という境地だった。
そこは、けっして安全が約束されている土地ではなかったし、安全のために寄り集まっていったのでもない。安全なんかどうでもいいという意識を持ち寄って集まっていったのだ。
安全のために寄り集まっていったということは、安全のためにほか者を利用した、ということである。彼らは、そんなつもりではなかった。彼らがそこで最初に見つけた仕事は、死にそうな弱い者を生きさせることだった。そしてそのためには、自分の死などどうでもいいという意識になっていった。強い者は、進んで風上に立って弱いものを守った。そういうことをしなければ弱い者が生きられる環境ではなかった。
そこでは、誰もが平等に、死ぬことなどどうでもいいと思える環境があった。もっとも死のそばにあった弱いものたちは、存在そのものおいてすでに死ぬことなどどうでもいいという立場に立たされていた。
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人間は、死を意識する存在であるがゆえに、死ぬことなんかどうでもいい、死んでもかまわない、と思える境地にカタルシスを体験する。
だから、生き残ることが奇跡であるかのような氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。
そこには、生きることの安全なんか何もなかった。彼らが大きな群れをつくっていったのは、そんな安全のためではなかった。彼らがそこで体験していたのは、死んでもかまわないと思えるエクスタシー=カタルシスだったのであり、誰もがそんな心の動きを共有していた。
原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体がすでに、生き物として生き延びることを断念する姿勢だったわけで、それによってより豊かに生きるエクスタシーを体験していった。以来人類は、つねにそういう場に身を置いて歴史を歩んできた。進化はつねに、そういう絶滅の危機に身を置いたものたちのところで起きてきた。
人類の進化をもたらしたのは、死んでもかまわないという心地のエクスタシーだった。
最初の危機は二本の足で立ち上がったこと。
次にサバンナを横切って小さな森から森へと移動してゆく暮らしをはじめたこと。これによって肉食獣の餌食になる危機にさらされたし、炎天下の移動で大いに体力は消耗し、群れの個体数は家族的小集団のレベルまで激減した。しかし人類は、ここで踏ん張った。広い世界に出たことや肉食が習慣化したことなどによって、体が大きくなり、脳も進化した。
そしてこの次に起きた大きな進化は、そうしたサバンナでの進化から取り残されたものたちが氷河期の北ヨーロッパに住み着いてゆき、絶滅の危機をくぐりぬけて大きな集団を形成しながら人間的な文化を開花させていったことにある。
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死と親密な関係を持つこと、これを最初に本格的に意識していったのがネアンデルタールだった。だから、埋葬という葬送儀礼は彼らのところからはじまった。
それは、今でもそうであるように、集団の儀礼としてはじまった。彼らが埋葬をはじめたということは、猿のレベルを超えた集団性を持っていたことを意味する。
彼らは、みんなで死者との別れを悲しんだ。つまり、みんなで死にそうな者を生きさせようとしていたということだ。その集団は、強い者が生き残ることによって維持されていったのではない。みんなで懸命に死にそうな弱い者を生きさせることによってやっと維持されていたのであり、それほどに弱い者が次々に死んでゆく環境だった。であれば、生き延びようとする欲望なんか、誰も持つわけにいかなかった。
これが人間社会の原型であり、このかたちから文化や文明が生まれてきたのだ。
強い者が生き残るのが人間社会のかたちではない。もっとも弱い者を生きさせる文化や文明を持っているのが人間社会なのであり、この原型をネアンデルタールがつくったのだ。
人間の赤ん坊は今にも死にそうな存在であるが、その赤ん坊をけんめいに育ててゆく文化と文明を人間は持っている。
生き物は必ず死ぬ。であれば、必ず死んでしまう命をなぜ産むのかという倫理的な問題は永久についてまわるが、もっとも弱い者を生きさせるのが人間社会の存在の根拠になっているのであれば、そういう倫理的な問題を背負いながらそれでも新しい命を産み続けてゆくのが人間社会の宿命であるのかもしれない。
人間は、根源において、死を拒否していない。生き延びようとなんかしていない。もう死んでもいい、というエクスタシーによって生きている。だから、いずれ死ぬに決まっている赤ん坊を産んでしまう。
とくにネアンデルタールの社会では、寒さのために、赤ん坊は産んでも産んでも次から次に死んでいった。それでも彼らは産み続けた。それができたのは、死を親密なものとして生きていたからだ。現代人のように生き延びようとする欲望ばかり募らせる社会であったのなら、とてもできることではない。
人間は、もう死んでもいいというエクスタシーを知っている。そう覚悟して、女は赤ん坊を産む。
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限度を超えて密集した人間の集団を成り立たせているのは、エクスタシーである。
人間をして二本の足で立ち上がらせているのは、他者との関係からもたらされるエクスタシーであり、もう死んでもいいというエクスタシーである。それは、生き物として生き延びることを断念する姿勢である。その断念を他者と共有してゆく姿勢である。
生き物は生き延びようとする存在であるだなんて、いったい誰が決めたのか。
生き物を生きさせているのは、生きてあることのエクスタシーであって、生き延びようとする衝動がはたらいているのではない。生きてあることのエクスタシーとは、もう死んでもいいという心地のことなのだ。そういうエクスタシーの上に、人間の限度を超えて密集した集団が成り立っている。
人間は、死を意識する生き物である。その怖れからの解放として、もう死んでもいいというエクスタシーが体験される。
二本の足で立ち上がることは他者と関係する姿勢であり、生き延びることを断念する姿勢でもある。そして、その姿勢は、群れのみんながいっせいに立ち上がったところからはじまっている。これが、人間の集団性の根源的なかたちである。
人間がなぜ集団をつくるのかといえば、何か効用があるからとかそんなことではなく、もう先験的に存在そのものにおいて群れの中に置かれてあるかたちになっているのだ。
効用は、結果としてもたらされるのであって、そんなものを目指して集団をつくるのではない。
そしてもっとも根源的な効用とは、もう死んでもいいというエクスタシーなのだ。二本の足で立っている人間は、そういう心地を持つようにできている。それは、密集した群れの中で他者との関係の中に身を置く姿勢であり、そのエクスタシーは、そうした関係の中から体験されている。
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人間の集団性は、もっとも弱い者を生きさせることの上に成り立っている。そういう関係性の上に立って、はじめてもう死んでもいいというエクスタシーがもたらされる。
もっとも弱い者を生きさせようとするから人間は、限度を超えて密集した集団を維持することができるし、限度を超えて密集していることによってその集団性が成り立っている。
そしてそれは、限度を超えて密集してあることがうれしいからではない。そんな状態は、鬱陶しいに決まっている。しかし、鬱陶しいからこそ、そこからの解放としてのエクスタシー=カタルシスが深く豊かに体験される。人間にとって、もう死んでもいいということは、限度を超えて密集してある集団からの解放なのだ。だから人間は自殺するのだが、しかしもう死んでもいいというエクスタシー=カタルシスは、生きて限度を超えて密集した集団の中に身を置いていなければ体験できない。だから、そういうエクスタシー=カタルシスを知ってしまった者はもう、もう死んでもいいと思いながら生き続けるしかない。生きていなければ、死んでもいいとは思えない。
人間は、存在そのものにおいて、すでに限度を超えて密集した集団の中に幽閉されてある。そしてそこから、もう死んでもいいというエクスタシー=カタルシスを再生産し続けている。われわれにとって集団からの解放は、この生からの解放でもある。この生からの解放がなければ、生きてなんかいられない。
我を忘れて何かに夢中になってしまうことは、誰にだってあるだろう。それが、もう死んでもいい境地であり、この生からの解放だ。我を忘れていれば、死ぬも生きるもないだろう。人間は、そういう状態をエクスタシー=カタルシスとして体験してしまう。
人間であることの根拠は、「自己意識」にあるのではない。我を忘れることが人間であることの根拠なのだ。
ネアンデルタールは、我を忘れてもっとも弱い者を助けようとしていったし、我を忘れて大型草食獣との肉弾戦を挑んでいった。人類の歴史は、ネアンデルタールによって人間性の基礎が確立されていった。彼らは、生きられない生を生きていた。人類の進化は、いつだってそういう絶滅の危機をくぐりぬけて起きてきたのだ。
我を忘れて夢中になるという解放感が人間を生かしている。そのようにして人類の進化が起きてきた。ようするにそれだけのこと。
人が我を忘れて趣味に熱中したり誰かを好きになったりすることの基礎は、10万年前のネアンデルタールがつくってくれたのだ。
原初の人類の進化の歴史は、知能が発達したとかどうとか、生き延びるためとか、そんな子供じみた屁理屈ですむ話ではない。
人間は、死と背中合わせのところで高揚してゆく。進化は、そこから起きてきた。
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