洞窟の眠り・ネアンデルタール人論8


 ネアンデルタール人の社会では人と人が豊かにときめき合っており、それがそのまま集団のダイナミズムを生み、さらには地域社会の交流に発展し、その勢いでヨーロッパ全域に遺伝子と文化がたちまち広がり共有されていた。
 彼らは、そのような社会をつくろうとしたのではない。ただもう人と人が他愛なくときめき合っていただけなのだが、であればいつの間にか自然にそういう状況になってゆく。
 おそらく社会というのは、人と人が他愛なくときめき合うという関係さえあれば、自然に活発な状況になってゆく。そういう基礎的な関係を抜きにして、やれ「こういう社会をつくらねばならない」と叫んでも、かえって自家中毒を起こしてしまうだけかもしれない。
 ある人がこういっていました。
「家族は大切だという合意さえあれば家族はうまくいく」と。
 そうでしょうか。その合意がひとりひとりを縛って他愛なくときめき合う関係が生まれないようにしてゆく。これは、70年代の団塊世代を中心とする「ニューファミリー」というブームの基本的なコンセプトでした。家族至上主義とでもいうのでしょうか。そのときは大いにもてはやされたスローガンだったが、結果は、それによって現在の「家族の崩壊」という問題を引き起こしている。これは、この国の戦後社会の大きな蹉跌のひとつです。
 べつにみんなが家族なんかどうでもいいと思ったから家族の崩壊を引き起こしたのではない。親たちが家族の正当性に執着しすぎておかしくなっていったのです。
 家族に正当な価値があるかどうかということなんかどうでもいい。普通にひとりひとりがときめき合っていればなんとかなってゆくでしょう。そしてときめき合う関係がどのように生まれるかといえば、夫婦の絆とか親子の絆などというものにすがったってだめです。そんなものはただの幻想なのだから。たとえ夫婦だろうと親子だろうと、たがいにひとりの人間として「今ここ」の人と人として向き合っているのであり、そこからときめき合う関係が生まれてくる。夫婦や親子にだって、そういう関係性がはたらいているはずです。人間は「今ここ」を生きる存在であり、「今ここ」に立てば夫婦も親子もない、それぞれが孤立した個体としての人間どうしの関係があるだけです。
 すくなくともネアンデルタール人の社会では、誰もが集団からもこの生からもはぐれてしまった個体としての存在だったのであり、そこに立って他愛なくときめき合っていた。そこには、夫婦という概念も親子という概念もなかった。乱婚社会だったから、生まれた子の父親が誰かということなどわからなかったし、乳離れすれば、母親の手から離れて集団のみんなで育てていた。子供なんかいつ死ぬかわからない存在だったから、その死に対する悲しみは集団のみんなで引き受けた。母親はもう、自分の産んだ子の半分以上は成人する前に死んでしまうのだから、その死に対する悲しみを自分ひとりでは背負いきれなかった。
 だからネアンデルタールの社会では、大人も子供も、誰もが孤立(独立)した人と人として向き合っていた。そして人間はほんらい、その関係においてより深く豊かにときめき合うのです。夫婦や親子という関係に執着していたら、そのたてまえだけに縛られて、他愛ないときめきなんか生まれてこない。
 夫婦や親子の関係などなかったネアンデルタール人のほうが、現代人よりずっと深く豊かにときめき合っていたのです。
 現代社会に家族という単位があることはもうしょうがないことで、それを否定してもはじまらないが、それでもそこに人と人としての関係がなければ、家族は崩壊するほかない。人と人として他愛なくときめき合う関係があって、はじめて夫婦の性愛関係も親子の親密な関係も成り立つ。
 家族の正当性に執着していたら、家族は成り立たない。



 ネアンデルタール人は、誰もがこの生からはぐれてしまっている存在だった。そこに立って他愛なくときめき合っていた。
 人と人が他愛なくときめき合う関係はどのようにして成り立つかということをネアンデルタール人が教えてくれる。
 現在のこの社会には、夫婦とか、親子とか、教師と生徒とか、上司と部下とか、師匠と弟子とか、お客と店員とか、先輩と後輩とか、大人と若者とか、医者や看護婦と患者とか、さまざまな関係が存在するが、どの関係もじつは裸一貫の人と人としてときめき合う関係を持っていなければうまく機能しない。
 なぜならそんな順位関係の意識をしっかり持てといっても、人間性の自然として、人はどうしても好き嫌いの感情を抱いてしまうからです。
 人と人としての他愛なくときめき合う関係は、たがいにこの生からはぐれた裸一貫の存在になっているところで生成している。
 裸一貫の存在の人間は、この生からはぐれてしまっている。そういう迷子になってしまったような心は、人間なら誰の中にも疼いている。その心で、人は人にときめいてゆく。
 夫の愛とか妻の愛とか親の愛とか子の愛とか教師の愛とか上司の愛とか医者の愛とかといっても、多くはみずから身分(立場)をまさぐっているだけのナルシズムにすぎないわけで、自分の身分(立場)に対する意識が強すぎるとそういうことになってしまう。
 そういう身分(立場)からはぐれたひとりの人間としての心模様は誰の中にもあるはずだが、この世の中では身分(立場)の上に立っているほうが有利に生きてゆける。世の大人たちは、何かにつけてそのような順位関係を正当化し振りかざそうとする。
 それに対してネアンデルタール人の社会では、誰もが裸一貫のひとりの人間だった。そうやって心は集団からもはぐれてしまっていた。誰もがはぐれてしまいながら、誰もがときめき合っていた。はぐれてしまわないと、他愛なくときめき合う関係は生まれてこない。
 まあ現実問題としてネアンデルタール人の場合は、寒くて凍え死にそうな環境だったから、他者の体がそばにあって寄り集まっていないと生きられなかった。寒くて凍え死にそうなくらい心はひとりぼっちではぐれていってしまうが、だからこそ他者がそばにいることに他愛なくときめいてしまう。
 ネアンデルタール人ほど人と人が親密な関係の集団をつくり得た人類なんか、どこにもいない。彼らは、誰も「身分=立場」など持っていなかった。誰もが寒空の下で凍えている裸一貫の人間だった。



 人の心は、この生からもはぐれていってしまう。
 だから「生の尊厳」などということをわざわざいわなければならなくなるのだが、それはしかし現代人の過剰な自意識による作為的な認識であって、普通に考えて生きてあることにそんな価値などあるはずがないし、生きてあることからはぐれてしまっている人間のほうがずっと深く豊かに他者にときめいている。ネアンデルタール人のように。
 ネアンデルタール人の生存環境は苛酷でしんどいばかりで、心がこの生=身体のことなど忘れていなければ誰も生きられなかった。
 人類は、この生からはぐれながら二本の足で立ち上がったのです。そうして、深く豊かに他者にときめいていった。人間の無意識はこの生からはぐれてしまっており、そこから心が華やぎ生きはじめる。
「生の尊厳」というなら、「生からはぐれてしまうことの尊厳」だってある。
 今どきの人類学者たちは、ネアンデルタール人がいかに深く豊かにときめき合いながら集団をいとなんでいたかということに対する認識がなさ過ぎます。
 原始時代であれ現代であれ、集団のダイナミズムは、いかによい集団をつくるかという政治経済的な計画性や目的意識、すなわち現代的なそういう不純で通俗的で作為的な意志や欲望によってではなく、原始的なただもう人と人が他愛なくときめき合っているというそのことを契機にして自然に生まれてくる。
 現代社会だって、ダイナミックな集団性は、そこにこそある。
 たとえば「流行」という集団現象は、人の心が他愛なくときめき合っていった結果として起こっていることで、そうであらねばならないという理由があるわけではない。
 家族は大切で意義ある集団だから守らねばならないと説いたって、その基礎として他愛なくときめき合っているという関係がなければ崩壊するばかりだし、他愛なくときめき合っていればそんなスローガンなどなくてもなんとかなってゆく。
 人間の集団は、根源・自然において人と人が他愛なくときめき合っていることの上に成り立っている。集団にもこの生そのものにも意義や価値などない。集団もこの生も、つくるべきものではなく、すでに目の前に存在しているやっかいな対象です。ネアンデルタール人の心は集団からもこの生からもはぐれながら、ただもう他愛なく人と人がときめき合っていただけであり、それが彼らの集団や生のダイナミズムになっていた。
 


 ネアンデルタール人の男と女は毎晩抱き合って眠りについていた。そうしないと凍え死んでしまう環境だった。とうぜんセックスもしていたのだろうが、大事なのはあくまで抱き合って眠りにつくということだった。
 眠りにつくことこそ、彼らのもっとも大切な生のいとなみだった。
 眠りにつくことが彼らの生のはじまりだった。
 大きな洞窟では、たくさんの人間がそこで寝起きしていた。まあ、入り口が狭くて中が広くて深いという洞窟が理想だったのかもしれない。入り口には簾か戸のようなものをしつらえていたらしい。
 大人たちは入り口近くで寝て、体力のない子供たちは奥の方で寝た。奥の方はおそらく井戸水と一緒で、夏はひんやりして冬でもあまり温度が下がらなかった。
 ネアンデルタールクロマニヨン人の洞窟壁画はたいてい奥の部屋に描かれてあります。人類学者たちはこれを、そこで宗教儀式がなされていたなどと解釈しているのだが、たぶんそうではなく、ただ子供たちの心を落ち着かせて安らかに眠らせてやるためのものだったのでしょう。子供たち自身も壁面の隅っこに落書きしていたらしい痕跡もたくさん残っている。
 彼らの洞窟壁画は、宗教のためではなく、彼らにとって眠りにつくことがいかに大切だったかということを物語っている。
 奥の空間が広ければ、大人も子供も一緒に寝ていたかもしれない。
 洞窟の中は、われわれが想像するほど寒くはなかったのでしょう。言い換えれば奥が深い洞窟に住む集団しか氷河期の冬を生き残ることはできなかった。だから彼らは、外に家を建てようとはしなかった。かんたんな作業用の小屋のようなものはつくっていたらしいが、寝起きは洞窟の中でしていた。外に家を建てなかったことも、彼らが家族という単位を持たなかったことの一因になっているのかもしれない。
 しかしそのもっとも大きな原因は、彼らがだれかれなく他愛なくときめき合っていたことにあるし、ひとまず寒いのだから、抱き合っていないと眠れなかった。毎晩抱き合ってセックスするなら、頻繁に相手が変わったほうがいい。それが自然です。同じ相手と生涯毎晩セックスするなんて、ほとんど不可能です。現在の西洋の家庭の男たちはその不可能を克服することを強いられているらしいが、夫婦がセックスするものだという前提をつくってしまうのはどうしても無理がある。ネアンデルタール人は毎晩のように相手が変わったからそれが可能だったのでしょう。そしてその関係だって、男と女の性衝動という以前に、人と人として抱き合わずにいられないわけがあった。



 ネアンデルタール人の男女が毎晩のように相手を変えてセックスしていたといっても、べつに野蛮で好色だったからというようなことではなく、とにかく人と人としてときめき合うものがあったのです。
 女は、気に入らない男なら拒否する。それが生き物としての自然でしょう。しかし、ネアンデルタール人の女は拒否しなかった。とにかく人と人として抱き合おうとするわけがあったからです。そして彼女らは、ひとりの男に執着するということもしなかった。原始人はだいたい世界中みなそうだった。これも、生き物としての自然です。
 猿だって、相手はボスでないといやだと思っているわけではない。そのような原則があっても、じつはいくらでも不倫の子が生まれている。
 おそらくネアンデルタール人の乱婚社会は、誰もがあまり相手を選ばなかったことの上に成り立っている。
 それほどに彼らはこの生からはぐれてしまっていた。彼らは、自分が生きることよりも、他者を生かすことに熱中していた。抱き合えば、他者の身体ばかりを感じて、自分の身体に対する意識が消えている。この生=自分からはぐれて他者の存在ばかりを鮮やかに感じてゆくことによって心が華やぎ、誰もがときめき合っている集団が生まれる。それが彼らの生の作法だった。いつ死ぬかもしれない上に苦痛ばかりの身体=自分=この生に執着して生きることなんかできなかった。他者の身体を抱きしめることは、みずからの身体の苦痛=寒さを忘れることだった。
 つまり彼らは、好きな相手と抱き合いたいというような自意識でそんなことをしていたわけではない、ということです。自意識を消すためだ、といってもいい。生きてあることに始末をつけるためだ、といいかえてもよい。そうやって「世界の終わり」から生きはじめるのが彼らの作法だったのであれば、自分の好みなどあまり強く意識しなかった。女たちは、寄ってきた男はすべて抱かせてやった。そういう娼婦性は、生き物としてのメスの本能でもある。女は根源的には性衝動というものを持っていないから、そういうことが可能になる。 
 現代では「女にも性欲がある」とよくいわれるが、それはあくまで現代人の自意識の問題で、男に執着されたい、というような淋しさとか飢餓感である場合が多い。メスとしての本能的な性欲の問題ではない。メスに性欲があってオスに寄ってゆこうとする本能があるのなら、オスのメスに寄ってゆこうとする本能なんかなくてもいいでしょう。自然界の雌雄の関係は、そのようにはなってはいない。メスに性欲がないから、オスの性欲が活発に起きてくる。
 ネアンデルタール人の社会でも、女が寄ってきた男には抱かせてやるという生態を持っていたから、男もまただれかれかまわず寄っていったし、大事なのは「抱き合う」ということであり、「眠りにつく」ということだった。
 そうして、男どうしや女どうしで抱き合うことにも、それほど抵抗感はなかったのかもしれない。それはセックスのための行為ではなかったのだから。
 それは、「他者を生かす」という行為だった。他者を生かすことによってみずからのこの生に始末をつける行為だった。そうやって、眠りに堕ちていった。それは、この生の終りであると同時にはじまりでもあった。



 ゆえに、ネアンデルタール人は毎晩抱き合ってセックスしていたが、好色だったともいえない。それは単純な性愛関係ではなく、男と女という以前に、人と人として抱き合う行為だった。
 彼らはすでにこの生からはぐれてしまっており、「生殖」とか「種族維持」というような意識はなかった。
 男あるいは女として抱き合いたいというのではなく、人間としてというか一個の個体として抱き合わずにいられない状況に置かれていた。ときめき合っていたとすれば、人間あるいは一個の個体としてときめき合っていた。
 生き物のメスは、オスを選んでいるのではない。優秀な子孫を残そうとする種族維持の本能だとか、何をくだらないことをいっているのだろう。やらせてやってもいいという気になるタイミングがあるというだけのことです。鳥や魚の場合は、タイミングが悪ければ、たとえ優秀なオスでもやらせてもらえない。猿山のボスがセックスの権利を独占しているのは順位関係を誇示させるためであるし、メスはその権力にしたがっているだけで、べつに優秀な子孫を残そうとする本能があるのではない。その証拠に、どんな猿集団でも2,3割はボス以外のオスの子が生まれているらしい。
 毎晩抱き合ってセックスするなんて、人類史上ネアンデルタール人ほどダイナミックな男女関係を持っていた人々もいないといえるのに、それは必ずしもただの性愛関係ではなかった。それはもう、人と人としての切実で熱っぽいときめき合う関係だったのです。
「しょせんは男と女の世の中だ」というが、その男と女の関係すら、ネアンデルタール人の時代を通過した人類史の無意識の基層には、裸一貫の人と人として向き合うという関係性が潜んでいる。人間社会は、男と女の関係すらただの性愛関係ではすまないし、ましてや親子だの教師と生徒だのという「身分(立場)」だけで完結できるような関係などどこにもない。あくまで裸一貫の人と人として向き合いときめき合うことがでなければ、関係は成り立たない。
 「倫理の起源」というなら、それは人と人の関係として発生してきた。男と女の関係の倫理とか家族の倫理とか社会集団の倫理などといっても、そういう身分=立場の問題ではなく、裸一貫の人と人してどう向き合ってゆくかという基礎の上にしか成り立たない。
 ネアンデルタール人は、男と女の関係すら裸一貫の人と人の関係に昇華していったのです。そこに人類の「倫理の起源」がある。
 この生を称揚するために倫理が生まれてきたのではない。この生からはぐれてゆくことによって人ははじめて人になるのであり、そこから人類の倫理が生まれてきた。
 まあ人類史にどのようにして家族が生まれてきたかといえば、はじめに家族の倫理があってそれに合わせて家族がつくられていったわけでもないでしょう。人と人の関係をやりくりするなりゆきから家族が生まれてきた。家族の本質を支えているのは、家族の関係性の倫理ではなく、あくまで裸一貫の人と人のときめき合う関係性こそが家族を本質のところで支えているのです。
 ネアンデルタール人のように、誰もがこの生からはぐれた存在にならなければ、裸一貫の人と人の関係は生まれてこない。戦後社会の経済成長とともに生まれてきた「ニューファミリー」という核家族は、「身分=立場」の関係で縛り合うことによって崩壊していった。なのに、なお多くの識者が、いまだに父・母・夫婦・親子とは何かというような議論を繰り返している。そんなことはどうでもいいのです。どんな関係にも、裸一貫の人と人の関係がなければ息苦しいばかりです。
 ネアンデルタール人は家族はつくらなかったが、その後の人類史における家族を含めた人間の集団を支える本質的な関係性は、彼らによって用意されている。ただもう他愛なくときめき合うという関係がなければ、人間の集団はやがて停滞し衰弱してゆく。それはもう、家族においても国家においてもそうなのです。
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