ちょっとだけ余計なことをいわせてください。
僕は政治のことなんか何も知らないし興味もないのだけれど、どいつもこいつも寄ってたかってこの国の総理大臣にけちをつけていい気になっていやがる。
内田樹先生をはじめとするインテリ連中もマスコミも、そして庶民も、総理大臣をけなしたり皮肉ったりバカにしたりして何ものかになったつもりでいやがる。
まるで、俺だったらもっとうまくできる、といわんばかりに。
冗談じゃない。おまえらの誰がうまくできるというのか。
政治の現場というのは、はたで思うほどかんたんなものじゃないだろう。
とくに放射能のことなんか、何もかも初めての事態なんだから、そうそう絵に描いたようにスムーズにいくものか。
菅さんは菅さんなりに精いっぱいやっているんだろうし、ほかの人間がやったらもっとへました可能性だってあるんだぞ。
ほんとにやめてしまうらしいけど、やめなければいいのに。「冗談、冗談」といって笑ってごまかしてしまえばいいのに。そうして、2年でも3年でも居座ってやればいいのに。偉そうに菅さんをけなしている連中が疲れ果てるまで居座ってやればいいのに。
政治なんか総理大臣の下に各大臣がいて官僚がいて現場の人がいて、みんなでやっているのだから、べつに菅さんから誰かに変われば劇的によくなるとか、そんなものでもないだろう。いや僕は、よくなるというのはどういうことか、よくわからないんですよ。もちろん、何が悪いのかも、よくわからない。
ただもう、おまえらの知ったかぶりがうざったいだけなんだ。
僕は、こうすればいいとかああすればいいとか、まるで自分がいちばんえらいかのような顔をして未来を語りたがるのが、大嫌いなのだ。
未来のことに正解なんかあるものか。何がよい結果をもたらすかなんて、だれにもわからないのだ。
おまえがその未来を知っているとでも言いたいのか。
それでも何事かを決断しないといけない総理大臣という立場はしんどいだろうな、と思う。少なくとも、外野のおまえらよりは菅さんの方がずっと切羽詰まったところで考え決断している。
もし菅さんがいくつかのへまをしたとしたら、気持ちよく仕事をさせてやらなかったおまえらにも責任があるのだぞ。
たいしてものを考える才能もないくせにいい気になって菅さんをけなし続けている日本中のおまえらの、その薄っぺらな脳みそがいちばんうざったいよ。
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話を元に戻そう。
人間の社会性の基礎というようなことを考えたいのだ。
生き物は、「もっとも弱いものを生きさせようとする」衝動を持っている。それは、生き物の命の仕組みそのものがそういうかたちになっているからだし、その衝動を持っていなかったら、この世のもっとも弱い存在である赤ん坊は育てられない。
生き物の身体は、必要最小限の機能で生きている。ライオンだって、必要最小限の捕獲能力しか持っていない。もっと早く走れたらシマウマをつかまえることなんか簡単だが、そうなればシマウマはとうに滅びてしまってライオンも生存できない。ライオンがこれ以上の捕獲能力を持ったら、この世に存在することができない。それを、生物多様性というらしい。
すべての生き物が必要最小限の身体能力で生きているから、生物多様性が成り立つ。
誰もが、みずからがもっとも弱いものとして生きている。生き物が生きることは、もっとも弱いものを生きさせるいとなみなのだ。
弱いものを生きさせることに、生きることの醍醐味がある。自分の身体も、自分にとっての他者の身体も、つまりはそのようにして成り立っている。
原初の人類は、みずからの命を削って二本の足で立ち上がり、弱い猿になった。弱い猿になって、たがいに生きさせようとして、みんなで立ち上がっていった。人間の直立二足歩行は、弱いものを生きさせようとする衝動の上に成り立っている。
少なくとも30〜3万年前の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタールの社会では、弱いもの生きさせることを追求しながら大きな群れを形成していった。
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性衝動とは、他者を生きさせようとする衝動である。僕はべつにフロイトの信奉者でもないけど、その衝動を基礎にして人類の集団が発達してきたのだろうと思える。
原初の人類が直立二足歩行を常態化していったことにしても、おそらく性的な関係に新しい展開があったからだろう。食糧確保とか外敵との戦いとか、そんなことにメリットがあったわけではあるまい。そういうメリットなどすべて失って「弱い猿」になってしまったのだ。
しかし、性衝動がダイナミックになったということは、たしかにありうる。
チンパンジーの世界では、基本的には強いボスがメスを独占する一夫多妻制だし、発情期以外にセックスすることはあまりない。
アフリカでは、今でもそうした一夫多妻制の習俗が残っているし、10〜5万年前のホモ・サピエンスの家族的小集団は、おそらくそのような仕組みになっていたのだろう。そこでは、弱いものが生きられないそれはそれで厳しい世界だった。
それに対して同じころの北ヨーロッパネアンデルタールは、この関係から決定的に決別して乱婚社会をつくっていた。もちろんチンパンジーの群れでも、ボスの目を盗んでほかの猿がメスと交配してしまう乱婚関係もいくらでもある。ネアンデルタールは、こちらの方の関係を徹底させていった。そしてそれは、人類の新しい関係ではなく、直立二足歩行の開始の時期に戻る、いわばルネサンスだった。
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猿は、発情期になるとメスの性器が赤く膨らんで、いつでもオスのペニスを受け入れることができるというしるしを外にさらしている。そうなったメスにとっては、たぶんオスなんか誰でもいいのだ。だから、オスどうしで争いが起きる。メスがボス猿のペニスを受け入れるのは、ペニスであれば何でもいいからで、優秀な遺伝子が欲しいからではない。ほんとうに優秀な遺伝子が欲しいのなら、オスどうしに争わせるまでもなく、自分からボスのところに寄ってゆく。オスどうしで争うということは、メスに選択の意思がないということだ。発情のしるしを外にさらしてしまっているのだから、選択の意思が生まれてくることは論理的にありえない。もしもオスどうしの争いがないのなら、早いもの勝ちで、すべてのオスにチャンスがある。
メスがオスを選択するようになったのは、直立二足歩行をはじめて人間になってからのことだろう。
二本の足で立ち上がれば、メスの性器は尻の下に隠され、発情のしるしもどんどん退化していったから、オスはもうそれを知ることができなくなってしまった。そしてオスは、四足歩行のときには隠していたペニスを、体の正面に露出させてしまった。
この瞬間から、女は、見られる存在から見る存在に変わった。男は、見る存在から見られる存在に変わった。
女が裸を見られることに嫌悪や羞恥などのストレスを感じるのは、人類の歴史のはじめにおいて、ずっと「見る」存在で「見られる」存在ではなかったからだろう。つまり、もともと「見られる」存在ではないにもかかわらず「見られる」存在になってしまっている。
逆に男があんがい平気なのは、そのはじめからずっと見られてきたからだろう。ペニスを外にさらして存在しているのだから、もともと見られるほかない存在なのだ。正確には、平気ではないが耐えることができる、ということだろうか。
二本の足で立っている人間は、胸・腹・性器等の急所を正面にさらしているのだから、根源的には、見られることに不安や恐怖などのストレスを抱えている存在なのだ。そのストレスが極まって、衣装をまとうようになった。
ともあれ女は、二本の足で立ち上がったことによって男を「見る=選択する」存在になった。
原始人の壁画を見ると、ときどき牛などの動物にペニスが描かれてある。これはきっと、女が描いたのだ。男は決してそんなものまでは描かない。
女が選択する側になれば、男どうしの女をめぐる争いも無意味になる。
また、男がいきなり後ろからずぶりというようなセックスもしなくなり、正面から抱き合ってするようになっていった。この体位をとれば、たがいの体の正面で感じている不安や恐怖を消去し合うことができた。したがってこの体位でセックスするようになったのはあんがい早かったのかもしれない。なんといっても体の正面に宿る生き物としての不安や恐怖は、猿に近かった原初の人類の方がずっと切実だったはずだ。
正面から抱きしめ合ってセックスすることは人間的な行為であるが、セックスするだけなら猿でもしている。
たがいに急所をさらしながら正面から向き合う、というところに、人間的な連携、すなわち社会性の基礎がある。
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そのとき人間は、弱い猿としておびえながら向き合っていた。そうして、たがいに弱いものを生かそうとする本能的な衝動に目覚めていった。
このときの「生きさせる」とは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保して、相手に身体が動く自由を与えることであり、自分もまたそれによって身体が動く自由を与えられている。これがおそらく、最初の人間的な連携になった。
しかし、なんといってもそのときただの猿だったのだ。関係としてはひとまずそういうことだが、そのような意図があったというわけでもなかろう。
結果としてそういうかたちになったというだけのことで、何を意図したのでもない。ただもう、なぜだか知らないが攻撃の衝動が起きなかった。そうして、どこかしらに解放感があった。それは、二本の足で立ち上がってたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくったのだから、第一義的には密集した群れの中で体をぶつけ合って行動していたことからの解放だったのだが、猿であったときの、つねに他者と順位争いをしていたことの緊張関係からの解放でもあった。
オスたちはもう、メスをめぐって争うということをしなくなったはずである。メスに選択権が移ったことも含めて、二重に争う理由がなくなった。争うよりも、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合うことが第一義の関係になっていった。
とはいえこの関係をつくることは、それはそれで猿のときの緊張関係以上のストレスをともなうものであったが、そのぶん解放感(カタルシス)も深かった。そしてこの関係の果てに、正面から抱き合ってセックスするという関係が生まれてきた。
また、見つめ合うことも、言葉を交わすことも、この正面から向き合うという関係の上に成り立っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、弱い猿になっただけのことだった。生存戦略のメリットなど何もなかった。それによって知能が発達したわけでもなかった。最初の数百万年は、猿のレベルを超えてゆく進化など何もなかった。それでもその姿勢が定着していったのは、群れの中での他者との関係に新しい展開があったからだろう。その関係からカタルシスを汲み上げる体験をしていったからだ。
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生きてあることがカタルシスであるのではない。
生きてあることを忘れることがカタルシスなのだ。
何もかも忘れて夢中になってゆくことができたら、それがいちばんだろう。そういうエクスタシーが人間を生かしているのであって、生きてあることに執着し、それをまさぐり続けることにあるのではない。
つまり、食い物や経済のことが歴史をつくってきたのではなく、生きてあれば誰もが体験するそのエクスタシーの集積が人間の歴史を動かしてきたのだ。
少なくともネアンデルタールの集団を支えていたのはそういうエクスタシーだったのであって、ただの物理的な生存戦略だけで生きていたのではないし、そんなことだけで生きている人間なんか現在にだってどこにもいないのだ。彼らが命知らずの狩に熱中していったのは、どうしてもそうした獲物を食べなければならないという経済的事情以前に、その行為にエクスタシーがあったからだ。その獲物の肉を食うことは、あくまで結果のことであり、それによって彼らの集団が生き延びたとしても、それはもう天の配剤というか、結果としての歴史のなりゆきにすぎない。
人間の歴史は、進化を目指してここまで歩いてきたのではない。直立二足歩行の開始以来、つねに生き延びるという目的なんか忘れて、あくまでエクスタシーに動かされてきたのだ。
目的もなくそのときその場のエクスタシーを汲み上げてきただけだ。その結果として、なぜか他の動物のレベルをはるかに超えて進化してしまった。
それはもう、結果としての歴史のなりゆきだった。
つまり、現代社会においてはつねに「未来を展望する」ということがいちばん大切なことのようにいわれているが、人間の根源においてはそんな心の動きははたらいていないし、そんなことをして人間の歴史が動いてきたのでもない、ということだ。
多くの人類学者は、「未来を見通す知能を持ったことが人類の進化をもたらした」と言っている。そうじゃないんだよ、未来なんかどうでもいい、もう死んでもかまわない、という「今ここ」のエクスタシーが人類の進化をもたらしたのだ。
人間の知能や文化文明は進化してきたが、進化を目指したわけではない。
インコやオウムは、大きくて硬いくちばしを持とうとしたのではない。硬い木の実しかなかったわけでもないのに、硬い木の実を砕くことに熱中してしまった。そういうあまり意味もないエクスタシーが進化をもたらすのだ。生き物には、そうやって「この世のもっとも弱いもの」になることのエクスタシーがある。そのエクスタシーの上に「生物多様性」が成り立っている。
コアラが常食にしているユーカリの葉は、動物にとっては命にかかわる毒を持っている。だから、コアラ以外は食べない。コアラの内臓はそれを解毒するシステムを持っているが、内臓の調子が悪くて解毒に失敗すれば死んでしまう。そのときコアラは、死と背中合わせの悩ましい官能に身を任せている。そういう体験がなければその習性は生まれてこない。
ただの経済原則だけで歴史は語れない。
エクスタシーが進化をもたらす。
人間が限度を超えて密集した群れをいとなむようになったのは、そうすれば食料が効率よく得られたからとか、そういう問題ではない。
そんなためなら、食料を得る能力があるものだけの精鋭チームをつくればよい。密集した群れをつくるということは、そういう能力のないものも仲間に入れてそういうものにも食糧を分けてあげなければならないということである。
ネアンデルタールは、狩の獲物は、弱いものから順番に食べていった。そうでなければみんなが生きるということはできなかったし、誰もがそれを当たり前だと思っていた。
強いものにとっては、これほど割に合わないことはないだろう。しかし彼は、狩において、弱い者が体験できない深いエクスタシーを体験していた。それが、彼をして狩に駆り立てていた。それに、弱いものを生きさせる、というよろこびもあった。
限度を超えて密集すれば、何事においても効率は悪くなる。それでも人間は、その非効率を引き受けて、エクスタシーに身を任せてゆく。
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