人間が限度を超えて密集した群れをつくる習性を持っているのは、二本の足で立っている存在だからだ。
ひとまずそういうことだが、そのことのメリットをイメージしてそれを得ようとしたからではない。生き物の根源に、そんな「今ここ」で持っている能力以上のものを得ようとする衝動はない。むしろ、みずからの能力を必要最低限のところに置こうとする傾向がある。だから、困難なことにトライすることに熱中してしまう。それは、みずからの能力を進化させようとしているのではなく、それをなすために自分が最低限の能力しか持っていないというその状況の中に身を置くことにときめいているのだ。
それは、自分が「この世のもっとも弱い存在」になることである。弱い存在は、ありったけの能力を出さなければ生きられない。ありったけの能力で生きているという充実感は、困難な状況に身を置いてこの世のもっとも弱い存在になることによって体験される。
強い者や頭のいい者が必ずしもそういう自覚で生きているとはかぎらない。そういうものたちでさえ、さらに困難な壁を前にしてみずからの無力に嘆き「この世のもっとも弱いもの」として生きている場合も多い。なぜならそれが、生き物の自然だからだ。
生きてあることの充実感=エクスタシーは、この世のもっとも弱い者がいちばんよく知っているし、誰にとっても生きることはそういう状況に身を置き続けるいとなみなのだ。
息をしなければ、息苦しい。息をしなければ、誰も生きていられない。だったら生き物は息をしなくても生きられるようになること目指すかといえば、そんなこともないだろう。われわれは、息をしないと生きられない弱い存在なのだ。
誰も飯を食わなくても生きられる存在になろうとはしない。人は、飯を食わないと生きられない存在として、飯を食うことに快楽を見出してしまう。
何もしなくても生きていられる生き物などいない。
われわれは、飯を食わないと生きられない弱い存在であることに甘んじて生きている。
生き物のものを食おうとする衝動は、ものを食わないと生きられないということの上に成り立っている。
そういう弱い存在になることによって、エクスタシーが体験される。だから生き物は、困難な状況に身を置こうとする。その困難な状況をかんたんにクリアできるようになりたいのではない。困難な状況に身を置くエクスタシーがあるのだ。進化は、そのことの結果にすぎない。
職人が「一生修行です」というのも、科学者が「なぜ?」という問いを決して手放さないのも、困難な状況に身を置くことのエクスタシーにせかされているのだ。それは、この世のもっとも弱い存在になることであり、もっとも弱い存在を生かそうとする衝動にほかならない。
生き物は、命の仕組みとしてそういう衝動を持っているから、赤ん坊というこの世のもっとも弱い存在を育てることをする。
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原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、この世のもっとも弱い存在を生かそうとする衝動に目覚めてしまった。そうなればもう、もっとも弱い存在をどんどん抱え込んで、どんどん群れは密集してゆく。それがどんなに困難な状況であっても、その困難な状況を生きることのエクスタシーがあった。
この衝動とともに、原初の人類は、住みにくいところ住みにくいところへと拡散していった。
そうして50万年前には、とても原始人が生きていけるところではないはずの氷河期の北ヨーロッパに住み着いてしまった。
この衝動が極まればもう、何かメリットがあるからというような目的などどうでもよかった。少なくとも生き物としての生存戦略においてはなんのメリットもないという、その困難な状況こそが住み着く理由だった。
人類が直立二足歩行をはじめたことにせよ、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったことにせよ、そういうことでなければ説明はつかないはずである。そして、原初の人類が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったことは、遠い昔の直立二足歩行をはじめた体験のルネッサンスであったはずだ。
彼らはそこで、「この世のもっとも弱い存在」として生きることのエクスタシーを体験していった。
それはまあ、現代に照らしていえば、原発事故のあったチェルノブイリ福島県飯館村に危険を承知で住み着いてゆくことと同じ心の動きだろう。危険であれば避難するのが当然だというような、人間はそんなかんたんな生き物ではない。だったら、この世に冒険家など存在しないし、誰もその冒険を称賛しない。われわれは、その冒険にわれわれが失いかけている人間としての本性を見ている。
危険なところにこそ、より深いエクスタシーがある。腹が減ったという命の危機において、はじめて何を食ってもうまいというエクスタシーが体験される。
住みにくければ住みにくいほど、そこには深いエクスタシーがあった。だから人はそこに住み着いていった。
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そこでは、誰もがこの世でもっとも弱い存在として生きていた。つまり、誰もが死と背中合わせで生きていた。
これほど官能的な生のかたちもないだろう。彼らが抱きしめ合わずにいられなかったのは、ただ寒いからというだけではなかった。誰もがこの世でもっとも弱い生き物として生きていて、誰もがそうした存在である他者を生きさせようとしていったからだ。
そこには、他者を生きさせるよろこび=官能があった。
官能とは他者の体を感じることであって、自分の体を感じることではない。自分の体が消えて、他者の体ばかりを感じることだ。
言いかえれば、自分の体を忘れてしまうためには、他者の体を感じていなければならない。
自分の体は、つねに苦痛として知らされる。痛いとか痒いとか暑いとか寒いとか息苦しいとか空腹だとか、自分の体を感じることは、苦痛を感じることだ。そうした苦痛がなければ、われわれは体のことなんか忘れている。苦痛から逃れることは、体のことを忘れてしまうことだ。したがって生き物は、体のことを忘れてしまおうとする衝動を持っている。
他者を生きさせようとする衝動とは、他者の体を感じて自分の体を忘れてしまおうとする衝動でもある。
自分の体を忘れてしまうこと、自分の体が消えてゆくこと、そのようにしてエクスタシーが体験される。だから人は、本能的に他者の体を感じようとし、他者を生きさせようとする。そうして、抱きしめ合う。
氷河期の極寒の地で生き難い生を生きていたネアンデルタールこそ、もっとも自分の体を忘れようとしていた人々であり、もっとも他者を生きさせようとしていた人々だった。誰もが「この世のもっとも弱い存在」として生きていた。彼らは、他者を生きさせて他者の体を感じていないと「自分の体=寒さ」を忘れることができなかった。自分の体が死と背中合わせに存在していることを忘れることができなかった。
彼らは、大きく密集した群れをつくることのメリットを追求していったのではない。そういう通俗進化論的な動機などなかった。ただもう他者を生きさせることのカタルシスを汲み上げていっただけであり、そのようにして人類が大きく密集した群れをつくろうとすることの基礎が築かれていった。
人間がなぜ限度を超えて大きく密集した群れをつくりたがるかといえば、根源的には何かメリットがあるからではなく、他者を生きさせようとする衝動が生き物の限度を超えて切実だからではないだろうか。
僕はべつに、われわれも原始人のように生きるべきだ、と言いたいのではない。ただ、われわれが今なお密集した群れをつくる生き物であるかぎり、そうした衝動は根源において共有しているはずだ、と言いたいのだ。
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