人間の社会は、チンパンジーの社会をそのまま延長したものではない。直立二足歩行、すなわち二本の足で立ち上がることによって、群れの性格は決定的に変化した。それまでの優位性を争う緊張関係の上に成り立っていた群れが、融和的な関係に変わった……と書くと、何やら胡散臭い道徳論になってしまいそうだが、ここではそういうことがいいたいのではない。
集団の構造が変わった、ということ。意識の変化は、そのあとにやってきたにすぎない。そういう意図を持ってそのように変化させた、ということではない。気がついたらそうなっていただけのこと。
人類が二本の足で立ち上がったことは、体をぶつけ合って行動していた四足歩行の猿の密集した集団がそれによってたがいの体のあいだに「空間=すきま」をつくり合った、という体験である。つまり、それによってくっつき合っていた関係がいったん離れたということであり、それまでの緊張関係を解体した、ということだ。
逃げてゆくことによって離れたのではなく、上に立ち上がることによって離れた。集団を解体することなく離れた、というか、その密集しすぎた集団を維持する行為として離れた。
チンパージーの集団は優位性を争う緊張関係に成り立っているから、余分な個体は必然的に追い払われてしまう。しかしそのとき人類は、追い払うことも逃げ出すこともできない孤立した森の中に置かれていたために、誰も追い払うことなく、密集した群れをそのまま維持していった。
そのとき人類は、追い払うことも逃げ出すこともしなかった。それが、二本の足で立ち上がる、ということだった。
それは、離れることであって、離れることではなかった。くっつくのではなく、離れることによって融和していった。
ともあれ離れたのだから、緊張関係は解消された。離れる、という行為だったのだ。そして、離れることによって、より密集した集団をいとなむことのできる関係をつくっていった。
人類の集団は、そういうパラドックスの上に成り立っている。
ただ、どうすれば集団が生まれるかという問題ではない。そのとき人類は、二本の足で立ち上がることによって、どうすれば限度を超えて密集した群れをいとなむことができるか、という問題をクリアしたのだ。
したがって人類の集団性の根源を考える際に、猿の集団との連続性を考えてもあまり意味がないことの方が多い。猿とは、集団そのものの性格が違う。
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群れどうしのテリトリー争いとか、そういう戦闘的な興奮を共有してゆくことが人間の集団性の根源にもなっている、という言説はわりと西洋人の好むところである。
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もしも二人の者が同一の物を要求し、それが同時に享受できないものであるなら、彼らは敵となり、たがいに相手を滅ぼすか、屈服させようと努める。「リヴァイアサン(トーマス・ホッブス)」
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彼らはだいたい、こういうところを人間の本性として考えている。
しかし人間は、相手の方が弱いなら、相手に譲ってしまう傾向も持っている。いやほかの生き物だって、そういう傾向=衝動を持っていなければ、この世のもっとも弱い者である赤ん坊を育てることなどできない。
生き物は、その根源において他者を生かそうとする衝動を持っている。この衝動がなければ人類の直立二足歩行は生まれなかったし、この衝動の上に人間の集団が成り立っている。
集団の興奮とかヒステリーといっても、それは集団をつくったことの結果であって、契機ではない。集団でなければそういう現象が起きないのだから、それが集団が生まれてくる契機になることは論理的にありえない。
敵に向かって一致結束して戦うために二本の足で立ち上がったのではない。戦うなら、四足歩行の姿勢の方がずっと俊敏に動けて、胸・腹・性器等の急所も隠しているからはるかに有利なのである。群れどうしで戦えば、間違いなく二本の足で立っている方が負ける。手に棒を持っていたって、動きが鈍くふらふらしているからそんなことがアドバンテージになるはずもない。
人間は、他者と離れて立とうとする本能を持っている。だから、原初の群れどうしも、離れてたがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま」を持っていた。この「空間=すきま」で「市(いち)」が起き、「交換」という関係が生まれてきた。
戦おうとする衝動を消して二本の足で立ち上がり、より密集した群れをいとなむことができるようになったのだ。
まあ、二本の足で立ち上がっていったとき、そこは孤立した森で、ライバルの群れも外敵もいなかった。群れが結束するべき理由など何もなかった。彼らは、結束したのではない。たがいに離ればなれになったのだ。離ればなれになったからこそ、限度を超えて密集した群れをいとなむことができた。
そのとき彼らは、離ればなれになるためのたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有していた。この「共有」しているという関係が、限度を超えて密集した群れを成り立たせていた。
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他者と関係しようとする衝動がはじめにあるわけではない。たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有しているから、関係するほかないのだ。たがいに連携してこの「空間=すきま」を確保してゆく。人間は、そういう先験的な関係性の中に置かれて存在している。言いかえれば、この「空間=すきま」が、人間たちに関係をつくらせている。
最近、人類学者たちの言説で、「誘惑」という言葉をよく耳にする。つまりもともと社会性は人と人の1対1の関係から発しており、それが社会的なネットワークに広がってゆく。そして人と人の関係は、誘惑するものと誘惑されるものという関係になっている、というわけだ。
では、原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、最初は二人だけの行為で、それがしだいにネットワークとして広がっていったのか。そうではない。みんないっせいに立ち上がったのだ。たとえば、水の中に油を垂らせば、たくさんの丸い粒がいっぺんに浮かぶだろう。そのようなことだ。相手に誘惑されて立ち上がったのではないし、相手を誘惑したのでもない。立ち上がらせたのは、限度を超えて密集しているという群れの状況である。だから、水の中で油の粒がいっぺんに浮かび上がるように、みんないっせいに立ち上がっていった。
限度を超えて密集しているという状況が立ち上がらせたのであって、立ち上がろうとする衝動を持っていたのではない。猿には、二本の足で立っていることを常態化しようとする衝動は、根源においてはたらいていない。常態化しようとするはずがないのだ。それでも、状況によって、二本の足で立っていることを常態化させられてしまった。
誘惑するのでもされるのでもない。ネットワークとして広がっているのでもない。そういう状況がすでに起きてしまっていることによって、そういう現象が生まれてくるのだ。
たとえば、街にミニスカートが流行するのは、ネットワークの現象か。そうではない。すでに誰もがミニスカートをはきたいという衝動を共有している「状況」があるから、そういう現象になるのだ。
すでにミニスカートの「集団」が、「状況」として潜在的に存在していたのだ。
まず全体の「状況」があって、そのあとにネットワークがつくられてゆくにすぎない。ネットワークが「状況=集団」をつくるのではない。「状況=集団」がネットワークをつくるのだ。
われわれは、すでに「状況」の中に投げ込まれてある。
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われわれがこの限度を超えて密集した集団をいとなむためには、ひとりひとりが孤立した存在でなければならないし、たがいに関係しようとする衝動を持っていなければならない。
限度を超えて密集しているのだから、何かと不合理も多く鬱陶しいに決まっているのだから、この集団をつくろうとする衝動を共有しているわけではない。
人間は、集団をつくろうとする衝動によって集団をつくっているのではない。そんな衝動があるのなら、もうちょっとましな集団をつくっている。そんな衝動などない。われわれは、すでに限度を超えて密集した群れの中に投げ込まれて存在している。そこから人間であることがはじまっている。二本の足で立っていることも、言葉も、そのように機能しているのだ。
人間は、集団をつくろうとしない。すでに集団の中に投げ込まれて存在しており、集団の中でしか生きられないようになっている。ひとりになっても、二本の足で立って言葉を思い浮かべることすなわち人間であることそれ自体が、すでに集団の中に投げ込まれてあることのかたちなのだ。
氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールは、限度を超えて密集した大きな集団をつくろうとする衝動を持っていたのではない。「状況」として、すでにそういう集団の中に投げ込まれてあったのだ。たとえ50人の集団であっても、彼らはすでにそういう「状況」の中に投げ込まれてあった。そういう「状況=集団」の中に投げ込まれてあるものとして、言葉を豊かにし、チームプレーをダイナミックなものに発達させていったのだ。
その「状況」とは、誰もが「この世のもっとも弱いもの」として生き難い生を生きていたということであり、誰もが「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする衝動を豊かにそなえていた、ということだ。
なんにしても「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする衝動がなければ、人間的な限度を超えて密集した集団が生まれてくるはずも成り立つはずもないのだ。
そしてネアンデルタールの場合、誰もが「この世のもっとも弱いもの」として存在していた。人類の歴史は、彼らがそういう「状況」を生きたことを基礎にして、現在の国家という限度を超えて密集した大きな集団が存在しているのであり、また、氷河期明けのヨーロッパで文学や哲学や芸術などが花開いていったことも、彼らがそこでそういう暮らしをしながら人間的な集団性を確かにしていったことが契機になっているのだ。
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