自己保存と自己複製・ネアンデルタール人論252

『歌うネアンデルタール』(スティーヴン・ミズン著・早川書房)という本がある。ハードカバー500ページ2500円のかなり分厚い本で、人類は音楽に目覚めることによって言語を獲得していったということが書かれており、そのモチーフに興味をそそられて買ってみた。まあ日本でも翻訳書が出されるくらいだから世界的に高名な研究者なのだろうし、なるほどその精密な研究態度はさすがだと思うが、しかしやっぱり「集団的置換説」の論者で、基本的な人間観がどうしようもなく薄っぺらだから、読みながらどんどん不愉快になってきて、読み終えるのにひどく苦労させられた。
たとえばこの本では、「セックスにおいて生きもののメスは優秀な子孫を残そうとする衝動とともにオスを選択している」というようなことをいっているのだが、そんなことは自然の仕組みのたんなる「結果」であって、猫や鳥や魚やカブト虫のメスがセックスをすれば子供が生まれるということを知っているはずもないし、彼らに優秀な子孫を残そうとする意志があるとどうやって証明するのか。原始人の女だって、どこまでそこのところを自覚していたのか分かったものではない。まあ、そんな計算をするのは現代社会の女だけだ、といえなくもない。いや、現代社会の女だって、根源的にはそんな目的でセックスをしているとはいえない。そんな理由でセックスをするなら娼婦という職業なんか成り立たないし、セックスをするときの女はみんな娼婦になっているのだ。彼女らは男に「やらせてあげている」のであって、「やりたがっている」のではない。おそらく生きもののメスだって、みんなそうだろう。
セックスアピールとは何か?
この本の著者は、「もっとも優秀な遺伝子の持ち主がもっとも豊かなセックスアピールの持ち主でもっとも多くのセックス(=繁殖)の機会を得てきた」という。しかしじっさいの歴史はそうなってはおらず、「貧乏人の子だくさん」で、生きられなさの「嘆き」が深い貧弱な遺伝子の持ち主ほどたくさんの子孫を残してきたという事実がある。そういうものたちほどたくさんセックスしてたくさん繁殖してきたのだ。
キリンの首が長くなってゆく歴史においては長くない「嘆き」を抱えているものたちがたくさん繁殖しながらみんなでゆっくりと長くなっていったのであり、あのリチャード・ドーキンスだって「進化はゆっくりと起きる」といっている。
セックスアピールとは、生きられなさの気配のこと。泣いているものは抱きしめてやりたくなるし抱かれたくもなるのが人情のつねだし、生きてあることに対するけだるさとかかなしみとかいたたまれなさといった感慨は、誰の心の底にも疼いている。人類は、その「もう死んでもいい」という感慨を携えて一年中発情している猿になっていったのであって、この著者はそこのところを何もわかっていない。「生き延びるための利益を求めて性衝動が起きる」などという安直で愚劣な近代合理主義の発想では、人類史の進化の説明はつかない。

猿のメスが群れのボスにやらせているのは、べつに性的に「選択」しているわけではなく、生き延びるためにしょうがなくやらせているだけだろう。だから、内緒でほかのオスとやっている例はいくらでもある。どんな群れだろうと、じっさいにはすべてがボスの子供になっているわけではない。
タイミングさえ合えば、メスの気分しだいでもっともひ弱なオスがセックスできたりする。
根源的には、メスは「選択」なんかしない。「やらせてあげている」だけなのだ。
根源的には、女にセックスがしたいという欲望があるのかどうかはわからない。べつにしたいわけでもないけど男がやりたいのならやらせてあげてもいいと思っているだけかもしれないし、自分の女としての価値が確認したくてしたいという気になっているだけかもしれない。
女にとってセックスは、自分の性器の中を引っ掻き回される、ひとつの自己処罰の体験にほかならない。だから根源的には、やりたくてやるわけではないのだが、因果なことに自己処罰することのカタルシスというものがある。おそらく女は、そういう体験に向かってセックスをしている。原始人の女なら、なおのことそうだろう。種の存続のために優秀な子孫を残さねばならないという使命感に燃えてセックスをしていただなんて、どうしてそんなことがいえるのか。女=メスとしての自然=本質においては、「やらせてあげている」だけなのだ。
生きものの進化の仕組みが優秀な子孫が残っていくようになっているとしても、それはセックスに対する女=メスの「意識」の自然・本質とはまた別の問題だろう。
カマキリのメスは、交尾中にまずオスの頭を食ってしまう。すると脳という制御装置を失ったオスはさらに激しく体を震わせ、ありったけの精子を吐き出す。そういう自然の仕組みになっているらしい。そしてそれは、メスにとってもさらに激しく自分の性器を引っ掻き回される「自己処罰」の体験にもなっている。したがってカマキリのメスが必ずしも「サディスト」だとはいえない。もしかしたらそれは、究極のマゾヒスティックなセックスかもしれない。
「結果」としての自然の仕組みと女=メスの性衝動の問題を混同するべきではない。
クジャクのメスはオスの広げた羽の模様の立派さや美しさに感動して引き寄せられているのか?クジャクのメスに立派さとか美しさとかオスの身体の健康とか遺伝子の優秀さとか、そんなことがわかるのか?そんなことを吟味し選択しているのか?そんな意識があるはずもなかろう。おそらく、その目玉模様の異様さに体が動けなくなってしまうだけだろう。
弱い生きものは、強い生きものににらみつけられたら本能的に動けなくなってしまう。本能というならそういうことで、だから田んぼに目玉模様の風船を取り付けると、カラスもスズメも寄ってこない。そのときクジャクのメスは、そうやって「やらせてあげてもいい」という気になってゆくだけなのだ。であれば、クジャクのメスのやる気のなさがオスの羽模様をあそこまで極端に進化させたともいえる。
鳥の求愛ディスプレイがどうしてあんなにも執拗になっているかといえば、それだけメスにやる気がないからで、遺伝子の優秀さを確認するためなら、そこまで執拗にやってもらう必要もない。
べつに羽の模様の立派さが優秀な遺伝子であることの証明になるわけではないし、身体の強さや健康であることの証明になるのでもない。メスにとってはそんなことはどうでもいいのであり、単純に根負けして「やらせてあげている」だけなのだ。
女=メスにやる気がないからこそ、男=オスのやる気が進化発展する。そういうアンサンブルがないと、生きものの繁殖は盛んにならない。人類が一年中発情しているということは、それだけ女にやる気がないということを意味する。
まあ西洋の夫婦は女房が毎晩やれとせかすらしいから、この著者もそういう自然の仕組みが見えないのだろうな。それだっておそらく女房は「やらせてあげてもいい」という気になりたがっているだけで、それだけ女として認められたいという自意識が強いのだろう。西洋の男の勃起したペニスはあまり固くないといわれているのは、女がやれとせかす社会だからかもしれない。男が心身ともにやる気満々の社会なら、女のやる気が育つ必要なんか何もない。女はただもう根負けして「やらせてあげてもいい」という気になればいいだけで、原始人の社会はそういう関係になっていたに違いない。

男のセックスアピールは女を思考停止に陥らせることにあるのであって、根源的には遺伝子の優秀さをひけらかすことではない。そんなことをひけらかしてばかりいて女がしらけてしまうというのもよくあることで。
ダメンズ」というのか、ダメな男に引っかかる女はいくらでもいるし、優秀な遺伝子の持ち主であることがそのまま普遍的なセックスアピールになっているとはいえない。
根源的には、女は「どうでもいいや=もう死んでもいい」という気分でセックスをしている。べつに「優秀な遺伝子を残すため」という目的意識を持っているのではない。そんなことは自然の仕組みとしてのたんなる「結果」の現象にすぎない。いいかえれば、「遺伝子を残す」すなわち遺伝子の本質である「自己複製」の機能は「自己の消滅」の上にしか成り立たないわけで、自己を「保存」したままなら「複製=再生産」のしようがない。
「自己保存」としての「セックスがしたいという衝動」によってはセックスは成り立たない。女の本能は「自己保存」ではなく、「自己消滅」と引き換えに「自己複製」してゆくことにある。いや、女の、というより、根源的には男も含めたすべての生きものの性衝動がそのような仕組みになっているのかもしれない。命のはたらき、と言い換えてもよい。それが遺伝子のはたらきの自然・本質であるというか、そうでなければ論理的につじつまが合わない。
原始人だろうと現代人だろうと、セックスなんか「もう死んでもいい」という勢いでやるものだ。そうやってペニスが勃起する。現代社会の男たちは、大人になるにつれて自意識過剰の「自己保存」の欲望ばかり肥大化して、生きものの自然・本質としての「自己消滅=自己複製」のための「もう死んでもいい」という勢いが薄れてくるから、やがてインポテンツになって焦りまくらないといけなくなるし、死ぬことを怖がって悪あがきすることにもなる。
文明人のそんな不自然な悪あがきが、「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」等の、「自己保存」のための概念を生み出した。
まあこの本の著者は、人の生のいとなみの自然・本質をあくまで「自己保存」の論理で考えているだけで、誰もが無意識のところに抱えているに違いない「自己消滅=自己複製」の衝動のことはまったく射程に入れていない。
人は根源において「人類の生贄になろうとする衝動」を持っており、それが性衝動にもなっているわけだが、個体として「自己保存」しながら生き延びようとはしていない。自然の進化の仕組みは、「種」を保存してゆくだけで、個体なんか容赦なく死なせてしまうのだ。
つまるところ人類が音楽を生み出したことだろうと言葉を生み出したことだろうと、「もう死んでもいい」という勢いで世界の輝きにときめいていったからであって、それ以上それ以外の何があるというのか。
ところがこの本の著者によれば、それは「生き延びるための利益・効率の追求」だといい、もう、なんでもかんでもこの調子で説明してくる。やめてくれよ、バカも休み休みにいってくれ、と思う。まあそれが近代合理主義の正体だろうし、そんな発想で彼らは「集団的置換説」を合唱しているわけだが、かなしいかな何はともあれ今どきはそれがもっとも説得力を持っている時代なのだからいやになる。
ほんとに集団的置換説なんかくだらない。そんなパズルゲームばかりやっていないで、もっと人情の機微についても考えてみようよ、といいたくなってしまう。それがまあ、命のはたらきの自然・本質について考えることにもなるわけで。