絶望すること・ネアンデルタール人論253

絶望に効く薬などいらない。絶望それ自体が進化の糧になる。絶望それ自体が薬なのだ。絶望に効く薬を持っているということは、絶望していないことと同義なのではないだろうか。
絶望しきってしまえばいいのだ。この世のもっとも豊かなときめきは、もっとも深い絶望の上で起きている。
文明人は、絶望しない。この生は素晴らしいだなんて、どうしてそんなことがいえるのだろう。そんなことをいいながら、最後の最後のところで思考停止してしまっている。
この生に対する幻滅としての絶望は、誰の中にもある。この世界に生まれ出てきてしまったことは、絶望的な不幸であり悲劇だ。絶望していないなんて、嘘だ。誰だって絶望している。その絶望の向こうに「ときめき」がある。人がときめく心を持っているということは、生きてあることに絶望していることの証しだ。ときめくとは、自分を忘れている心の状態であり、それはすなわち、生きてあることから放逐される体験にほかならない。生きてある日常の外の「非日常の世界」に向かって放逐されるのだ。
新しいパンツを穿くことは、古いパンツを脱ぎ捨てることだ。われわれは生まれてこの方、何度自分の爪を切っただろう。この爪はもう、数限りなく更換されている。いつも同じ爪が生えてくるといっても、この爪はもう、一年前と同じ爪ではない。遺伝子が自己複製するということは、遺伝子が死ぬということだ。死ななければ、複製できない。命のはたらきは、人の心が絶望するような仕組みを持っている。絶望しなければ、出会いのときめきはない。われわれが毎日眠りに就いて毎日目覚めることであれ、一瞬一瞬息をしていることであれ、何度も瞬きすることであれ、それらはすべてひとつの「自己複製」に違いない。命のはたらきとは、この生に絶望して死んでゆくことを繰り返していることだ。生きることなんかどうでもいいや、と思わなければ命のはたらきは起きてこない。われわれは、生きることなんかどうでもいいや、と思いながら生かされてしまっている。
そうやって自分は自分に裏切られる。心の底のもうひとりの自分に裏切られる。「命のはたらき」に裏切られる、と言い換えてもよい。人は、絶望しているのに生きてしまう。そしてその絶望の深さこそが、命のはたらきや心のときめきの豊かさにもなっている。
豊かなときめきを持っている人は、心の底に絶望の深さを宿している。そしてそれは、あなたでも僕でもなく、「この世のどこかに生きている誰か」であり、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」なのだ。
まあ、原始人が生きられるはずもない氷河期の北の原野で生きていたネアンデルタール人は、誰もが「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だったのであり、誰もが深く絶望していた。しかしだからこそ、誰もが豊かに他愛なく世界や他者の輝きにときめいていた。そしてそこから生まれてくる文化の豊かさについて、少しは想いを馳せることをしてみても罰は当たらないだろう。現代社会を生きているあなたや僕にはとてもかなわない豊かな命の輝きの文化があったのだ。それが原始時代だったからではなく、あなたや僕よりももっと深く絶望して生きていたから。
現代社会にだって、あなたや僕よりもっと深く絶望して生きている人がどこかにいる。もっと深く豊かに他愛なくときめいて生きている人が。