祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」47・不安

「不安」が性衝動を生む。それは、生きものの「雌雄」が、不安すなわち「身体の危機」から発生してきたことを意味する。
生きものは、「身体の危機」を生きている。
生きているということは、次の瞬間には死んでしまうかもしれない、ということでもある。生は、死の上に成り立っている。こんなことは、ごく当たり前のりくつだろう。
生きているとは、死んではいない、ということだ。われわれは、この胸のどこかしらで、そういうことの不思議を感じながら生きている。それは、「身体の危機」を生きている、ということだ。生きていることは、「身体の危機」なのだ。
日々さまざまな殺人事件が報道されるにつけ、あなたたちはそういうことを感じないのか。
お幸せな人たちだ。
われわれは、そんなふうにお気楽には、よう生きられない。
しかしあなたたちは、そんなふうだから、インポになっちまうのだぞ。内田樹先生。
生きものは、根源的に「不安」を負って存在している。
その「不安」が性衝動になって、われわれの世界には「雌雄」というかたちが存在している。
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女を誘惑したかったら、男は、「不安」を与える装置にならなければならない。
身体の危機に陥った個体は、身体を消そうとする。
欲情するとは、消えてゆこうとする衝動である。
また、「かわいい」というときめきは、みずからの身体(に対する意識)が消えて世界に気づいてゆく体験である。
彼女らがそれほどにときめくことができるということは、身体(に対する意識)を消そうとする「不安」を抱えていることを意味する。
彼女らは、弱く不完全な個体である。
彼女らは、弱く不完全な個体にならないと生きられない存在である。
種(=身体)の危機においては、弱く不完全な個体でなければ生きられない。
強く完全な個体は、そこにおいてこそ淘汰される。
現在のこの国の若者たちが「俺たちバカだから」というのは、彼らが、身体の危機を生かされているからである。そういう時代なのだ。
生きものの歴史は、弱く不完全な個体が生き残ってきた歴史であり、弱く不完全な個体である女が弱く不完全な個体を生殖してゆくことによって進化してきた。
彼らが「俺たちバカだから」といいたがるのは、「進化」のきざしである。
弱く不完全な個体でなければ、身体の危機は生きられない。
そして人間は、弱く不完全な個体として身体の危機を生きている存在だから、年中発情しているのだ。
原初の人類が直立二足歩行をしたことも、弱く不完全な個体として身体の危機を生きる体験であった。
弱く不完全な個体として身体の危機を生きているから彼女らは、「かわいい」とときめいてゆく。
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もしもあなたが、たしかにいつも勃起する存在でありたいのなら、身体の危機を生きることだ。
身体に命令するのではなく、身体の危機を受け入れ和解することだ。
われわれの身体は、危機の中に存在している。そして、確実に老いていっている。いずれ必ず滅びる。そういう身体にしたがって生きることだ。
身体に命令ばかりして、身体にしたがうというタッチを忘れると、勃起できなくなってくる。
身体にしたがうことができないから、よけいに身体はいうことを聞かなくなる。
身体にこだわっていたら、身体はいうことを聞いてくれない。
身体にしたがうとは、身体のことを忘れることだ。
身体のことは身体にまかせる、そのようにして身体のことを忘れ、身体にしたがってゆけばいい。
われわれは、コーヒーカップに手を伸ばすとき、手に「伸びろ」と命令しているわけではない。ただ、コーヒーカップを取ろうとしているだけだ。手のことは忘れて、手に任せている。
歩いているとき、足のことを忘れて、景色を眺めたり考えごとをしたりしているときが、いちばん上手に歩けているときだ。
疲れてきたとき、足が気になって、足に「歩け」と命令する。しかし、命令しても、もうさっきのようには上手く歩けない。命令すればするほど、上手く歩けなくなってゆく。
身体を支配して生きてきたものは、やがて身体から裏切られ、挫折感を味わわなければならない。
身体を支配することを断念して受け入れてゆくタッチを持っていないと、やがて勃起できなくなり、さらに歳をとれば歩けなくなってゆく。そうやって、身体に裏切られる。
女は、男以上に身体を支配したがると同時に、男よりももっと身体にしたがって生きている。なぜなら、毎月のさわりとか、身体は支配しようとしてもできない対象であると断念していると同時に、そんな身体に対する幻滅も深い。
それに対して男は、そんな宿命を持っていないから、身体を支配することばかりして生きてしまったりする。
そうやって生きてきたものは、身体の危機を生きることができない。
病んだり老いたりしたときの身体の危機と和解できなくて、身体を支配しようとばかりしていると、身体はなお思うままにならなくなる。勃起するはずのペニスが勃起できなくなり、歩けるはずの身体も歩けなくなってしまう。
身体を忘れるとは、身体にしたがうことであって、観念だけの存在になることではない。
観念だけの存在になるとは、観念によって身体を支配している、ということだ。
そうやって人は、身体に裏切られる。
そうやってちんちんが勃起しなくなる。
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内田先生が、最新のブログで、こう語っておられる。
ふだんから不安を感じていたら、いざというときに不安を感じなくなる。だからふだんは、ハッピーにお気楽でいなければならない、と。
くだらない。不安を生きるトレーニングを積んでいないものが、不安を生きることができるはずがないじゃないか。
だから、不安を感じていなければならない状況でも、不安を感じまいとする。そうやって、自分をごまかす。自分がつまらない男だからふられただけなのに、あの女が悪い、などと恨みがましいことをいう。内田先生は、自分の過去の離婚について、そのように語っておられる。先生の思考回路は、そういうふうになっているらしい。
内田先生は、自分はしょうもない男だという「不安」を生きることができない。
彼には「不安」感じるセンサーなどはたらいていない。不安を回避する観念のはたらきを持っているだけのことだ。そうやって人は、インポになってゆく。
性衝動とは、ひとつの不安の体験である。不安とともにちんちんが勃起するのだ。
不安が起こってきそうなときは、気絶する。あまりに大きな不安だったら、誰だって気絶する。耐えられない不安は、気絶によってしか回避できない。
気絶して、ときに記憶喪失になる人もいる。
内田先生が「逃げた女房が悪い」というのも、一種の気絶である。そうやって「自分はつまらない男だ」と自覚するほかない不安を消してしまっているのだから、気絶しているのといっしょだ。
ハッピーでお気楽に生きていれば、いざというとき不安を感じることができるかといえば、とんでもない話で、そんなふうに生きていれば、いざというとき不安を生きることができないで気絶してしまうのが落ちだ。
彼らにあるのは、不安を感じるセンサーではなく、不安になりそうなことを感じるセンサーだけだ。
そして、いざ不安になったら、気絶してしまう。
ちんちんが立たないのも、一種の気絶であろう。
女がオルガスムスまで達することができるのは、そこまでの不安を気絶しないで生き残ることができるからだ。
女に比べたら、男には不安を生きる能力も不安を感じるセンサーも希薄である。
女のことを思ったら、男の僕が不安を感じるセンサーや不安を生きる能力があるとは、恥ずかしくてとてもいえない。
しかしそれでも、生きものの存在は「身体の危機」という不安の上に成り立っている、ということだけはいえそうな気がする。