祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」46・性淘汰

心に深い幻滅を持っている人でなければ、この生を味わいつくすことはできない。
この生(自分=身体)に幻滅するから、世界や他者が輝いて見える。
この生(自分=身体)を消してしまわなければ、世界や他者は見えてこない。
この生(自分=身体)、などというものはない。そう思い定めて、生きものは生きはじめる。
この生(自分=身体)を忘れてしまうことが、この生(自分=身体)を味わいつくすことだ。
この生(自分=身体)に幻滅するものでなければ、この生(自分=身体)を忘れて世界や他者にときめいてゆくことはない。
彼女らは、この生(自分=身体)に幻滅しながら、「かわいい」と、この世界や他者にときめいている。
女は、ときめく生きものである。
「おんな」の「な」は、世界や他者に対する「ときめき」を意味する。「なじむ」「なれる」の「な」、親愛の語義。
「おみな」「おなご」「おんな」、時代によって呼び方の違いはあっても、「な」という音韻が消えたことはない。
それほどに女はときめき、それほどにこの生、すなわち自分自身や自分の身体に深く幻滅している。
心の中に砂漠を持っている女は、砂漠なんか愛さない。「かわいい」ものにときめいてゆく。
女のことを思ったら、男なんか誰も、「自分は心の中に砂漠を持っている」などということはいえない。恥ずかしくていえない。
まあ女もいろいろだろうが、根源において、女とはそういう存在ではないだろうか。
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進化論に「性淘汰」ということばがある。
男と女を分かつものは何か、という話。
男(オス)と女(メス)は、根源において、何によって分かたれているのだろう。
それはDNAの問題だ、という科学者もいるだろう。
しかしわれわれが問いたいのは、そのDNAレベルの違いを生み出している根源のことだ。
それはもう、科学的データの問題ではない。
「こうなっているはずだ」という仮説であり、直感の問題だ。
僕は今、自分の手には負えない無謀なことを考えようとしている。それはわかっているが、恥をかいてもひとまず考えてみる、ということはしておきたい。
難しい科学の知識のおこぼれをあさりたいのではない。
自分の流儀で考える。
「女は心の中に砂漠を持っている」すなわち「女はみずからの身体のうっとうしさに深く幻滅している」ということから生きものの根源に遡行できないか、と今考えている。
なんだか「かわいい論」の話がどんどん横道に逸れてゆくが、人が「かわいい」とときめくことは、そういう問題を含んでいるように思えてならない。
「雌雄の発生」というか、こういう「起源」の問題と出会うと、なんの準備も基礎的な知識もないくせに、つい挑戦してみたくなる。
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女に対して男は、多かれ少なかれどこかしらでみずからの身体に愛着を抱いている生きものだ。
だから、マッチョの趣味に走ったりする。
女が裸を磨くのは「見られることに耐える」ためだが、男は、見られたくて筋肉を盛り上げようとする。それくらい、みずからの身体に愛着している。
女がみずからの身体に幻滅しているとすれば、男は、みずからの身体の愛着している。
だから女は痛みに強いが、男は、情けないくらい弱い。
男にとって身体に痛みが起きてくることは、その愛着の対象である身体から裏切られることにほかならない。その挫折感が苦痛を増幅し、耐えられなくなる。
痛みにおそわれると、自分が世界中でいちばんだめな人間になってしまったような心地になる。自尊心の基盤が、たちまち崩壊する。
男が身体の痛みに弱いということは、はるか遠い昔、われわれがまだアメーバのような単体生殖の微生物だったころ、完全な強い個体だったことを意味する。たぶん、生きもののオスの歴史は、そこからはじまる。
強く完全な個体だからこそ、挫折感に襲われるのだ。
不完全で弱い個体だったら、痛みと和解し、それを当然のこととして受け入れる。
女が痛みに強いということは、その生命の歴史のはじめにおいて、逆に不完全で弱い個体だったことを意味する。
生きものは起源において単体生殖だったとすれば、男(オス)と女(メス)とどちらが先に発生したかという設問は意味を成さない。
どんな個体が男(オス)になり女(メス)になったか、という問題があるだけだ。
最初の「まぎれ」はおそらく、強く完全な個体と弱く不完全な個体としてあったはずであり、もしもそのとき環境が悪化すれば、生き残ったのはおそらく痛みや飢えにもうろたえない後者だったにちがいない。
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女だって痛いことは痛いのだろうけど、彼女らは痛みを体験することと和解している。和解しなければ生きていられない。彼女らは身体の幻滅しているから、そんなことに驚かないしうろたえない。男のような「身体に裏切られた」というような挫折感はない。
原初の種の危機において、弱い個体ばかりが生き残り、その不完全さを補うようなかたちで雌雄が発生し、そこで起きた交配の妙によってさらに強い種へと進化していったのだろう。
進化にはDNAがかかわっているということは、雌雄の交配の妙によって進化してきたということであり、強い個体ばかりが生き残ってきた、という問題の立て方(パラダイム)などナンセンスだ。
そんな単純なものじゃない。自然界に、そんな「秩序」など存在しない。
自然界には、いろんな「まぎれ=揺らぎ」がある。
弱い個体どうしでも、長いあいだには突然変異の遺伝によって、やがてもっと強い種になってゆくこともある。
自然界の進化は、人工的な品種改良とはちがう。自然界の進化は、気が遠くなるくらいの長い時間をかけて実現されるのだ。
強い個体ばかり生き残ってゆくのなら、品種改良と同じように、すぐに進化が実現する。
個体の生命力をもっとも大きく左右しているといわれているミトコンドリア遺伝子は女親からしか伝わらないということは、弱く不完全な生命力しか伝わらない、ということを意味する。そしてそれはまた、起源においては、弱く不完全な個体ばかりの種だったことを意味する。
弱い個体ばかりが生き残り、交配の遺伝によってみんなが大きく強くなってきたのだ。
りんごの木を劣悪な環境のところに移したら、実はぜんぶ小さくなってしまうだろう。そして肥料をやったり日当たりをよくしたりしていけば、みんな大きい実になるだろう。
種の危機に遭遇すれば、強くて完全な個体は淘汰されてしまうのだ。
自然界においては、相対的に弱くて不完全な個体が生き残るようにできている。
その起源においては、弱く不完全な個体ばかりの種だったから、雌雄という「まぎれ=揺らぎ」が生じてきたのだろう。
はじめに弱くて不完全な個体ばかりになってしまう状況があり、そこから雌雄の歴史がはじまった。
弱くて不完全な個体ばかりになったから、雌雄の発生という「まぎれ=揺らぎ」が起きてきたのだろう。
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強い個体は、現在の環境に適合してしまっているから、新しい危機的な環境を生きることはできない。
適合しないことそれ自体を生きてきた弱く不完全な個体だからこそ、この新しい事態を生きることができる。
原初の生きものは、アメーバのような単体生殖だった。
しかし、弱く不完全な個体は、単体生殖できない。そこでこの個体が、強く完全な個体から単体生殖するために必要な何かを受け取り生殖するという事態が生まれてきたのだろう。
強く完全な個体は、この新しい危機を生きることはできない。
弱く不完全な個体が弱く不完全な個体を生殖してゆくことによってしか、種は維持されない。
弱く不完全な個体が単体生殖する能力を持たなければ、種は滅んでしまう。
これは、地球上の生きものの歴史を通じての、自然界の掟である。
このかたちを持たなければ、危機的な事態を生き残ることはできない。
危機的な事態を生き残るかたちを持っていない生きものはいない。
げんみつには、すべての生きものが、単体生殖だ。人間だって、女が単体生殖している。
女という不完全な個体が単体生殖しなければ、危機的な事態を生き残る個体を生み出すことはできない。
男が生殖していたら、痛がってばかりいて、危機を生きることのできる個体は生まれてこない。
女(メス)という弱く不完全な個体が生殖するシステムを持ったことによって、生きものは進化の歴史を歩みはじめた。
進化するとは、危機を生きる能力を獲得する、ということだ。
人類は、ほかの動物以上に危機を生きる能力とメンタリティティを獲得したことによって、地球の隅々まで拡散していった。
すなわち、人間ほど弱く不完全な生きものもいない、ということだ。そういう与件の上に、われわれは知能を獲得した。そういう与件の上に、深くときめき、深く嘆いて生きている。
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原初の生物が単体生殖だったということは、生物は、根源において、他の個体と接触することを避けようとする習性を持っていることを意味する。
群れの中で、見知らぬ他人と体がぶつかり合うのは、うっとうしいことだ。
生きものなら、みんなそうだ。
だから、どんな密集した群れでも、他の個体とのすきまをつくっている。
小魚のあの異様に密集した群れでも、けっしてぶつかり合っていない。
他の個体とのあいだに「すきま=空間」を持とうとするのが、生きものであることの条件であり、それは、単体生殖として歴史がはじまっているからだろう。
そして、この原則が壊れたことによって、雌雄が発生した。
われわれは、この原則を守りつつ、ときにこの原則を壊す。これが、雌雄を持っている生きものの習性である。
われわれは、いまだに原初の生きもののまんまだ。
原初の生物が単体生殖であったということは、くっつこうとしたのではない、ということだ。
くっつこうとしたのではないが、くっついてしまった。
つまり、ぶつかりそうになってもよける能力を喪失した不完全な個体が存在した。
アメーバだって、完全な個体であれば、よけることができる。
よけて動くのが、生物の基本のかたちである。
しかし不完全な個体は、よけることができないし、よけることができないということは、単体生殖の能力がない、ということだ。単体として自立していない、ということだ。
単体として自立しているという基礎を持っていなければ、細胞分裂してゆくことができない。
それは、単体として自立するために、服を脱ぎ捨てるような行為だろう。
単体として自立しているという基礎を持っているから、自分の体の余分な部分を感じ、脱ぎ捨てる。
しかし自立していない不完全な個体は、体が膨張してきても分裂できない。
他の個体と接触することによって、分裂が起きる。接触したことが、細胞分裂の契機になった。いちばん最初は、そういうことだったのだろう。
よく映らないテレビを叩くときれいに映ったりする。まあ、そんなようなことだ。
そしてそれが、テレビが壊れてしまうきっかけにもなる。
二つの個体が接触すれば、完全な個体の一部が削り取られ、不完全な個体にくっつく。
そして、一部分を削られた完全な個体は、自立(自己完結)を失い、単体生殖できなくなってしまう。
そうやって単体生殖できなくなった個体ばかりになれば、いたるところで体がぶつかり合うという事態が起きてきて、そこから雌雄の関係がつくられていった。
原初の微生物が種の危機になったとき、そんなふうに体がぶつかり合ってしまうという不測の事態が次々と起きてきて、それが雌雄の発生の契機になった。ひとまず、そういうことだろう。
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体がぶつかる、ということは、自分の体の一部が削られる、ということだ。だから、不快になる。そういう「喪失感」や「挫折感」を引き起こされるのだ。
男はその昔、強く完全な個体であったが、他の個体とぶつかってみずからの一部を喪失した。
男は、みずからの体の一部である精子を吐き出す。
男はみずからの体の一部を削り取り、女はそれを受け取る。われわれの命は、そういう仕組みになっている。
男は、吐き出そうとする生きものであり、女は受け取ろうとする生きものである。
男の身体は過剰であり、女の身体は欠損している。そういう関係として、「雌雄」が成り立っている。
そして、欠損した身体が、過剰な身体から何かを受け取り単体生殖してゆく。
で、過剰な身体は欠損することによって、単体生殖の能力を失う。
そういう仕組みになっている。
原初の微生物が最初に遭遇した危機的な環境において、強く完全な個体はうろたえ暴れまわり、他の個体とぶつかりながら自滅していった。
そうして、弱く不完全な個体が弱く不完全な個体を再生産してゆくことによって、生き延びていった。
男がのさばりすぎる社会は、危機を生き延びられない。だから西洋では、女も自己主張する仕組みになっていった。
男がのさばりすぎて社会が危機に陥ったとき、一夫一婦制の家族という女も自己主張する単位が生まれてきた。
共同体という社会危機……今はこの話をしている場面ではないが、とにかく男とは、危機を生きられない生きものであり、それは生きものとして強く完全な個体だからだ。
そして、強く完全な個体では生き延びられないのが、生きものが生きているこの世界なのだ。
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男がなぜ精子を吐き出してしまおうとするかといえば、接触して精子をとられてしまった個体の子孫だからであり、精子を持たない不完全な個体である女から生まれてきた存在だからだろう。
あるいは、ただ単純に、自分の体の「過剰」にいたたまれなくなるからだ。
そして女は、自分の体の「欠損」にいたたまれなくなる。
不完全な個体にならなければ生きていられない。精子がたまって完全な個体になってしまうことは、生命の危機なのである。うろたえて、他の個体とぶつかりそうになったときによけるという能力を失ってしまう。失って、女の体にのしかかってゆき、けんめいに精子を吐き出そうとする。まあ、そんなところだ。
べつに、「種族維持の本能」とやらがはたらいているからではない。われわれの根源的な「意識」は、そんな「クオリア(質感)」など持っていない。
ある人が、生命における「フレーム問題」とは茂木健一郎先生いうところの「クオリア(質感)」の問題ではなく「場=空間」の問題である、といっておられたが、そのとおりだと思う。男が、女の体にのしかかってゆこうとするのは、たんなる「ぶつかりそうになったらよける」という生命装置が壊れてしまっている状態であり、そういう「場=空間」の問題なのだ。
「種族維持の本能」などという前提を当たり前のように持ってしまっている安直な考え方などくだらない。長く西洋人に押し付けられてきた「近代」に倦み疲れているわれわれは、そろそろもう、そういう「パラダイム」は「シフト」したほうがいい。
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女が他者や世界に深くときめいてゆく生きものであるということは、ぶつかりそうになったときによけることができなくて接触してしまう生きものであることを意味する。
女の体は、体温の上下動が激しいとか、まいつき血が流れ出るとか、不完全にできている。だから、「ぶつかりそうになったらよける」という生きものとしての根源の能力が欠落している。
「ときめく」とは、「ぶつかりそうになったらよける」ということができなくなってしまった心の動きをいう。
そうして接触してしまい、男から精子を受け取る。
孔雀のメスは、オスの広げた羽の鮮やかな模様にときめき種族維持の本能を刺激されるのだとか。学者先生が、そういっている。
くだらない。
そんなものを「美しい」と思っているのは、人間ばかりだ。なぜ孔雀のメスも「美しい」と思うと決め付けるのか。どうしてそんなふうに自分たちのものさしだけで考えようとするのか。
イカフライ氏は、生きものの命の根源は懸命に生きようとすることにある、とかなんとかいっておられた。あほじゃないかと思う。何をべたついたことほざいてやがる。そんなスケベ根性は、人間だけのものだし、自分のそんな意地汚いスケベ根性を正当化したいからそういう薄っぺらな結論に落ち着いて思考停止してしまっているだけのことさ。
あなたたちは、「クオリア(質感)」に執着するばかりで、「場=空間」の思考を失っている。
孔雀のオスの羽には、「目玉」の模様がいっぱいくっついている。
メスはそれを見て、恐くなり動けなくなってしまう。
それは、オスにとって、「自分」の性的能力を表現しているのではなく、「自分たちは今そういう環境に置かれている」というその「環境=世界」を表現しているのだ。
そうして、羽をたたみ、「怖がらなくてもいいんだよ」という気配でメスに近づいてゆく。
余談だが、このことから、吉本隆明氏の「芸術の根源は<自己表出>である」という説のくだらなさもよくわかる。
そのとき孔雀のオスは、「世界」を表出している。「自分(の性的能力)」を表出しているのではない。「自分」を消して「世界=環境」を表出しているのだ。
「表現」するとは、自分にけりをつける行為である。自分にけりをつけて世界にときめいている、その状態から「表現=ことば」がこぼれ出る。
それは、自己表出であって自己表出ではない。そこのところの構造を、吉本さん、今からでも遅くないから考えなさいよ。まだ生きているんでしょう。
ともあれ、まあそういうわけで、生きもののオスの体が大きくて派手な色や形を持っているのは、メスを不安に陥らせる機能として存在しているのであって、自分の生殖能力を誇示するためではない。生きものは、そんな「種族維持の本能」などというあいまいで愚劣な意識で生きているのではない。
われわれだって、明日死んでしまうとわかったら、最後に一発やっておきたいと思うだろう。そういういじましいことを考えるのは、僕だけだろうか。
身体の危機に陥ったら、セックスがしたくなる。なぜならセックスは、「身体が消えてゆく」というカタルシスをもたらす。身体の危機におちいったら、生きものは消えてゆこうとする。
蛇ににらまれた蛙が動けなくなっているのも、孔雀のメスがそのとき動けなくなっているのも、「消えてゆこうとする衝動」に浸されているからだ。
体と体が接触すれば、自分の体に対する意識が消えて、相手の体ばかり感じてしまう。そうやって、自分の体が消えてゆく。生きものは、この体験に命を賭けてセックスしているのだ。孔雀だろうと、人間だろうと。
「種族維持の本能」なんかじゃない。
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原初の微生物の世界は、体と体がぶつかるという体験から、雌雄が生まれてきた。
基本的にセックスとは、そういう体験であるはずだ。
生きものがセックスするということは、雌雄の発生が体と体が接触してしまう体験だった、ということを意味する。
原初の微生物は、「生き延びようとする衝動(本能)」でそういうことをしたのではない。何かのはずみでそうなってしまっただけのこと。
環境の変化により、すべての微生物が身体の危機に陥り、接触してしまい、しかしそこで何かが起こった。
生きものが「欲情する」とは、「身体の危機に陥る」ということである。「種族維持の本能」なんかじゃない。
猿のメスの性器が赤くはれ上がるのも、オスのペニスが勃起するのも、いわば「身体の危機」にほかならない。人間だって同じこと。「身体の危機」とともに、雌雄の歴史が進化してきたのだ。
ひとまず、それだけのことはいえそうな気がする。