閑話休題・吉本隆明氏のこと

昨日、吉本氏がテレビに出ていた。
糸井重里がプロデュースして、吉本氏の講演会というか独演会というか、そんな企画が催された。
久しぶりに見る吉本さんは、すっかりいいおじいさんになっていた。今、83歳らしい。
体がうまく動かなくなり、車椅子で舞台に上がっていた。
しかし口と頭はまだまだ達者で、いろいろ文学やことばについての薀蓄を語っておられた。
歳をとって、とても穏やかできれいないい顔になっていた。
むかしよりかえってハンサムになったのではないかと思えるくらいだ。
いい年のとり方をしている人だ、とみんな言うんだろうな。
そういうふうにその場の聴衆は見ていたんだろうな。
しかしなぜか僕は、自分もあんな年寄りになりたいとは思わなかった。
吉本さんは、じつに楽しそうに、無邪気とも見える表情で話していた。
話し出したら止まらない、という感じだった。もう延々としゃべり続ける。
ときどき糸井重里が舞台に出てきて、ひと息つかせたり次の話題に移ることをうながしたりして、コントロールしていた。
吉本さんの話す内容はぜんぜんぼけていないし、あまり吉本さんの著作を読んでいない若い人にはそれなりに新鮮な話題もあったのかもしれない。
しかし僕などからすると「吉本さん、それはもうあなたの本でぜんぶ読んだよ」ということばかりだった。
これだけ長く活躍してきた人だから、しゃべる種はいくらでもある。しかしそれは、お大尽が財産を使いまくってよろこんでいるのと同じで、何か、この人はもう思考停止しているなあ、という印象だった。
この人の思考の旅はもう終わっているんだろうな、と思った。
同じような立場のカリスマであり先年なくなった加藤周一氏などは、ともあれ死ぬまで思考を持続し、こんなふうに無邪気にしゃべりまって喜んでいるというような姿はさらさなかった。 
うれしそうにしゃべり続けている吉本さんは、あまり聴衆のほうは見ていなかったし、気にもしていないようだった。
ただもう、しゃべっている自分に酔いしれているだけのようだった。
ぼけてなんかいない。あまり文学通ではない人を意識してわかりやすく文学を語っておられる。
しかし、そんなふうにしゃべりまくることが、どうしてそんなにうれしいのか。
それが、問題だ。
人前に立っていることのおそれとかはにかみなんか、すっかりなくしてしまっている。
みんな感心して俺の話を聞いていると決めてかかっているのか。
僕もむかしなんどか講演を聞きにいったことがあり、そういう雰囲気はその頃からあったが、それがもっとあからさまになっている。
何しろ、団塊世代をはじめとするまわりの人間からちやほやされまくって生きてきた人だからね。そして、こんなよいよいのじじいになっても、まだ糸井重里や多くのマスコミ人たちからちやほやされて表舞台にまつられている。今でも吉本さんの本は次々に出ているし、NHKは、こうやって特集番組をつくってくれる。
本人だって、俺はほかのやつらとは違うんだ、という意識がある。もう、ぜんぜん恐がっていない。終始ニコニコして話している。
尊敬されるに値する話しをしている、という自信がある。
ましてやその夜は、吉本さんを尊敬する人たちの集まりなんだもの。
そのきれいな顔を見て人は「無邪気で純粋な人だ」と評価するのだろうが、僕は、そんなときでもおそれとはにかみを失わなかった加藤周一氏の屈託ほうが、ずっと健全な精神の軌跡を感じる。
ようするに吉本さんは、自分に酔っていたいのだ。
むかしからそうだった。
内田樹先生もイカフライ氏も、みんなそうだ。この世の中にはそんな人間がたくさんいて、吉本さんは、そんな人間たちの伝説のチャンピオンなのだ。
ただ、むかしの吉本さんなら、自分に酔えるものがいくらでもあった。
何より、「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」などのセンセーショナルな力作を次々発表していたから、そういうところで酔っていればよかった。私生活はつつましくはにかみおそれながらしていてもよかった。
でも、今はもうそんな作品を生み出す力は残っていない。もう、思考を持続する力はない。歩くこともできない。食いたいだけ食う体力もないし、セックスする能力もない。
今の吉本さんに残されている自分に酔える体験はもう、おしゃべりすることだけだ。
だから、話し出したら止まらない。
人は俺の話を感心して聞くという確信を経験的に深く持っているから、おしゃべりすれば、うっとりと自分に酔うことができる。さいわいなことに、まだまだ舌も回るし、ぼけてもいない。
でも、そんなのは、老醜だよね。
ナルシストの老人なんて、ぞっとしないよね。
糸井重里は、その姿を「無邪気で純粋な神のような人だ」と思ったのだろう。聞いているみんなも、そう思ったかもしれない。
たしかに吉本さんは、酔いしれてしゃべりまくっていたよ。
50代60代のころの、あのちょっとはにかんだようなとつとつとしたしゃべり方は、ただのポーズだったんだよね。たんなる自己演出だったらしい。
ここにきて、恥も外聞もなく正体をさらけ出している。
歳をとって、体が動かなくなって、ちんちんがたたなくなって、「変わった」のではない。これが、この人の正体だったのだ。
加藤周一氏の死の直前の特集番組も見たが、吉本さんとは印象がぜんぜんちがっていた。
加藤氏の表情には、自分に酔っていない人の無念やかなしみや、世界や他者に対する愛や、そんなものがそこはかとない気配としてにじみ出ていた。
まあいいんだけどね。僕は、加藤氏のとくに熱心なファンではなかったが、吉本さんには、神のように崇拝してしまっていた時期があった。
だからこそ、今のこの吉本さんになついてゆく気持ちには、とてもじゃないがなれない。
僕がもし吉本さんのそばにいる人間だったら、あんたの昔の本なんかぜんぜんだめだ、という。ひとまず、そういう。そして、自分に酔っている暇があったら、昔の実績なんか全部捨てて一から出直せ、という。
われわれはまだ、旅の途中なんだぞ、という。
うれしそうな顔なんかしないで、旅に疲れている顔をしろ、という。
江戸っ子なら、そんな野暮ったい態度は見せるな、という。
悪いけど、加藤周一氏も埴谷雄高氏も、死の直前まで疲れた旅人の顔をしていた。
あの独演会で吉本さんは、盛んに「自己表出」ということばを使っていた。それが文学の根本であり、人類の歴史においてことばが生まれてきたことの根本なのだと、まあそんなようなことを言っておられた。
僕は、文学なんかあまり興味もないけど、ことばの起源における「自己表出」は、「自分を表出」することではなく、「自分にけりをつける表出」だと思っている。この話をするとまた長くなってしまうのだけれど、とにかく人間とはそういう存在だと思っている。
吉本さんには、「自分にけりをつける」という問題はない。どうしたら自分に酔っていられるか、という問題にいまだにしがみついておられる。そんなものは近代の制度にすぎないのであり、それほどにあなたがその制度に浸されきっているというだけのことさ。
自己表出して自分に酔いしれることが文学なんだってさ。
そういう意味の「自己表出」なんか、ことばの起源を語る上ではアウトなのだ、ということだけは、僕はもうわかった。
けっきょく吉本さんの著作は、むかしからそういう位相で書かれていたのであり、こういういじましく野暮ったい年寄りになるべくしてなったのだ、と思う。近代という制度に浸されきった吉本さんの思考では、こうなるしかなかったのだ。こういう「無邪気で純粋な」年寄りになるしかないような思考の旅をしてきたのだ。
「自我の確立」といっても、「自分に酔いしれる」といっても同じことだ。
けっきょくこの人は、むかしから、救済とは自分に酔いしれることだ、といっていたのだ。
みなさん、吉本さんのあの現在の姿を賞賛したければすればいい。
この世の中は、じつにたくさんの人が、自分に酔いしれて生きていきたいと思っている。
でも僕は、あんな年寄りにはなりたくない。
死ぬまで思考の旅を続け、疲れ果てて死んでいければ、と思っている。
吉本さんとちがって僕を尊敬してくれる人を探すことなんか砂漠でダイヤモンドの粒を探すのと同じくらい困難なことだし、僕が同意できる思考なんかその辺のバカギャルのバカ話の中にしか見つけられないが、それでも吉本さん、悪いけど僕の思考はまだ持続している。旅の途中だ。
あなたのように、自分に酔いしれることがわれわれの救済だとは思っていない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ、こんなこと書いてもしょうがないのだけれど、つい書いてしまいました。