祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」45・進化論

ダーウィンによれば、生きものの「進化」は、生き延びるのに有利な強い個体が生き残ってその特質をさらに特化させてきたのだとか。
そうだろうか。
「進化」は、環境の変化によって起きる。
熊は、もともと茶色か黒の毛に覆われた動物だったとすれば、北極の氷の上に暮らし始めたとき、より薄い毛の色をした個体が生き残ってついに今のような白熊になったのだろうか。
白熊になってから北極に進出していった、ということはありえない。長いあいだ北極に棲みついていなければ、白熊にはならない。
初期の段階においては、生き残るのに、ちょっとくらい毛の色が薄いことなんかたいして関係ないだろうし、まあおおよそみんな同じであったに違いない。とくべつ白い一頭だけが生き延びても、進化にはならない。みんな一緒に白くなってきたのだ。
そしてみんな最初は、獲物を捕まえるのに苦労したのだろう。
だったら、獲物を捕まえるのが上手な個体が生き残ってきたのだろうか。
そうともいえない。
獲物を捕まえるのが上手な個体は、飢えの経験がないから、飢えに耐えて生きるという能力がない。そしたら、次の獲物と出会うまでに飢えで死んでしまう。
黒や茶色の毛をした熊が北極に進出したら、獲物を捕まえるのが上手な強い個体から順に死んでゆくことだろう。
そういう厳しい条件に置かれたら、餓えの経験がある弱い個体のほうが生き延びる確率が高くなる。餓えに耐えて生き延びることによって、はじめて次の獲物に出会うことができる。
現在の白熊だって、そうやって生き延びているのだ。彼らの進化は、毛が白くなったことだけではない。次の獲物に出会うまで飢えに耐えて生き延びることができるようになったということも、彼らを生かしている重要な進化の獲得要素である。
獲物を捕まえる能力か、餓えに耐えることのできる辛抱強さか。
戦地で餓えた状況に置かれたら、けんかの強い兵士が生き延びるのではなく、けっきょくは、餓えに耐えることができた兵士が生き残るのだろう。
明治維新のとき、能力のある志士はみんな死んでしまい、ぼんくらばかりが生き残った。
種が滅亡の危機にさらされたら、強い個体が生き延びるとはかぎらない。
平時なら、強い個体がのさばって生きていける。
しかし、滅亡の危機に陥れば、むしろ弱い個体のほうが、危機に耐えて生き延びることができる。
強い個体はたくさん食わないと生きてゆけない体になってしまっているが、飢えながら生きてきた弱い個体は、少しの食い物で生き延びることができる。
そして、そうやって生き延びた弱い個体が、長い時間をかけて新しい環境に適合した形質を獲得してゆく。
白熊の例が示すように、新しい形質は、生き延びたことの結果であって、生き延びるためにあらかじめそなわっているものではない。
危機的状況に陥ったら、餓えないですむ能力よりも、餓えに耐えられる能力が必要になる。
原初の人類が直立二足歩行によって得た能力は、食料を獲得する能力ではなく、餓えに耐えることができる能力だったのだ。
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では、どんな個体が、餓えに耐えることができるのか。
身体の物性を忘れてしまえる心の動きを持っている個体が、餓えに耐えることができる。
すなわち、身体を消してしまうことができる、ということ。消えてゆくことができる、ということ。女のほうが飢餓に対する耐久力があるのは、そういうことだ。
心がうろたえなければ、それだけ体のエネルギーの消費も少ない。
うろたえたものから順に死んでゆく。
うろたえることによって、エネルギーを使い果たしてしまう。
直立二足歩行をはじめた人類は、それによって、身体の物性を忘れてしまう能力を獲得した。人間が二本の足で立って歩くことは、身体の物性を忘れてしまう行為である。
人間は、直立二足歩行をはじめたことによって、餓えてもそうかんたんにうろたえてヒステリーを起こさなくなった。そういう生きものになったことによって、住みにくい土地ににも住み着けるようになり、地球の隅々まで拡散していった。
生き延びようとするからうろたえる。
生き延びようとすることを忘れてうろたえない個体が、生き延びる。
生きものの形質が進化するのは、生き延びてきたことの結果であって、生き延びることができる形質を持っていたからではない。
白い熊ばかり生き延びて白熊になったのではない。生き延びてきた熊が白くなっただけのこと。
くちばしの大きな個体ばかりが生き延びてインコになったのではない。生き延びてきた個体のくちばしが大きくなってきただけのこと。みんな一緒に大きくなってきたのだ
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生きものは、危機的状況に置かれることによって、その形質が進化する。
強く完成された形質を持っているということは、進化する余地がない、ということだ。
強く完成された形質を持った個体は、新しい危機的状況を生き延びることができない。
危機的状況のときは、進化する余地をもった未完成の個体が生き延びる。
われわれは、脳のほんの一部を使って思ったり考えたりしているのだとか。あとの大部分は、役立たずで遊んでいる。しかし、だから人間の思考は変化してゆけるのであり、だから人間はしぶといのだ。
つまり、生きものの形質が進化するのは、既存の能力を拡大させることではなく、未知の新しい能力を獲得してゆくことによって起きる、ということだ。そして、新しい危機的な環境においては、そういう進化する余地を残した弱い個体が生き延びてゆく、ということだ。
200万年前、人類の祖先は、アフリカのサバンナで暮らしていた。そこから世界中に拡散していったのは、サバンナの暮らしに適合できなかった弱い個体である。
強い個体は、飢えに耐えることができないから、サバンナを出てゆくということはしない。サバンナの外では、サバンナで強い個体から順番に滅んでゆく。サバンナに適合し完成されている個体が、サバンナの外で生きてゆけるはずがない。
生き延びることが上手で、生き延びようとしている個体は、危機的状況を生きることができない。危機的状況と和解する心の動きを持っていない。
生き延びることを放棄して「今ここ」のその状況と和解し、その状況に憑依してゆくことのできる個体が、生き延びてゆく。
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インコのくちばしは、硬い実しかない環境で硬い実をついばむために大きくなってきた、といわれている。
だから、大きなくちばしをもった個体が生き残ってきた、とダーウィンはいう。
そうだろうか、くちばしの大きさなんか、どの進化過程においても、たいして個体差はないはずである。種の進化は、みんな一緒に大きくなってゆくのだ。
強い個体だけが生き残ってゆく、などということはない。そんなふうになったら、最後はひとつの個体だけになって滅んでしまうだけのことさ。
生き残った個体がみんな一緒に強くなっていくのだ。それを、「進化」という。
弱い個体は生き残れないなんて、人をバカにするのもいい加減にしろ。強い個体しか生き残れないなんて、その思い上がった俗物根性は、いったいなんなのだ。
同じ大きさのくちばしを持った二つの個体がいて、一方はくちばしの力が強く一方は弱い。そのとき、強い個体は今のままでも硬い実もついばむことができるが、弱い個体は、もっとくちばしが大きくならなければついばむことができない。つまり、弱い個体が生き残ってきたからくちばしが大きくなってきた、ともいえるのである。
現在の地球上の絶滅危惧種は、ぜんぶ強い個体ばかりが生き残っているのか。そうではないだろう。強い個体ばかりが生き残るのなら、絶滅する種なんかいない。弱い個体ばかりが生き残ってしまうから絶滅の危機に瀕するのだし、その危機が、進化の契機になることもある。
強い個体はエネルギーの消費も激しいから十日の絶食で死んでしまうが、弱い個体は飢えに慣れていてエネルギーの消費も少ないから一ヶ月食わなくてもまだ生きているとか、そういうことだってある。
身体にこだわって生き延びようとしていたら、飢えを生きることはできない。うろたえて悪あがきしたら、エネルギーを使い果たしてしまう。
身体のことなど忘れてしまえる個体が、その状況を生きることができる。
身体のことを忘れている個体に、生き延びようとする衝動ははたらいていない。論理的に、はたらきようがない。
生きものの意識の根源に、生き延びようとする衝動などはたらいていない。
生き延びることは「結果」であって、生き延びようとしたからではない。
生き延びようとする衝動を放棄しなければ、生き延びることはできない。
生きものの根源においては、生き延びることを放棄している。だから、生き延びることができているのだ。
自分=身体のことなど忘れて「消えてゆこうとする」衝動が、生きものを生かしている。
進化は、弱い個体が身もだえした結果として生まれてくる。
強い個体は、強いがゆえにもう、進化できない。
大きな負荷がかかるから、形質が進化(変化)する。弱い個体には、より大きな負荷がかかる。そうやって進化(変化)するのだ。
「生き延びることができない」ということが、進化の契機なのだ。
だからわれわれは、ダーウィン先生のいうことなんか信じない。
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パラダイム」という学術用語がある。
われわれは、門外漢の素人だから、何も厳密に解釈する必要はない。
われわれが問いたいのは、「生きものの生存には生き延びようとする衝動(本能)がはたらいている」という前提=規範は、「パラダイム=考え方の筋道」になりうるか、ということだ。その衝動=本能が、「進化」の「契機=パラダイム」になりうるか、ということだ。
そういうパラダイムは、「シフト」されねばならないのではないか。
生き延びることのできる個体は、「進化」という解答にたどり着くまでの過程において、「変化」という現象が起きることは論理的にありえない。それで生き延びることができるのだもの、変化なんかするはずがないじゃないか。
したがって、生き延びることのできる個体が「変化」して「進化」にたどり着く、ということは論理的に成り立たない。
「進化」にたどり着くまでの「変化」という過程、すなわち「進化」の契機、これを、「パラダイム」という。
そしてこの「パラダイム」は、「生きものの生存には生き延びようとする衝動(本能)がはたらいている」という前提の上には成り立たない。
生き延びることのできない個体は、生き延びようとする衝動を持たない。生き延びることができないくせに生き延びようとするなんて、悲惨すぎるではないか。
だから、生き延びようとすることを断念して、けんめいに「今ここ」を味わいつくそうとする。その態度が「契機=パラダイム」となって「変化」が起き、「進化」にたどり着く。
おそらく形質の変化という「進化」は、DNAの「突然変異」が繰り返されて起きてくるのだろう。ではなぜ「突然変異」が起きるかといえば、弱い個体が、生きにくいみずからの生をけんめいに生きているからだろう。
強い個体がふんぞり返って生きているところで突然変異が起きてくることなんか、ありえない。
進化しようとする「意志」がはたらいたのではない。そんなふうに考えるパラダイムなんて、ぜんぶアウトだ。生きにくい生を生きているという「応力」がはたらかなければ、突然変異は起きない。
「意志」ではなく、「応力」がはたらいて進化が起きるのであり、「意志」は「応力」ではない。
「契機=パラダイム」とは、「応力」のことであって、「意志」のことではない。
現在の北欧の人々が、あんなにも肌が真っ白けで髪も金色になってしまっているということは、それほどに寒さに適合して生きてきたということを意味するのではなく、それほどに寒さに打ち震えながら生きてきたということの証しなのだ。
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ちなみに、社会のことだって同じだ。内田樹先生をはじめとするあの連中ように、よりよい社会の展望とやらを描いて見せるそのスケベ根性によって、よりよい社会(進化)が実現するのではない。よりよい社会を思い描くことを断念し、今ここの社会を受け入れ味わい尽くそうとする人々によって、よりよい社会(進化)が実現してゆくのだ。
やつらは、「よりよい社会」などといいながら、「変化=進化」など望んでいない。このまま自分たちがのさばり続けられる社会を思い描いているだけのことだし、そういうかたちでしか「よりよい社会」などという未来は描けない、ということだ。
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最後に余談だが、生活の何もかも面倒くさがって何もしようとしない僕がまだ生きているなんて、何か奇妙な心地がする。まったく何もしないというわけではないが、とにかく、働くことも飯を食うことも掃除をすることも風呂に入ることも顔を洗うことも歯を磨くことも靴下を履きかえることも靴下を脱いで寝ることも、ぜんぶ面倒くさい。子供のころからずっとそうだった。それでも、まだ生きていやがる。
明日ぽっくり死んでしまうかもしれないが、ひとまずまわりからは「おまえは百まで生きる」といわれている。
「おまえみたいなやつが生きているなんて許せないが」とも。
生き延びようとする衝動が薄いから、性懲りもなくへまばかりして生きてきた。
そうして、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いと「消えてしまいたい」という恥ずかしさばかりが募ってくる。
この社会で生き延びる能力なんか、まるでない。そして、生き延びようとする衝動だって、ため息と同じくらい希薄だ。
しかし、人間社会の生き延びる能力と、生きものとしての生き延びる能力はまた別であり、生き延びる能力があるから生き延びられない、ということもある。これが、「進化」という問題である。
僕は、自分の根源に生き延びようとする衝動がはたらいていないことを感じ、われながらほんとに情けないと思いながらながら、まだ生きている。