祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」44・いのち

祝福することの根源は、この世界や他者の輝きにときめいてゆくことにある。
人間は、みずからの生にうんざりしている。その嘆きから押し出されるようにして、自分の外の世界や他者のいる「今ここ」にときめき憑依してゆく。
人間は、この生を祝福している存在ではない。「命の大切さ」なんて、嘘っぱちだ。
命にうんざりしているからこそ、世界や他者にときめき、「今ここ」に憑依してしまうのだ。
命が大切だから死にたくないのではない、死んだら「あなた」と会えなくなるから死ぬのがいやなだけだ。
そして、それほどに「あなた」に会いたくなってしまうのは、この生(命)にうんざりしているからだ。
今どきの若者が「かわいい」とときめいてばかりいるのは、それほどにこの生(命)にうんざりしているからだ。
この生(命)にうんざりしているから、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う。
それは、せつない問いかけだ。
人を殺したいからそう問うているのではない。人を殺してしまった人間を責めることができないから、そう問わずにいられないのだ。
そのせつなさが、おまえら大人たちにわかるか。
殺したらいけないのは当たり前じゃないか、とえらそうに講釈をたれている養老先生や内田先生、あなたたちのその傲慢で短絡的な脳みそでは、このせつなさはわかるまい。
親鸞は、この問題を一生かかって考え続け、ついに未決のまま死んでいった。
この世に、この問題を解決した人間など、一人もいない。
そういう問題を、おまえらのうすっぺらな脳みそで、かんたんに処理してしまうな。というか、薄っぺらだから、そうやってかんたんに処理してしまえるのだ。
彼らは、親鸞のように身もだえして考えるという脳みその動きを持っていない。
答えは、身もだえしつくしたその向こうにしか見えてこない。
命なんか、大切でもなんでもない、うんざりなのだ。これが、われわれに与えられた命題である。この命題をひとまず受け入れた向こうにしか答えはないのだ。