男と女では、セックスに対する感覚がかなり違うはずだ。
性器の構造が違うし、体のはたらきそのものだって同じとはいえないにちがいない。
何はともあれ、生き物は生殖が目的でセックスするというのは、きっと嘘だ。現在の生物学のほとんどはそのパラダイムで語っているのだが、どうしてそのように安直に決めつけてしまうのだろう。生殖は、セックスすることのたんなる「結果」であって、「目的」ではない。
生き物のオスは、そんな目的でメスに対して求愛ディスプレイをしているわけでもなかろう。ただもうやりたい一心だ。しかしその「やりたい一心」の中にこそ、生き物のオスとしての普遍的な存在のかたちがあるのではないだろうか。
オスのディスプレイ行為を受けるメスだって、このオスとセックスしたら優秀な子孫を残せるかとか、そんな損得勘定をしているとは、僕にはどうしても思えない。
ただ、「めんどくさいからやらせてあげる」だけなんじゃないの。しかしその「めんどくさいからやらせてあげる」ということにこそ、生き物として普遍が宿っているのではないだろうか。
男と女なんて、すれ違いばかりじゃないか。しかしその「すれ違い」こそ、生き物の普遍=自然ではないだろうか。
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遠い昔の地球で、単体生殖の生き物の中から雌雄が発生したとき、たがいに異質で不完全な個体だった。完璧な単体生殖の生き物が雌雄に分かれた生き物に発展進化することなどあり得ない。完ぺきだということは、そこで進化は終わりだということだ。
おそらく、環境が悪化して、さまざまに不完全な個体が生まれてきたのだ。たがいに異質で不完全だから、くっつきあうということが起きてくる。それらの無数の死滅していった不完全な個体の中から、偶然、くっつきあって生き残るようなたがいに異質な個体どうしの組み合わせが起きたのだろう。
生き残ろうとしたのではない。ただもう、不完全であることのいたたまれなさや嘆きから、そういう事態が起こってきたのだ。
何はともあれ生殖するとは、余分なものを吐きだす行為にすぎないのであり、それはつまり、余分なものを持とうとする衝動などない、ということだ。いらないから捨てるだけのものをわざわざ欲しがるはずがない。アメーバに聞いてみればいい。アメーバはきっとそう答える。余分なものを捨てているだけであって、生殖しているわけではない、と。
魚は、メスは余分な卵を吐きだし、オスは余分な精子を吐きだす。そこにどんな種族維持の衝動がはたらいているのか、僕にはさっぱりわからない。たんなる生理現象ではないのか。それが結果として種族維持になっているとしても、魚にそんな目的があるとどうして言えるのか。
もし鳥が、卵が生まれて孵化した雛を育てる、という未来を知っていたら、そんなことは絶対しようとしないだろう。めんどくさいもの、誰がしようとなんかするものか。
われわれ生き物は、日々あらわれる新しい事態に驚きときめきながら生きているのであって、あらかじめ決められたスケジュールを消化しているわけではない。
鳥は、雛の育て方を知っているのではない。ただもう鳥の遺伝子の仕組みにしたがって、そのつどの新しい事態に反応しているだけだろう。雛を育てることができるような「いまここ」に対する反応の仕方を、遺伝子の仕組みとして持っているだけのことだろう。
「種族維持の本能」などという使命感より、「いまここ」の事態に対するクリアな反応の方がどれほど大切かということを、凡庸な生物学者たちは何もわかっていない。
鳥は、雛を育てようとしているのではない。ただもう「いまここ」のせずにいられないことをしているだけなのだ。
いい子を育てなきゃという使命感にとらわれて育児ノイローゼ育児放棄にいたるお母さんもいれば、そういう先入観なしにただもう「いまここ」の新しい事態に驚きときめきながらいきいきと育児をしているお母さんもいる。
世の中に蔓延している「種族維持の本能」という通俗的で制度的な概念がそのお母さんを育児ノイローゼに追い込んでいるのだ、と僕は思う。
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生き物は、べつに「種族維持の本能」でセックスをしているわけではない。
そのときメスは、べつに「種族維持の本能」でオスを選んでいるわけではない。オスもメスも、生きてあることのいたたまれなさや嘆きが極まってそういう関係になるのだ。これが、雌雄の発生以来の生き物の根源的な行動のかたちではないだろうか。
そういういたたまれなさや嘆きの方が、「種族維持の本能」などという通俗的な使命感より、ずっと切実でリアルな性衝動の契機になっているのではないだろうか。
たとえば内田樹先生のような、「世のため人のため」とか「人類の未来のため」とか、そんな通俗的で制度的な使命感に燃えている世の人格者が誰よりも切実でヴィヴィッドな性衝動を持っているかといえば、そんなことはない。たいていは、女にもてたこともないただのインポおやじだ。そんなルサンチマンで、「世のため人のため」とか「人類の未来のため」などと大騒ぎしているだけのこと。
そうやって人格者ぶれば女にもてるかと思っているから、女は「種族維持の本能」で男を選ぶ、ということにしたいらしい。しかしそんなことはおまえらの勝手な希望的観測であり妄想にすぎない。
人間の女も、生物のメスも、そんな物差しでセックスアピールを感じているのではない。
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オスは、「やりたい一心」で求愛ディスプレイをする。
メスは、いいかげん面倒になってやらせる。
それだけのこと。これが、生き物の生殖行動の基本原理だ。どんな生き物も、しんどいこの生をいたたまれない思いをして生きているから、そういうことが起きてくる。
生物学者たちが「種族維持の本能」などと安直に擬人化して語りたがるから、僕も擬人化してそういってみる。まあ人間も生き物の範疇には違いない。しかし彼らの場合は、擬人化しているというより、人間社会の制度性を当てはめてしまっている。
たとえばクジャクが求愛ディスプレイとしてメスの前で羽を広げるのは、オスとして立派さを誇示しているのだとか。これが、生物学の常識らしい。
まったくアホじゃないのか。
クジャクのオスの羽はみんなあんな模様になっていて、そんなことはオスとしての立派さや優秀さの証明にはならない。しょぼい羽しか持っていなければ、広げないのか。そんなことはあるまい。みんな広げるのだ。
そしてメスは、オスとはなんと立派なクジャクだろうと感動してその前にひれ伏してゆくかといえば、そんなことはしない。
クジャクだろうとサルだろうとライオンだろうと、気に入らなければオスを追い払う。積極的に行動するのはそのときだけであって、あとはじっとしているだけである。
オスは、羽を広げながらメスに近づいてゆく。メスから寄ってゆくことなどない。そして最後の最後で、追い払うか、やらせてやるかは、メスの気分しだいだ。
まあそのとき、「そんなにやりたいのなら好きにすれば」というような感じだ。オスの魅力にまいっている、というような気配などまるでない。
人間の女だって、男がどうしてもやりたいというからやらせてあげた、という言質を最後の最後に取りたがるところがある。
川上宗薫という作家は、最初から最後まで「なあ、一発やらせてくれよ」というセリフで押し通して女を口説く人だったのだとか。それは、生き物のオスとして誰よりも率直で自然にかなっている。
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しょぼい羽のクジャクだって、うまくいくときはうまくいく。
それはもうタイミングの問題で、メスの体調とか発情の具合次第だ。疲れていたり、性器が鬱陶しくなっていたりすればやらせてもらえる。
クジャクの羽根の、あのたくさんある目玉模様は気味悪い。ハトでもカラスでもスズメでも、たいていの鳥は目玉模様をいやがるから、それが田んぼなどの害鳥よけになる。
メスの鳥の羽の色は、たいてい地味である。それは、本能的に見られることをいやがっているからだろう。外敵に見つけられることだけでなく、オスに見つけられたいという意欲すらない。
なのにクジャクのオスの羽ときたら、ひときわ鮮やかな色の目玉だらけなのだ。
そんなにたくさんの目玉模様を一度に見せつけられたら、失神してしまいそうになる。不安になる。身動きできなくなってしまう。そうして、眠たくなってくる。「もうどうでもいいや」という気になってくる。
それは、べつに華やかさや美しさを誇示しているのではない。メスを不安に陥れて身動きできなくさせてしまう効果を持っているのだ。
クジャクが、そんな模様を美しいとか華やかだとかと思っているはずがないじゃないか。人間が勝手にそう思って見ているだけのこと。クジャクも同じように思うだなんて、アホくさ。
たとえば、色は地味だけど目玉模様がくっきりしている羽のクジャクと、全体の色は鮮やかで派手だけど目玉模様がよくわからない羽のクジャクと、どちらの繁殖率が高いか実験してみればいい。そうすれば答えが出る。
それは、オスとしての能力を誇示するためではなく、メスを疲れさせ身動きできなくさせるためのものだ。
人間の女を口説くときだって、どんなに自分の男っぷりを誇示して見せるよりも、疲れさせ身動きできなくさせるのがいちばん有効なのだ。
自慢話をしていい男ぶっている男が女にもてるかといえば、そうでもないだろう。そんなことよりは、しゃべりまくってしゃべらせまくって疲れさせる方がずっと効果的だ。それだって、クジャクの羽根の効果と同じようなものだろう。
西洋の男は、ベッドに入ってもまだしゃべりまくっている。西洋の女はそれだけ気まぐれで、愛撫の途中だって「あ、やめた」といって逃げ出したりするのかもしれない。
鳥の求愛ダンスは、ときに一日がかりになることもある。それを、「ほかにパートナーがいないことを確かめるためだ」といっている生物学者もいる。くだらない。人間社会の駆け引きじゃあるまいし。とくに西洋人などは、そういう駆け引きをするのが当たり前の社会で生きているから、つい生き物の自然の世界にも当てはめてしまう。
ただもう、メスが根負けして疲れ果て「もうどうでもいいや」という状態になってしまうまで、オスとしてもやめるわけにいかないのだろう。涙ぐましい努力だ。
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猿のメスがボス猿にセックスをさせるのは、べつにボス猿にセックスアピールを感じているわけでもボス猿の子が産みたいわけでもないだろう。ただもう、そうしないと生きてゆけない社会の構造になっているからだ。何かのはずみでほかの猿にさせてやるケースだっていくらでもある。つまり、必死でボスの目をかいくぐってやりたいという意欲を見せてきた猿に。
基本的に、オスはやりたくてたまらないし、メスはまあ、どっちでもいいのだ。
それは、生物の歴史における雌雄の発生のとき、メスは、単体生殖できるがそのための何かが足りない個体であったのに対し、オスは、余剰の部分を抱えているのに単体生殖ができない個体だったからだろう。
メスは、生殖する能力を持っていたが、したいわけではなかった。
しかしオスは、余剰のものを抱えているのに、生殖する能力がなかった。余剰のものを吐き出さないと個体としての生存が危うくなった。いつもぎくしゃくして生きている個体だった。
そのぎくしゃくしている個体に対して、べつの生殖能力のある個体が「そんなにやりたいのなら好きにすれば」と根負けしてしまったのが雌雄の発生だった。
いずれにせよ、どちらも生きてあることのいたたまれなさを抱えている不完全な個体だった。だから、そういう関係が生まれてしまった。
セックスアピールとは、ようするに生きてあることの嘆きを抱えた個体どうしの「気になって仕方がない」という関係のこと。おそらくそれこそが、雌雄の発生までさかのぼることのできるオスとメスの関係なのだ。
「種族維持の本能」なんか関係ない。そんなものはない。基本的にメスは、セックスがしたいわけでも生殖がしたいわけでもない。オスがやりたがっているからやらせてあげるだけのこと。このことを踏まえておかないと、生物学もキャバクラの遊びも誤る。
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