人類がこんなにも大きく密集した集団をいとなむようになってきた歴史は、ネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったところからはじまっている。
人間は大きな集団をつくろうとする生き物ではない。大きく密集した集団など鬱陶しいだけだが、それでもその鬱陶しさを忘れてしまえる心の動きの習性を持っている。
人間は、「一緒にいる」という関係をいったん解体し、「いまここ」の「出会いのときめき」が生まれる関係として昇華してゆく。その作用が起きなければ、一緒にいるという関係も鬱陶しくて耐えられないものでしかない。
しかし「ときめく」といっても、愛だの感動だのと大騒ぎすることではなく、ここでは、「たがいに自分を忘れて向き合う」という関係の作法のことをいう。
原初の人類が密集した集団の中で体をぶつけ合いながら行動していることを鬱陶しがって二本の足で立ち上がり、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保していったことは、「空間=すきま」をはさんで「向き合う=出会う」という関係になることだった。そしてそれは「関係すること=コミュニケーション」を解体して「関係しない関係」になることだった。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、ひとつの「ディスコミュニケーション」だったのだ。
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コミュニケーションに対するディスコミュニケーション
人と人は、ただコミュニケーションすればいいというだけではすまない。コミュニケーションという言葉が錦の御旗のようになっている社会だから、人と人の関係がぎくしゃくしたものになってしまう。コミュニケーションが成り立たないこともまた、人と人の大切なというか自然な関係性なのだ。
コミュニケーションだけが大切なら、人は大きな集団をつくったりはしない。そして、大きな集団ほどコミュニケーション(=伝達)ということにこだわる。ここがやっかいなところだ。大きな集団は、そういう嘘くさいコミュニケーション(=伝達)という形式でなければ運営してゆくことができない。
しかし人と人の1対1のときめき合う関係は、「ディスコミュニケーション」の上に成り立っている。
嫌いな相手とは、口をきかないのがもっとも平和的だろう。無理にうわべだけで会話をする関係をつくってしまうと、フラストレーションがたまって、陰でさんざん悪口をいったり、いずれ爆発してののしり合ったりするようになる。
まあ会社などでは、口をきかないわけにいかないし、ときには一緒に仕事をしなければならないときもある。それで、相手をつねに監視して、隙あらば文句を言ってやろうとか上司にいいつけて会社にいられなくさせてやろうとか、そんなことばかりしてしまう。
この世にうまが合わない人間や嫌いな人間がいることはしょうがないことだ。そこで、嫌いだからこそ相手をしつこく監視したがる人と、できるかぎり知らんぷりしておこうとする人と、両方のタイプがいるのかもしれない。
自分に対する執着の強い人は、前者のタイプになる。自分は正義の側に立っているのに、なぜ嫌われなければならないのか、と我慢がならなくなる。人に好かれたことがない人間が、そういうタイプになりやすい。そういう人は、人を好きになることも嫌いになることもなく、ひたすら「自分」に執着している。そうして、形式だけのコミュニケーションにものすごくこだわる。
これもまた、現代社会のひとつの病理かもしれない。人にときめくという体験のできない人間は、形式だけのコミュニケーションにものすごくこだわる。そういう形式でしか生きてゆけないのだ。
形式だけの関係しかつくれないくせに、いい気になってそれを自慢したがる人間がたくさんいる。
たとえば内田樹先生はこう言う。「家族を運営してゆくのに必要なのは<儀礼(=形式)>であって心が通じ合うことではない」と。そりゃあ女房子供とときめき合う関係をつくれない人間は、そういう儀礼(=形式)にしがみつくしかないだろう。先生だけじゃない。現代社会は、そういう病理的な傾向を抱えてしまっている。
この国の戦後社会では、そういう形式ばかりにこだわり、人と人がときめき合う関係の感受性がどんどん希薄になっていった。
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人と人の関係は、ただコミュニケーションができればいいというだけではすまない。
言葉の発生で考えてみようか。
一般的には、言葉とはコミュニケーションの道具だと考えられている。しかしじつは、それだけではすまない道具なのだ。
猿でもカラスでも犬や猫でも、鳴き声を使い分けて「危険だぞ」とか「餌があるぞ」とか「おまえなんかあっちに行け」とか「セックスしようよ」とか、さまざまなコミュニケーションをしている。もしかしたらわれわれ人間が推測する以上のことを緻密にやっているのかもしれない。
コミュニケーションくらい、彼らだってやっているのだ。べつに人間だけの特技でもなんでもない。
人間の人間たるゆえんは、コミュニケーションだけではすまない関係を見出していったことにある。
それが、直立二足歩行の起源であり、「言葉」の起源なのだ。
関係しない関係、すなわちディスコミュニケーション
人間は、「あっ」とか「え?」とか「おお」とか「きゃあ!」とか、誰に伝えるのでもなく、思わずこぼれてしまう音声をたくさん持っている。それは、意味があるというのでもないし、「ひとりごと」というのでもないし、他者に向けて発せられているのでもない。
しかしたしかに、他者とか世界との出会いによって発せられる音声だ。ポジティブにせよネガティブにせよ、そこにひとつの「出会いのときめき」がある。
それは、他者と自分とのあいだの「空間=すきま」に向かって投げ出されている。
「関係しない関係」の音声。こういう音声は猿にはない。これが、人間的な言葉のはじまりだ。
人間は、直立二足歩行の開始以来、つねにこの「空間=すきま」を意識している存在になった。この「空間=すきま」をつくり合うことが人間にとっての「関係を結ぶ」という行為であり、言葉=音声を発するとは、この「空間=すきま」に言葉=音声を投げ入れ、この「空間=すきま」が存在していることを確かめる行為だ。
言葉は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」に投げ入れられる。これが、言葉のはじまりであり、根源的な機能なのだ。
そのとき音声を発したものも、聞いたものも、その音声を聞くものとして、たがいにその「音声=空間=すきま」を共有している。言葉はその「空間=すきま」で生成している。そしてこの「空間=すきま」こそ、「ディスコミュニケーション」という「関係しない関係」が生まれる場である。
そこで言葉が生成しているということは、たがいの身体がぶつかりあって鬱陶しい思いをしないですむ関係が生成しているということだ。人間にとってそういう関係を結ぶことがどんなに切実な願いになっていることか。人間の歴史は、そこからはじまっているのだ。
人間の言葉は、猿やカラスの鳴き声とは異質の機能を持った道具である。
言葉は、コミュニケーションの道具ではない。根源的には、コミュニケーションを解体する道具なのだ。伝えるものじゃない。その「空間=すきま」で共有されているのだ。
伝えることなんかできない。共有されているだけなのだ。
「わたしは悲しい」といえば、その悲しみが伝わるか。伝わるはずがない。ただ、「悲しい」という言葉が共有されてゆくだけだ。
だから、悲しくなくても悲しいといって相手をだますこともできる。
人間は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合うという「ディスコミュニケーション」の関係をつくっているから、だましたり権力で支配するという関係をつくることができる。そういう「コミュニケーション」が、社会的な人と人の関係になっている。
コミュニケーションが成り立てばいいというものではない。人と人の関係は、「コミュニケーション」と「ディスコミュニケーション」の兼ね合いとして成り立っているのだろうが、ともあれ「ディスコミュニケーション」が基礎になっている。
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人と人の関係の基礎は、遠い昔の地球で起こった「雌雄の発生」が基礎になっているのかもしれない、と僕はときどき考える。
自然な関係があれば、不自然な関係もある。支配したりだましたりする関係もあれば、無邪気にときめき合う関係もある。
人間は、ほかの動物のように関係が一定していない。今ここにたくさんの関係があると同時に、時代によってもずいぶん変遷してきた。
それでも、人と人が関係することの根源的な要素というのはあるにちがいない。
この「ディスコミュニケーション」ということをどのようにいえばいいのだろう。これは和製英語で、欧米では「ミスコミュニケーション」というのだとか。しかし「ミス」といってしまうと、コミュニケーションをしようとして失敗した、というようなニュアンスがある。そういうことではない。ここでいう「ディスコミュニケーション」とは、「非コミュニケーション」とか「反コミュニケーション」というようなことだ。そういうかたちでコミュニケーション(関係)してゆくことを「ディスコミュニケーション」という。
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男は、女に「セックスがしたい」という気にさせようとしていつも失敗する。基本的に女は、セックスがしたいというような衝動を持っていない。女にとってそれは「苦痛」の体験なのだから、「したい」となんか思うはずがない。
その「苦痛」が気持ちいいということは確かにあるだろう。しかしそれだって、やりたくないことをやっている、という苦痛であり気持ちよさなのだ。
やりたくないことだからこそ、男よりもずっと深い快楽を女は体験する。
生き物の体は、同じ体であり続けることによって安定して機能してゆく。ペニスが膣の中に入ってくるということは、余分なものを抱え込んで同じ体ではなくなってしまうことである。まずそういう生き物としてのレベルの拒否反応があり、さらには妊娠すれば、なお同じ体ではなくなってしまうし、そのためにたくさんの体の不調を体験しなければならない。そういう歴史的な意識としてのセックスに対する嫌悪や恐怖もある。
女=メスは、セックスなんかしたがっていない。
一方男は、つねに精子という余剰のものを抱えている。生殖できないくせに精子を抱えてしまっているといういたたまれなさ、そしてペニスだってまあ余剰のものだから、膣に埋め込もうとするのだろう。
男にとって性欲とは、ペニスの消失願望かもしれない。
魔性の女のヴァギナにペニスを食いちぎられる、という民話は、世界中にある。それは、女やヴァギナに対する恐怖というより、男自身の「食いちぎられたい」という無意識の願望かもしれない。男の性欲は、そのようにして起きているのかもしれない。それが、雌雄の発生以来の生き物としての伝統というか自然ではないだろうか。
男にとっても女にとっても、セックスは、ひとつの「ディスコミュニケーション」だ。
そして、われわれがふだんの生活で他者にときめくこともまた、自分に対する意識が消失する体験にほかならない。
関係を消去するとは、自分を消去することであり、そうやって関係が結ばれてゆくことを「ディスコミュニケーション」という。
人間にとっての「生きられる意識」とか「生きられる関係」というのは、どのようになっているのだろうか。
生きてゆくためには、嘘も涙も、悪意や無関心も必要だ。
この生は、「ディスコミュニケーション」によって支えられている。
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