祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」49・観念とエロス

「エロス=実存」、僕は、ことばなんか、だいたいのニュアンスで使っている。
げんみつな意味なんかよくわからない。
エロスとは、危機的な実存のこと。
ギリシャ神話の「エロス」とは、もともとは、人間の根源にある「受苦性」の神のことをいったらしい。
人間の性衝動は、「受苦性=不安」から生まれてくる。存在することの不安、すなわち「身体の危機」、それを「エロス」という。そういうものを持っているから人は人を抱きしめようとするのだし、抱きしめればちんちんが勃起するわけで、そこまで含めて「エロス」という。
内田樹先生のように、「受苦性=不安」が非日常のものだと思っている人たちにはわかるまい。そんなふうに思っているからインポになってしまうのだし、吉本隆明氏のように歩けなくなってしまったりするのだ。
「受苦性=不安」は、生きものが生きてあることの根源的なかたちなのだ。
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吉本さんは、20数年前に伊豆の海で溺れて気を失うという体験をした前後のころ、「ファッション論」という、衣装の本質や起源についての批評文を「海燕」という文芸雑誌に書いていた。そしてある対談で、「これは、<エロス>の問題は除外して考えて書いた」と語っておられた。
衣装の本質や起源を、「エロスの問題を除外して」語ろうなんて、よくもまあそんなあつかましい思考態度がとれるものだ。この人は、自分の観念的思考がオールマイティだと思っている。われわれのエロス的思考など瑣末なことだ、と見くびっているのだ。
というわけで、純粋に「観念」の問題として考えたということらしいのだが、もともとそういうふうにしか考えられない人で、「エロス」の問題に分け入ってゆく能力がないのだ。
で、そのとき、衣装の起源は「防傷防寒」の道具としてはじまった、といっておられた。
それを読んで僕は、ひどく腹が立った。だから、反論の手紙を書いた。
「衣装を防傷防寒の道具としてまとっている未開人なんか、この地球上のどこにもいない。みんなただの<飾り=だて>として着始めるのだ。起源としての衣装とは、体のペイントとか首飾りとかペニスケースとか、そんなものなんだぞ。そんなものが<防傷防寒の道具>か。それは、直立二足歩行の姿勢の居心地の悪さが契機になっている。そこのところを考えることのできないあなたのファッション論なんかぜんぜんだめだ」、と。
このほかにも、「女の衣装の輪郭は、視覚の効果を考えて決定されてゆく」とかといっていたから、「何言ってやがる、その輪郭は、原理的には、羞恥がたまっている部分を隠す、というかたちで決まってゆくのであり、その羞恥がたまっている部分が時代や地域によって変化するから、スカートの丈が上がったり下がったりするのだ。<羞恥>ということばがあいまいだというなら、<性感帯>といってもいい」と反論した。
あれこれ、原稿用紙100枚分くらい、いちゃもんを書き連ねてやった。
その手紙を吉本さんが読んでくれたのかどうかは、確かめるすべもないからわからない。
でも、単行本になったときには、「防傷防寒の道具として始まった」という部分は削除されてあった。
まああれは、僕がそれまであまりにも吉本さんの書いたものに取り込まれてしまっていたから、僕なりの自分に対する訣別宣言が必要だったのだろう。
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自分の中に観念的な「秩序」を構築してゆく……これが、吉本さんの批評の骨格であり方法論である。
誰しもそういう「秩序」を確立することができれば、安心できる。僕も含めて、そうやって多くのものが吉本信者になっていった。
悪いけど僕は、そういう自分をいったん壊した。
壊せないやつらが、いまだに吉本さんの取り巻きを続けている。
べつに、吉本さんの思考が活発に持続されているからではない。みんな、吉本信者である自分を壊したくないのだ。どいつもこいつも思考停止しているから、新しい地平に分け入ってゆこうとする態度なんか持っていない。自分の中で世界との関係はもう決着が着いている、と思っていやがる。
朝目覚めて、自分を壊して一から出直す、という感慨に浸ることなんかやめてしまったやつらだ。あるいは、もともとできないやつらだ。何がなんでも、自分が手に入れた観念世界を壊したくないのだ。
内田信者だって同じさ。現代社会では、自分の中に観念的な「秩序」を構築してゆく思想が最良のものとされている。
自分の観念世界を壊したくなくて、観念だけで生きていこうとしているやつらばかりだから。
彼らは、そういういじましさを、吉本さんや内田先生と共有している。
しかし、人間も生きものだから、それでは、だんだん生きにくくなってくる。
そんなことばかりにしがみついて、ちんちんが立たなくなってくるものもいるし、老人になって歩けなくなってくるものもいる。
やつらはみんな、気絶している。
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現代人は、「観念だけの存在」になっているから、体を支配して動かすことが不可能な状況になったとき、パニックを起こす。
なぜパニックを起こすのかといえば、身体は支配して動かすものと決めて生きているからであり、平和で快適な暮らしを目指すことがスローガンの社会にあって、身体の危機と向き合う感受性を失ってしまっているからだ。
それはたぶん、現代文明が抱える大きな問題であるはずだ。
OLの肩こりからがん患者の終末看護(ターミナルケア)まで、みずからの身体とどう付き合ってゆくかということは、われわれ現代人にとっては、とても切実な問題であるはずだ。現代病といわれるほとんどのことが、そこのところで失敗しているのではないのか。
そして吉本さんは、現代の思想界のリーダーとして、その問題を人々に先んじて克服して見せたか。
吉本さんこそ、誰よりももっとぶざまに失敗してしまったのではないのか。
失敗しただけなのに、悲劇の主人公みたいな顔をして、自分に酔いしれることばかりにうつつを抜かしていやがる。
そして信者たちは、吉本さんがあんなになってもまだ自分に酔いしれて生きていることを、自分たちの希望にしている。自分に酔いしれて生きることこそ生きることの醍醐味であり、自分に酔いしれて生きたやつが勝ちだ、と思いたがっている。
吉本シンパも、内田シンパも、自分に酔いしれて生きていきたいと思っているやつらばかりじゃないか。そうやって、教祖様も信者も、一緒になって思考停止している。
現代思想界の大御所は、歩けなくなったことの言い訳に「歳をとるのは観念だけの存在になってゆくことだ」といい、その後継者の人気者は、奥さんに逃げられたことを奥さんのせいにして自分は家族問題の本質を熟知しているかのように振舞う。けっこうな世の中だ。
しかし、二人ともそれらが不可抗力の悲劇であるかのようにいうのは、そういうことにしておきたいだけであり、そういうことにして思考停止している。気絶している。
インポになることも、歩けなくなることも、身体との付き合い(折り合い)をちゃんとできれば、そうならなくてもすむはずのことだ。
身体を支配しようとするルーティンワークだけで生きてゆこうとするから、ちんちんが勃起できなくなり、歩けなくなってしまうのだ。
そしてそれは、吉本さんや内田先生だけの個人的な問題ではなく、現代社会が背負っている問題であり、この二人もまた、そういう問題に飲み込まれてしまったのだ。
もちろん僕は、内田先生がインポかどうかなんか知らない。しかしその思想がインポチックであるのはたしかなことだろう。彼が「家族のいとなみの本質は儀式・儀礼のルーティンワークにあるのであって、愛や共感などはおまけみたいなものだ」というのは、ようするに「人生においてセックスなんかただのおまけである」、といいたいのだ。
彼にとって「実存=エロス」としての「身体の危機=不安」は非常時・非日常の問題にすぎないのであり、ようするに「夫婦のセックスなんか、盆暮れに一度ずつやっておけばそれでよろしい」、といいたいのだ。
べつにそれでもいいけど、それが、インポチックな考え方ではないとはいえないだろう。
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歩くことは、足に「歩け」と命令し続けるルーティンワークではない。
次の一歩を踏み出さないと体が前に倒れてしまうという、「身体の危機」を生きる行為なのだ。その「危機」が次の一歩を踏み出させているのであって、観念の「命令=支配」によるのではない。
歩きながらわれわれは、「身体の危機」に浸され続けている。
われわれの身体は、「危機」を生きている。「危機」という「カオス」を生きているのであって、「ルーティンワーク」という「秩序」ではない。
現代人は、身体の「秩序」を生きようとしている。
「秩序」を生きようとすれば、身体の衰えのぶんだけ歩けなくなってゆく。
しかし、「身体の危機」を生きれば、衰えてもまだ歩ける。まだ生きられる。
「秩序」を生きようとすれば、秩序が壊れたら、もう生きられない。
生きものは、「危機」を生きることによって、生き残ってきたのだ。
人間の身体と意識の関係は、どの動物よりももっと「危機」を生きるようなかたちになっているから、老人になってもまだ生きられる。
人間の直立二足歩行は、老人になってもまだ歩ける機能である。
なのに、老人になったら歩けなくなってしまった人たちがいる。それは、変だ。身体を支配し、「観念の秩序」を生きようとしたら、歩けなくなる。
歳をとるということは、「実存=エロス」すなわち「身体の危機」に目覚めてゆくことだ。目覚めれば、まだちんちんは勃起するし、まだ歩ける。
人間の直立二足歩行は、老人になってもまだちんちんが勃起する機能である。
「実存=エロス」は「身体の危機」を生きることだから、その問題は、さしあたり死ぬまで持続される。死に近づけば近づくほど鮮明になってくる。
歳をとることは、くるおしいことなのだ。
年寄りがスケベで何が悪い。われわれは、あの連中のように、観念世界の秩序をつくるルーティンワークに耽溺してゆくことなんかできない。身体の上に、身体を支配する観念をおいて、自分に酔いしれて生きてゆくことなんかできない。
おまえらみたいな自分に酔いしれている連中に何がわかる。文句があるならいってこい。
われわれは、歳をとった今こそ、みずからの観念の秩序を壊し、世界や他者にときめき祝福してゆく。