祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」50・生きられる意識

メルロ=ポンティは、「生きられる意識」といった。
彼が解き明かしてくれるそれに対しては必ずしも賛同できないが、けっきょくは「生きられる意識」の問題なのかもしれない。
そこのところで、吉本隆明氏も内田樹先生も、なんだか妙なことをいってやがる、と思ってしまう。
歳をとって観念だけの存在になっていったら、生きられないのだ。年寄りは観念だけの存在である、などといって、もしも腰が曲がってしまって歩くこともできない今の吉本さんが身寄りのない一人暮らしの老人だったら、一週間も生きられないだろう。そうやって孤独死してゆく老人がたくさんいる時代だというのに、そんな横着でお気楽なことをいっていていいのか。
歳をとっても「生きられる意識」とは、歳をとっても歩ける意識だろう。そこのところで、吉本さん、あなたは失敗している。したがってあなたの「歳をとるとは観念だけの存在になってゆくことだ」という意識は、「生きられる意識」ではないし、それが、歳をとることの根源でも普遍でもない。たんなるあなたの、個人的な事情だ。
歳をとって子供みたいになるのは、歳のとり方が不自然で間違っているのか。
歳をとると、観念の秩序が解体されてゆくのだ。
あなたばかりが、観念にしがみついておられる。
歳をとれば、自分に酔いしれることのできる材料なんか、どんどん失ってゆく。
あなたのように昔の名前で生きてゆける年寄りなんか、そうそういない。
すなわち、年寄りだけではなく、誰にとっても「観念の秩序」は、普遍的根源的な「生きられる意識」ではない、ということだ。
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歳をとるとは、「身体の危機」を生きることである。
もう、いつ死んでも不思議ではない存在になったのだ。
このことを否定するべきではない。否定して観念だけの存在になっていったら、ますます体は動かなくなる。
心は、今こそ体とともにあらねばならない。
いや、避けがたく体を意識させられてしまう年代であり、体はつねにがたぴしして、体のほうから心に迫ってくる。
だからこそ、心は、若いころにも増して世界に引き寄せられてゆき、そして身体は世界に向かって動いてゆく。
そのとき老人は、身体が「危機」の中において作動する仕組みに、より深く気づいてゆく。
「危機」の中にあることによって、身体は動くのだ。
「危機」の中に置かれた身体は、「今ここ」から逸脱してゆく。そうやって生きものの身体は動いているのだ。
すなわち身体が動くとは、「今ここ」から消えることである。
「生きられる意識」とは、「危機」の中に身を置いて「消えようとする意識」である。
観念の秩序を構築して「自分」を確かめてゆくことなどできない「危機=不安」の中で「消えてゆこうとする」ことによって、体の細胞というか素粒子というのか、そういう「命」が揺らぐのであり、その揺らぎが、生きるといういとなみになってゆく。その揺らぎとともに、身体が動いている。
「揺らぎ」は、「秩序」においては起こらない。「危機=不安」において、はじめて起こる。
「不安」こそ、われわれの「生きられる意識」である。
「不安」こそ、人間の意識の終の棲家である。
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「観念の秩序」なんぞにしがみついていたら、体の動かないヨイヨイのじじいになっちまう。
ヨイヨイのジジイやインポのオヤジの自分を正当化するための理屈が、どうして人間の普遍や根源を語っていることになるのか。何がかなしくて、われわれがそんな理屈にひれ伏さねばならないのか。僕が吉本隆明氏や内田樹先生やその信奉者の人たちにいいたいのは、そういうことだ。
この世の中には、彼らのように考えて生きている人たちが、じつに多い。そりゃあ、本が売れるはずさ。売れてもいいけど、やつらに自分たちが正義にような顔ばかりされると、しんそこうんざりしてしまう。
人間は、おまえたちがいう通りにはなっていない。おまえたちがそう思いたいだけのことじゃないか。
お前たちは、他者を語ることをしないで、自分のことばかり語っている。他者を語るふりをして、自分のことばかり語っている。人間なんかみんなそうだ、と居直ってくる。
たしかにそれはそうかもしれないけど、そうした矛盾の構造をどう「解体」してゆくかという問題もある。
賛同者がたくさんいることは、自分の正当性の証明にならない。そんなことを自慢するな。そういうときこそ、用心したほうがいい。
みんな、自分に都合のいい理屈を欲しがっている。
自分に酔いしれる体験を、つい欲しがってしまう。
人にほめられていい気になっているときこそ、用心したほうがいい。感謝は示すべきだろうが、ほめ合っていい気にならないほうがいい。
とにかく、自分を正当化し、自分に酔いしれるための理屈を捏造するべきではない。「観念の秩序」が人間を生かしているのではない。生きてゆくための「観念の秩序」こそが人間を醜くし、人間を滅ぼす元凶なのだ。
生きものの生は、「危機」に身を浸すことによってはじめて生きることができるような仕組みになっている。
内田樹先生のような危機を回避する賢さや、吉本隆明氏のような危機を克服する強さが、人間を生かしているのではない。
危機それ自体を生きている弱さや愚かさこそが、人間を生かしているのだ。
そういう「問題」を背負っていないと、賢いようで、強いようで、けっきょくはヨイヨイのじじいになったりインポのおやじになったりしてしまう。吉本さんや内田先生は、そのいいお手本さ。
それに対して、「俺たちバカだから」といい、やたらと「かわいい」とときめいてばかりいる今どきの若者たちは、そういう愚かさや弱さを背負って危機それ自体を生きようとしている。
彼らは、そういう「問題」に気づいてしまった。
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たとえばことばの問題として、やまとことばの「熊(くま)」は、「怖い」という感慨を表出しているだけのことばであって、熊という動物の形状や生態を「意味」として説明・表現しているのではない。
やまとことばは、そのようにして、世界の「意味」を解体している。
「意味=観念の秩序」が解体された「危機」を生きようとするのが、やまとことばである。
今どきの若者たちは、そういうことに気づいてしまったのである。彼らが使うことばに、そういうタッチを、あなたたちは感じないか。
彼らは、大人たちが後生大事に抱えている「世界の意味=観念の秩序」を解体して生きようとしている。
意識は根源的に「意味」にまとわりつかれている……これが、フッサールメルロ=ポンティをはじめとする現象学者の思考態度である。彼らのいう「純粋意識」とは、純粋な(超越論的な)「意味」をとらえる意識であるらしい。
その「超越論的な意味」が生きものを生かしている、という。
しかし、ちょっと待っていただきたい。
意識とは、ひとつのストレスである。もしも意識が世界の「意味」として発生するのであるのなら、それはつまり「意味」に対するストレスとして発生する、ということである。
だから、原初のことばは、「意味の解体」として発生してきた。それが、やまとことばである。「意味」に対するこだわりの薄い「意味の解体」のことばであるから、たとえば「橋(はし)」「箸(はし)」「端(はし)」「嘴(はし)」のような同音異義が異様に多いのだ。
「はし」の「意味」なんかどうでもいい、「はし」という音声を発する「感慨=ストレス」を表出している。感動やときめきも、ひとつの「ストレス」であり、その「ストレス」のダイナミズムが、人間という生きもののダイナミズムなのだ。
「意味」が生きものを生かしているのではなく、「意味に対するストレス」が生きものを生かしているのだ。
「意味」は、「実存=エロス」ではない。
現象学は、そこにおいて、決定的に誤謬している。そしてそれは、ヨーロッパ「近代」の誤謬でもある。
今どきの若者は、そういう誤謬に気づいてしまったのだ。「近代」にしてやられている大人たちがあまりにも醜いから。
ヨイヨイのじじいやインポのおやじにならないためには、もう愚かで弱いものとして生きるしかない、と覚悟を決めてしまったのだ。
自分に酔いしれて生きたがっている大人たちにはわかるまいが、彼らは、「この世界の意味に対するストレス」を深く抱えてしまっている。