祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」51・生きられる意識2

生きていることの意味、自分が存在することの意味、そんなことに気づくことがわれわれを生かしているのではない。
そういう「意味」に対するストレス(不安)が、身体細胞の「揺らぎ」となってわれわれの体を動かし、われわれを生かしている。
生きてあることの確信ではなく、生きてあることの不安が、われわれを生かしている。
人は、観念のレベルで生きてあることの確信を持ってしまう。そんな確信が欲しいのではない、身体の苦痛がやってきたときに、避けがたくそんな確信を抱いてしまうのだ。そしてそのことがこの生を生きにくいものにし、ヨイヨイのじじいやインポのおやじを生み出している。
生きてある(存在する)ことの確信なんか、わざわざデカルト先生に証明していただかなくても、誰もが当たり前のように持っている。
生きてあることを確信するから、この生がしんどいものになってしまうのだ。
生きてある(存在する)ことの確信は、生きてあるものにとってのストレスなのだ。
だから人は、その確信を消そうとする。苦痛を忘れ、身体存在を忘れ、生きてあることを忘れていられるなら、それこそが生きてあることの醍醐味だろう。そのようにして世界や他者にたいするときめきが体験されるのだ。
生きてあることの充実、などというものはない。世界や他者が輝いて見えるという体験があるだけだ。生きてあることの充実なんか忘れて世界や他者にときめいてゆく体験こそ、生きてあることの充実だろう。そのとき人は、生きてあることの充実なんか自覚していない。ひたすら世界や他者を祝福している。
「生きてあることの確信」がストレスだからこそ、人は、世界や他者にときめく存在になるのだ。
世界や他者のときめいていれば、「生きてある(=存在する)ことの確信」という「ストレス」を忘れていられる。
生きものは、生きてあることの意味や確信によって生きているのではない。その意味や確信はひとつのストレスであり、意味や確信を忘れてしまうことが、生きるといういとなみなのだ。
「生きられる意識」とは、生きてあることや存在することを確信することではなく、それをストレスとして忘れてしまえる意識なのだ。
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戦争や交通事故などで手足を失った人は、ときどきそのなくなった部分が、痛みや痒みをともなっていまだに存在しているかのようによみがえってくる錯覚におそわれるのだとか。
かならず、「痛みや痒み」をともなってよみがえってくる。
これを「幻影肢」という。
そしてメルロポンティは、このことについて、こういう。
人間はそんなにも生きてあること(存在してあること)を確認しようと渇望しているのであり、それを確認することが「生きられる意識」である、と。
そうじゃないのだ。
それが「痛みや痒み」とともによみがえってくるということは、それは「ストレス」としてしか確認することができない、ということだ。
そのなくなった手足のことをうじうじと思い出していることと、なくなったという事実を受け入れてきれいさっぱり忘れてしまうことと、いったいどちらが「生きられる意識」になるだろうか。後者に決まっているだろう。
「幻影肢」が、メルロ=ポンティのいうように「存在への渇望」だとすれば、それは、「生きられない意識」なのだ。それによって、その人の絶望はますます深くなる。そんなこと、当たり前じゃないか。
そうではなく、意識はいやおうなく身体の「危機」を生きてしまう、ということだ。べつに「存在への渇望」などなく、すでにもうその事実を受け入れているとしても、それでも「身体の危機を生きようとする無意識」によって、いやおうなくよみがえってしまうのだ。
そのなくなった身体部分をよみがえらせて何か得したいという未練があるのではない。あろうとなかろうと、そこはもう「身体の危機」を生きることができなくなった部分であり、無意識が、なおも「危機」を生きようとしてしまうのだろう。
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そして、なくなってしまったのにまだ存在しているかのように感じることができるということは、われわれはふだん身体を、「物体」としてではなく、非存在の「空間の輪郭」として認識している、ということだ。
「物体」としての身体はなくなっても、非存在の「空間の輪郭」としての身体イメージはなくならない。これが「生きられる意識」なのだ。われわれは、このイメージによって身体を動かしている。
われわれが認識しているのは、物体としての身体ではなく、非存在の「空間の輪郭」としての身体なのだ。
われわれがスムーズに歩くことができているとき、身体を「空間の輪郭」として扱っている。疲れて歩けなくなったとき、はじめて身体の物性を意識する。
観念ばかり発達して運動神経が鈍いものは、身体を「空間の輪郭」として扱うタッチが欠落している。
テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばすときに必要な意識は、物体としての腕(身体)ではなく、「空間の輪郭」としての腕(身体)のサイズに対する認識である。それによってわれわれは、どれだけ腕を伸ばせばいいかを推量することができる。
腕の物性(=クオリア)なんか認識していても、何の役にも立たないのである。たんなる輪郭として腕のサイズやら自分とコーヒーカップとの距離感やら、そういう「空間=場」としての認識が、その行為を可能にしているのだ。
腕の筋肉がそこまで延びる能力があるかどうかということなど、誰も考えていないだろう。意識は「存在への渇望」など持っていないし、そんなものが「生きられる意識」になっているのではない。
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また、この「幻影肢」によって知らされることは、たとえばレイプされた女性の心の傷は、たんなる心の傷としてだけではなく、身体感覚としても一生消えないで残ってしまうということである。
身体感覚として引きずってしまうから、レイプの傷はそうかんたんには癒えないのであり、ほとんどのケースが一生引きずってしまうのだ。
物体としての体なんか洗えば元通りになるが、「空間の輪郭」としての身体イメージが負った傷は、洗っても消えない。そしてやりきれないことに、セックスは、「空間の輪郭」としての身体イメージがもっとも鮮明に現れる体験なのだ。
彼女は、その「生きられる意識」によって一生苦しまなければならない。それは、なんと不条理なことだろう。
レイプの罪は、法律が考えているよりもずっと重いはずだ。
「幻影肢」だって、レイプと同じように、いやおうなくよみがえってきて気づかされてしまう体験であって、メルロ=ポンティがいうように「存在への渇望」によって獲得された「成果」などではけっしてない。何をおちゃらけたことをほざいてやがる、と思う。
こんなつまらないこじ付けをしてくるところが、西洋人のいまいち信用しきれないところであり、現象学あるいは実存哲学のうさんくさいところなのだ。
意識は、身体が存在すること、すなわち生きてあることを、ストレスとしてしか認識できない。
意識の根源においては、身体(=自分)が存在することや生きてあることは、うっとうしいことなのだ。
うっとうしいからこそ、人は、生まれてきてしまったことの不幸に耐えられるのだ。
うっとうしいからこそ、それを忘れて他者や世界にときめいてゆくことができるのだ。
そのうっとうしさを知らないものは、世界や他者にときめいてゆくことはできない。もちろん、ときめいてゆくことの出来ない人間などいないわけで、そういう体験なしに生きてゆくことなんか誰もできない。
生きてあるとは、今ここの世界や他者にときめいている(憑依している)、ということだ。
意識は、「物体=存在」としての身体に憑依するのではなく、非存在の「空間の輪郭」としての身体に憑依しているのであり、これが「生きられる意識」なのだ。(つづく)