祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」52・生きられる意識3

もうひとつの例を挙げてみよう。
筋萎縮症という病気があって、筋肉の機能が衰えてしまいにはすっかり体が動かなくなって植物状態になってしまったりするのだが、そうなっても意識だけははっきりしている。
これはつらい。
歳をとってヨイヨイのじじいになってしまった吉本隆明氏の比ではない。
われわれがもしそうなったら、三日で発狂してしまうだろう。
しかし、その人は発狂しない。
どうして発狂しないでいられるのだろう。
吉本さんがいうように「観念だけの存在」になって、身体に対する意識はなくなってしまっているのだろうか。
そうじゃない。生きてあるかぎり、身体に対する意識がなくなるはずがない。
吉本さんだって、這いつくばって動いたり、腹が減ったといってものを食ったりして暮らしているのだもの、身体に対する意識がなくなっているはずがない。
その筋萎縮症の人こそ、誰よりもみずからの身体を意識しているだろう。身体の筋肉に対する感覚はなくても、ないからこそよけいにみずからの動かない身体を意識している。たぶん、「幻影肢」としての身体、すなわち「空間の輪郭」としての身体イメージは、死体になるまでなくならないのだ。
たぶんその人だって、ときどき足が痛くなったり腹が減ったりしているのだろう。そんな感覚を起こさせる機能などすでにないはずなのに。
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その人は、ただひとつ、頬の筋肉がかすかにぴくぴくっと動く。
その動きをコンピューターに接続してその動きをことばに変換できるようにしたところ、その人の意識は、少しもあいまいになっていないことがわかった。普通の人と同じように、はっきりとものを思ったり考えたりしていることを文章として表現してきた。
その人はこういう。「できればもう、この生命維持装置をはずして欲しい。これ以上あなたたちに負担をかけたくない。しかしいまの私は、心やさしい人々にかこまれてよろこんでもいる」と。
「生命維持装置をはずして欲しい」なんて、みずからの身体のことを意識している、ということだ。
吉本さんのいうように観念だけの存在になっているのなら、死ぬも生きるもないのだから、気楽なものだろう。
しかし実際のその人は、われわれよりももっと切実にもっと狂おしく身体との関係を生きている。
われわれの観念は、身体という基礎の上にはたらいているのだ。
吉本さんだって、ヨイヨイのじじいになっても、まだそれなりに身体の恩恵を受け身体をうっとうしがったりして生きているはずだ。年寄りこそ、若者よりずっと切実に身体との関係を生きている。「歳をとるのは観念だけの存在になってゆくことである」だなんて、どうしてそんな人間=身体をなめたような物言いをするのか。
あなただって、身体との関係の「不安」を生きているじゃないか。
年寄りは、体がうまく動かないからこそ、より切実に身体との関係を生きているのであり、すっかり体が動かなくなってしまった人なら、なおさらのことだ。
すなわち、「空間の輪郭」としての身体イメージ、これが、生きものの「意識」のはたらきの基礎になっているのかもしれない。
われわれは、そういう「身体」でものを思ったり考えたりしているのかもしれない。
物体としての身体、ではない。生きものにとっての身体とは「空間の輪郭」としての身体であり、そこから「意識」が発生するのかもしれない。
われわれが手を動かすとき、手の筋肉に干渉しているのではない、手という「空間=場」に干渉しているのだ。
身体の筋肉に命令して動かそうとするときは身体の動きが鈍くなり、身体を「空間=場」としてイメージできたときに上手く動くことができる。そして、「空間=場」としてイメージしているから、筋肉の能力以上に動いてしまって怪我をしてしまうことがあるし、だからこそより上手くなってゆくこともできる。
「うれしい」とは「空間の輪郭」としての身体がふくらむことであり、怖いとは「空間の輪郭」としての身体が収縮することであるとか、そのようにして意識が発生しているのかもしれない。
「観念だけの存在」なんて、ありえないのだ。観念そのものが、すでに身体イメージの上に成り立っている。
ともあれ「生きられる意識」とは、非存在の「空間の輪郭」としての身体イメージのことであって、存在としての「身体=自分」を確認する意識ではない。
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どんなに体が動かなくなっても、人は、体をよすがとして生きている。
体が存在することが救いになるわけではないが、体との折り合いがつかなければ生きてゆけない。
そして身体はつねに「危機」として存在している対象だからこそ、ヨイヨイのじじいになっても、筋萎縮症ですっかり体が動かなくなっても生きていられる。
「身体の危機」を生きる意識こそ「生きられる意識」であって、身体の存在を確認しあたためてゆくことではない。そういう観念を上位において自分に酔いしれるようなことばかりしていると、上手く生きられなくなってしまう。
吉本さんだけでなく、内田樹先生だって僕よりも百倍も幸せに人生を謳歌しているのだろうけど、べつにうらやましくもない。あの人が僕よりも上手く生きているとは、ぜんぜん思わない。
僕は、あんな鈍くさい運動オンチではないし、インポでもないし、あの人よりもずっと深く遠くまで考えることができる自信もある。
だからこそ、おまえより上手く生きられない内田先生をそうまで攻撃しなくてはいいではないか、といってきた友人もいたが、そういう個人的な問題じゃない。これは、現代社会の病理にかかわる問題なのだ。
ドンくさい運動オンチの鈍くさい思想がいつまでものさばりかえっていていいわけないだろう。まあそれでもいいけど、弱いものや愚かなものたちは、やつらに対抗できるだけの思考を持たねばならない。
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老人になると身体が安定して支配できる対象ではなくなってくるから身体を離れた観念だけの存在になってくるとか、意識のはたらきはそんな単純なものではない。吉本さん、あなたは考えることが薄っぺらなんですよ。
われわれの意識は、「身体の危機」それ自体を生きるようにできている。
意識とは、ストレスなのだ。
吉本さんにしろ内田先生にしろ、口先だけはそんな禁欲的なことをいいながら、そのじつ自分に酔いしれることばかりしているから、ヨイヨイのじじいになりインポのおやじになってしまうのだ。
われわれは、べつに禁欲なんかしていない、意識=ストレスであることが自然であり快楽のかたちだと思っているだけだ。
彼らには彼らの心の傷がある。われわれよりずっとやっかいな傷を生来的に負っている。だから才能があるのだろうが、その傷を自覚していないところがうさんくさいところであり、思考の薄っぺらなところでもある。
自覚していないから、吉本さんはヨイヨイのじじいのくせに「歳をとるのは観念だけの存在になってゆくことである」と自分がまっとうな年寄りであるかのような物言いをし、内田先生だってそれなりにすねに傷のある身のくせに、自分だけがまっとうな大人であるかのような自慢ばかりしている。
二人とも、身体との折り合いに失敗している。だから体の動きも考えることも鈍くさいのだ。
二人とも、身体との折り合いに失敗してしまうような心の傷を生来的に負っていることを、けっして認めようとしない。
心の傷は、一生消えない。いじめを受けた心の傷も、レイプの傷も、統合失調症の幼児体験の傷も、そして吉本さんや内田先生が懸命に観念の秩序を構築し自分に酔いしれて生きてゆこうとするいじましい傷も、一生消えない。
吉本さんや内田先生は、子供のときにすでに身体との関係に失敗している。彼らは、「身体の危機」を生きることに失敗し、身体との関係に「秩序」をつくって生きてきた。彼らは、「身体の危機」と和解していない。身体の上位に観念の秩序を構築し、身体を支配してゆこうとする。そういう身体に対するルサンチマンを、心の傷として抱え込んでいるらしい。
やつらの、身体に対するあの恨みがましさは、いったいなんなのだ。
身体に慣れ親しんでいるように見せかけて、思い切り身体を恨んで支配しようとしている。詐欺師の手口だ。
人は、身体と慣れ親しんでいるのではない。身体が思いのままにならないことと和解しているだけのこと。
そういう狂おしさを生きているだけのこと。
おまえらにはわかるまい。
われわれはもう、「身体の危機」に打ちひしがれて生きてあるしかない。
誰もが、どこかしらに心の傷を負っている。なぜなら、意識とはストレスだからだ。生きものの意識は、避けがたくストレスの中を生きてゆくようにできている。
誰もが、人生の早い段階で、一生ついてまわる心の傷を負ってしまう。
それはもう、避けられないのだ。
心に傷を負うところから、人は生きはじめるのだ。
生まれたばかりの赤ん坊は、みずからの身体の無力感に打ちひしがれたところからこの生をはじめる。
そのことを思えば、身体がまったく動かなくなってしまった人がそれでも発狂せずに生きてあることができる意識のかたちというのは、やっぱりあるにちがいない。
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意識にとって身体の存在を認識することは、ひとつのストレスである、
そこから意識は、身体を、物性を持たない「空間の輪郭」としてとらえてゆく。
身体の存在、「自分」の存在、と言い換えてもいい、すなわち「生きてある」ことは、意識にとってのストレスである。
そういう根源にまで遡行するなら、身体がまったく動かなくなっても、生きてあることの決定的な挫折とはいえない。
むしろ、人間として、ひとつの究極的な地平への到達、といえるのかもしれない。
意識にとって身体の存在はひとつのストレスなのだから、「身体が消えてゆく」ことはカタルシスになる。
われわれは、「身体が消えてゆく」体験をつむいで生きている。
ここからあちらに身体が移動することは、身体が「ここ」から消えてゆくことである。
この世界や他者に気づいてときめいてゆくこともまた、身体が「ここ」から消えてゆく体験である。そのとき意識は、みずからの身体に対する意識が消えてゆく体験をしている。世界や他者に気づくとは、そういうことだ。
他者と抱きしめあうことは、他者の身体ばかり感じて、意識がみずからの身体から引きはがされる体験である。
人間が二本の足で立っていることはどうしようもなくうっとうしく不安定なかたちであり、しかしそこから二本の足で歩いてゆくことは、足=身体のことを忘れてしまう体験になる。
そうやって身体の存在を認識するストレスから「身体が消えてゆく」体験をカタルシスとしてくみ上げてゆくのが、人間の生きてあるかたちである。
身体が徹底的に無力になってゆくことは、どうしようもなく身体のうっとうしさを知らされる体験であると同時に、「身体が消えてゆく」体験でもある。
この生は「存在」と「消失」のバイブレーションであり、その究極のかたちがここにある。
その人ほど身体の疎ましさを感じている人もいないし、その人ほど深くクリアに身体の消失を体験している人もいない。
つまり、その人ほどくるおしく生きてあることの醍醐味を味わい尽くしている人もいない、ということだ。
人間そんなになってしまったらなんのたのしみもないじゃないか、と思うのも、彼こそ観念だけの存在である、というのも正確ではない。
その人こそ、もっとも深くくるおしく身体との関係を生きているのだ。
その人が発狂しないのは、「身体が消えてゆく」カタルシスをくみ上げて生きているからだ。
その人は、すでに死んでいると同時に、まだ生きている。
すでに死を体験している。
死んでゆくとは、身体が消えてゆくことだ。その体験ができなければ、死との和解もまたない。
その人は、すでに死と和解している。だから、いつでも生命維持装置をはずしてくれ、という。生きながらそんなふうに死と和解できるなんて、奇跡かもしれない
まわりの者たちは、その人の存在が希望になっている。
そんな状態じゃあ生きてあることのたのしみなんか何もないじゃないか、といっている人間や、「歳をとることは観念だけの存在になってゆくことだ」といっているヨイヨイのじじいにはわからない話である。
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「われあり」の認識を確かにすれば、人は生きやすくなり、死とも和解できるか。この国でそんなことばかり思っていたら、生きるのがますますしんどくなり、死とも和解できなくなるばかりだ。
そのことが生の醍醐味になり死との和解になるためには、「神」と「天国」を設定しなければならない。観念だけの存在になったら、生も死もない。彼らは、そうやって「永遠」と結託してゆく。
しかし、この国に、そんな文化はない。
この国の歴史が育ててきたのは、今ここに「消えてゆく」文化であり、それが生きものの意識の根源的なかたちなのだ。
自分が観念だけの存在になっているかどうかなんて、どうでもいいことだ。
観念だけの存在は、消えてゆかない。死んでゆかない。死んでゆくことができない。
現代社会には、観念だけの存在になって、自分に酔いしれて生きていたい人々がたくさんいる。
彼らは、「生きられる意識」とは、つまるところ「自分に酔いしれる意識」だと思っている。そういうレベルでしか「生きられる意識」のことがイメージできない。
自分に酔いしれて生きているものは、「消えてゆく」ことのカタルシスを体験できない。
だから体の動きが鈍くさくて、ヨイヨイのじじいにもインポのおやじにもなってしまう。
「消えてゆく=死んでゆく」ことができない彼らには「天国」が必要だ。
吉本さんの批評文にしろ、内田先生のあまたの雑文にしろ、僕は、あの人たちが紡ぎ出す「自分に酔いしれるための論理」に我慢がならないのだ。
そして、自分に酔いしれて生きていたい現代人の多くが、蜜にたかる蟻のようにあの二人のところに参集してゆく。
吉本隆明だろうと内田樹だろうと、脳みそが薄っぺらなただの俗物じゃないか。僕は、あんなあほのいうことをあてにして生きていたいとは思わない。
おまえらみたいな俗物にはわかるまいが、「自分に酔いしれる」ことが「生きられる意識」ではない。それは、自分を忘れてこの世界や他者にときめいてゆく意識としてはたらいている。
それは、「消えてゆく」ことができるタッチとしてある。
すっかり体が動かなくなってしまった植物状態のその人こそ、この世の誰よりも豊かに身体を生き、誰よりも深く遠くまで考えている。