祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」48・観念的な存在

(承前)
内田樹先生と同様に吉本隆明氏も、「身体の危機=不安」を生きられない人種らしい。
彼らは、不安の中で「気絶=思考停止」する。
そこから生きはじめ考えはじめるということをしない。彼らは、不安を味わいつくすということができない。
不安こそが人を生かし、生きものに性衝動をもたらしているのだとすれば、それは、インポの思想だ。
そしてそのように思考停止したところからひねくりだされた理屈に、世の中の多くの人たちが扇動されてゆく。
現代人は、「身体の危機」などというものはない、という前提で生きたがっている。私は明日も明後日も生き延びる、という前提の上に生きていようとしている。人々は、「身体の危機」の上に立っていない思想を尊敬する。「身体の危機」の上に立っていないのが人間の真実だ、と思いたがっている。
文明とは、「身体の危機」を感じないための装置である。お金もエアコンも自動車も薬も近代医療も、そのためにある。
内田先生は、いつも不安を感じていたらいざというとき不安が不安でなくなってしまうではないか、という。それは、不安を生きることのできない人間の居直りであり、思考停止である。
不安は、生きてあるわれわれの大切な棲処(すみか)ではないか。
身体の危機=不安を生きていないものから順番に、身体の危機に沈んでゆくのだ。
身体の危機を生きていないからインポになるのだし、身体の危機を味わうまいとして老人は歩けなくなってゆく。
つまり、身体の危機を生きられないものが、身体から裏切られる。
歳をとるとは、身体の危機を迎える、ということだ。体は思うように動かなくなるし、もうすぐ死んでゆかねばならない。その事実を受け入れないで、観念だけで生きようとしていたら、そりゃあ、ますます身体は動かなくなってしまう。
観念だけで生きるとは、身体とは無縁で生きるということではない。そんなことは、誰もできない。観念によって身体を支配して生きる、ということだ。そういう傾向が強いものほど運動神経が鈍いのであり、そういう傾向が強いものほど身体に裏切られて身体が動かなくなってゆく。
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気絶しないで、身体の危機の不安を、身体にしたがって身体とともに生きている老人は、身体に裏切られたといってうろたえて歩けなくなってゆくということもない。
歳をとればとるほど「観念だけで生きる」ことができなくなってゆくのがふつうの人間のかたちであり、じつは、若者のほうがずっと観念的な存在なのだ。
女の顔や体やしぐさの色っぽさは、歳をとればとるほど感じてくる。若者なんか、そういうところは年寄りずっと鈍感である。
自然の景色が心にしみてくることは、病んだり老いたりして「身体の危機」を生きるほかないところで体験されている。
体が上手く動かない年寄りが観念的な存在だなんて、そんなステレオタイプなことをいっちゃいけない。
身体の危機を生きるものは、世界にときめいている。
観念だけの存在になって自分に酔いしれることばかり欲しがっていたら、身体に裏切られ、身体はますます動かなくなってゆく。
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熱射病になって、急激に体温が下がり、動けなくなってしまう。
何も動けなくなるほどのこともないではないか、とも思うが、そのとき心がパニックを起こした人は、本当に動けなくなり、呼吸が困難になり、救急車で運ばれたりする。
ときどきそんな噂を聞かされる。
身体を支配して生きてきた人が、身体に裏切られてパニックを起こしたのだ。
身体の危機を生きることができる人は、心も体も、そこまでうろたえない。
そのとき救急車で運ばれた人は、自分はとくべつひどい熱射病にかかってしまったのだ、と思う。
そうだろうか。
もしかしたら、心がとくべつ激しく混乱してしまった、というだけのことかもしれない。
身体を支配して生きてきた人が、身体を支配できない状況と遭遇し、その挫折感でパニックを起こしてしまった、ということかもしれない。
少なくとも僕が知っているいくつかの例においては、まあそういうことのようだった。
そして、若いのになぜそんなことになるのかといえば、若いときのほうがかえって観念的に生きているということがあるからだ。
若ければ、身体を支配しているだけの少々鈍くさい動きでも、日常生活に困ることもない。
言い換えれば、90歳になってもまだしっかりと歩くことができている人は、体力ではなく、運動神経だけで歩いているのである。観念だけで歩いているのではない。
歳をとれば観念的になるなんて、そうはいかない。そうなったらおしまいだ。口だけは達者なヨイヨイのじじいになっちまうだけだ。
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吉本隆明氏は、20数年前の60歳くらいのころ、海水浴に行った伊豆の海で溺れ、気を失って沈んでゆくところを奇跡的に救助されるという体験をしたのだとか。
それ以来、だんだん歩くことが上手くできなくなってきた、とみずからのエッセイで語っておられた。そして、「歳をとるということは、観念だけの存在になってゆくということだ」と。
大御所にこんな言い方をされると「ああそうか」とうなずく人も多いのだろうが、われわれとしては、何を薄っぺらでステレオタイプなことをほざいてやがる、と思うばかりだ。
彼はその体験のあとに「死の位相学」という臨死体験に関する大仰な本を発表し、そのころさかんに死について語っておられた。
そういう発言のあれやこれやを総合すると、自分は深く死を体験した、といいたいらしい。
しかしねえ、気を失ってしまった人に「臨死体験」などといわれてもねえ、いまいちぴんとこない。
気を失ってしまったのだから、臨死体験をしていない、ということなんじゃないの。
吉本さんはそのとき、その「身体の危機」を味わい尽くすだけの度胸も感受性もなかった、ということだろう。だから、その不安=恐怖がやってくる前に気を失ってしまった。「そのとき死はそう怖いものではなかった」といっておられるが、そりゃそうだろう。恐怖がやってくる前にさっさと気を失ってしまったのだもの。
底なしの恐怖を味わった、というならわかるが、自分は死ぬかもしれない、と思った次の瞬間にはもう気を失っていたのだ。
そこで気を失わないで恐怖を味わいつくすのが女のオルガスムスである。
それに比べたら、まったく、内田先生にしろ吉本さんにしろ、彼らは「不安=恐怖」を味わうどころか、気づくことすらできないのだ。
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先日テレビを見たら、あれから20数年たって、今や車椅子の生活になっていた。
年とともに体が動かなくなってゆくというのは、とてもつらいことだろう。もともと散歩が趣味の人だったから、きっとひとしおのことにちがいない。
彼は、パニック症候群の克服に失敗した。
そのうち直るだろうと思って、毎日せっせと散歩に出て歩行訓練を続けたが、ますます歩けなくなるばかりだった。
そりゃそうだろう、「歳をとることは観念だけの存在になってゆくことである」と居直っているのだもの。
そういう訓練で直ると思っているところがあつかましいのだ。
そうやって、「観念だけの存在」になって足に「歩け」と命令し続けているのだもの、歩けば歩くほど事態は悪化してゆくに決まっている。歩けば歩くほど「観念だけの存在」になってゆく。「観念だけの存在」になってゆく訓練を続けていただけのことだ。
最初は景色を眺める余裕もあった散歩だが、やがて足に「歩け」と命令しているばかりの散歩になっていった。
僕の身内にも、そうやって自滅していった年寄りがいる。ちょうど吉本さんと同じ世代だった。
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昭和ひとけたの世代。戦後復興の勢いとともに最初に世に出ていった世代である。大いに才能を発揮して、自分に酔いしれて生きてきた世代だ。
吉本さんは、歳をとって「観念だけの存在」になっていったのではない。若いころからずっとそうだったのであり、その傾向が人一倍強くて、その傾向によって圧倒的な才能を発揮して生きてきた人なのだ。
まあどの世代でも、体を動かすことは鈍くさいけど観念のはたらきだけはおそろしく発達しているという人間はいるものだ。内田先生だって同じで、彼らはナルシズムが強いから、「自分」という秩序をかたくなに守って、けっしてやけくそにはならない。
自分を捨てるということができない。「身体の危機=カオス」を生きることができない。
生きてあることの不安とかくるおしさとか、そういうことを知らない人たちなのだ。
そうやって身体を支配することばかりやって生きている。やけくそになって、「身体の危機=カオス」に任せてしまうということができない。
彼らは、身体を支配し続けるために、かたくなに生活のルーティンを守る。
たとえば、パニック症候群にはコーヒーや酒はだめだとなれば、かたくなに飲まない。もともと酒やコーヒーが好きだったくせに、パニック症候群がなおってから飲もうと思う。飲めるようにならないとなおらない、とは思わない。その「パニック」というカオスを味わい尽くすことができない。
そういう身内や友達を眺めながら僕は、そんなことばかりやっているからちんちんが立たなくなるのだし、歩けなくなってしまうのだ、と思っていた。
べつに軽蔑はしないけど、僕に人を軽蔑する資格なんかないけど、「そんなの変だよ」という違和感はぬぐえなかった。
彼らは、みずからの身体を支配し続けることを、けっしてやめようとしなかった。
内田先生は、家族のいとなみの根本は「儀式(儀礼)」であって、「愛や共感」はおまけみたいなものだ、といっておられる。つまり家族のいとなみとは、おたがいに「儀式(儀礼)」によってみずからの身体を支配しあってゆくことだ、「儀式(儀礼)」というルーティンワークがいちばん大切なんだよ、というわけだ。そうやって「観念だけの存在」になってゆくことが人間の本分だと思っていらっしゃる。
「愛や共感」を得ることに失敗したものの居直りの言い草だ。「愛や共感」を持つことのできない鈍くさい人間の自己弁護だ。
何もかもそういうルーティンワークで身体を支配して生きていこうとするから、インポにも鈍くさい運動オンチにもなってしまうのだ。
家族なんて、「愛や共感」と「幻滅」が渦巻くところだと、僕は思っている。そういう「カオス」に耐えるトレーニングをするところだと思っている。頭悪いから、内田先生のように、家族を観念的な空間としてとらえることはようしない。
内田先生も吉本さんも、おそろしく観念が発達し、自分に酔いしれて生きていらっしゃる。
吉本さんには、あえてこういいたい。あなたが歩けなくなったのは、自分に酔いしれて生きてきたことの報いだし、今でも自分に酔いしれようとばかりしているじゃないか、と。
歳をとることは、「観念だけの存在になってゆく」ことではない。
吉本さんも内田先生も、若いころからすでに、体の動きが鈍くさい観念的な存在だった。
そして老人になった吉本さんは、その傾向によって、思考能力も身体能力も、両方失ってしまった。
老人は、感覚的な存在である。老人の思考は、感覚的である。老人になっても観念に執着していたら、思考は停止してしまうほかない。また絵描きは、老人になるほど感覚的でカラフルな絵になってゆく。
世のじいさんばあさんだって、若いころには着たこともないような赤やピンクの服を着たがるようになるではないか。
じつは、老人よりも若者のほうがずっと観念的な存在なのだ。若者は、観念的でも生きてゆける。
しかし身体能力がぎりぎりの状態になってしまう老人は、それでは生きてゆけない。
老人を生かしているのは、「実存的なエロス」の意識なのだ。