祝福論(やまとことばの語源)・「男と女の世の中」

男がいて、女がいる。
男と女に分けることによって、とりあえずこの世界が成り立っている。
この世の中は、「男と女が結婚し子を産み育てる」ということを基礎にして成り立っているらしい。
男と女を分けることが「秩序」になって、この世界がうまく運営されている……まあ、世の中はそういう仕組みになっているらしい。
戸籍やパスポートに男か女かを書き込むことなんかあまり意味のないことのように思えるが、とにかくそれが社会秩序の基本なのだ。
この社会は、男と女を選別する。
しかし、ちょっと待っていただきたい。私が男でありあなたが女であることは、最初からすでにそうなっているだけのことであって、あらためて社会から分けられねばならないことでもあるまい。
そんなふうに「男と女を分ける」ことを基礎にしているというそのことが、人間の「差別感情」の温床になっているのではないのか。
平等社会というのなら、すべての人間が「人間」として登録されるべきではないのか。
われわれが男であり女であることは、社会から与えられることではなく、われわれがすでに持ってしまっていることで、そんなふうにあらためて「選別」されるというのはあまり愉快なことではないし、そうやって選別されて生きているから、自分の中にも、人を選別したり差別したりする感情が生まれてくる。
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この社会には、戸籍やパスポートに男か女かを記す制度があり、男と女の関係についての小説や歌や言論も咲き競うようにあふれている。だから、「この社会の男と女の性秩序は絶好調に機能している」と内田樹先生は言っておられる。
そうだろうか。
家の中でも外でもいばり散らして生きているお父さんもいれば、角が生えた女房の前で小さくなっているお父さんもいる。そんなお父さんにとって性は「秩序」だろうか。
百人の女を好きになったからといって、その百人がみんなやらせてくれるわけではない。ひとりもやらせてくれないかもしれない。それが、「秩序」だろうか。
男と女のことに関しては、「わけわからんよ」と思うことはいっぱいある。
一夫一婦制なんか、ただの混乱かもしれない。
いい女(男)かどうかの基準がものすごくややこしくなってきて、それは混乱かもしれない。そんなものないほうがずっとすっきりしている。
おっぱいの触り方の上手な男がいて、下手な男もいる。おっぱいなんか触られても感じない女もいれば、ものすごく感じてしまう女もいる。べつにSMをやっちゃいけないという決まりもない。ホモやレズだって、ありだ。人間のセックスのやり方なんか、まったく混乱している。
「性秩序」なんて、パスポートや戸籍だけの話だ。
みなさん「我が家の性秩序は健全に機能している」と思ってらっしゃるのだろうか。
「この世の性秩序は健全に機能している」、と思ってらっしゃるのだろうか。
なにが「性秩序」なのか、あなたはちゃんと説明できますか。
僕は、この社会の「性」という概念そのものがよくわからない。
「オスとメス」なら多少はわかるけど、「男と女」というのはそんな簡単なものじゃないような気がする。
僕は、この社会の性秩序などというものは存在しない、と思っている。
そんなものは、猿の世界の「オスとメス」の話だ。
「オスとメスの秩序」が存在するだけで、それは「男と女の秩序」ではない。
戸籍やパスポートは、「オス」か「メス」かですんでいる。
しかし世間の暮らしというのは、それだけではすまない。
「男と女」の世界というのは、「秩序」という言葉で片付けられるほどかんたんなものじゃない。
僕は確かに「オス」ですよ。しかし「男」かといわれれば、どうもよくわからない。
この社会は、「男と女」の性秩序が絶好調に機能しているから、あれこれ性についてのあまたの言説が生産されているのではない。絶好調に機能していたら、そんな議論などする必要ないし、いちいちそんな議論に関心を示さない。みんなそのことについての認識が不安で混乱しているからこそ、それらの言説が次々に生み出されてくるのではないのだろうか。
60年代から70年代にかけて、「同棲時代」という言葉が流行った。それは、同棲が若者だけの風俗で、彼らにはその関係に対する混乱や不安がおおいにあって、いろんなドラマが生まれていたからだ。ところが現代のように誰もが簡単に同棲できる「絶好調」の時代になれば、同棲に対する議論などほとんど出てこない。まあ、そんなようなこと。何ごとにおいても、「絶好調」だったら、議論なんかしないって。
「男と女」という概念がどういうものであるのかということをちゃんとわかっているつもりの人は、それだけ「人間」というものを見くびっている。「わからない」ということに身悶えしたことがないのだろう。
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原初の人類は、直立二足歩行をはじめることによって、「オスとメス」の世界を捨てて「男と女」の世界をつくり始めた。
メスはオスに従属して子を産み育てるという猿の世界をいったん解体して、女は女として自立した。
なぜならそのとき人類は、二本の足で立ち上がることによって胸・腹・性器等の急所をさらす姿勢になり、いったん誰もが「弱者」になってしまったからだ。
しかもそれは、四足歩行よりはるかに不安定で、動きも緩慢になってしまうし、ぶつかり合えばかんたんにこけてしまう姿勢である。
であればメスはもう、強いオスの庇護のもとに生きてゆくという選択ができなくなってしまい、「女」として自立するしかなかった。
言い換えれば、オスだってそうやって弱みを見せてふらふら立っているだけなのだから、力ずくで制圧することもできなくなった、ということだ。
しかもメスは、二本の足で立ち上がることによって性器を隠すことができるようになった。もう今までのように、いきなりうしろからずぶりと突き立てられる心配がなくなった。
それに対してオスは、いちばんの急所であるペニスと陰嚢(きんたま)を無防備にさらしてしまわねばならなくなった。
二本の足で立ち上がることによって、女は、外にさらされていた性器が隠れるようになった。男は、隠れていた性器がさらされてしまった。そうやってメスはちょっと強気になり、オスはかなり弱気になった。そういう状況として、人間の「男と女」の歴史が始まったのだ。そういう関係によって、人間の男と女の文化が生まれてきた。
それは、「オスとメスの秩序」から「男と女のカオス」の関係に移行してゆくことだった。
さらには、年に一度の発情という「秩序」から、日常的な発情という「カオス」の日々へと移行してゆくことでもあった。
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戸籍やパスポートなどのこの社会の制度は、身体的な「オスとメス」のレベルでしか人間を扱っていない。しかしわれわれの日常生活は、そういう社会的な選別を撹乱して「カオス」の状態になってしまっている。人間的な「男と女」の世界は、社会的な「オスとメス」を選別する制度から逸脱してしまっている。
世の中の「男と女」の文化は、人間を「オスとメス」に分けてすむようなものじゃない。
社会制度のがわからすれば、「ちんちん」をもっているか「おまんこ」なのかということだけが問題なのであり、それらをつなげて子供をつくってくれればいいだけだ。社会制度なんて、そのていどの論理しかもっていない。
しかしプライベートな生活においては、誰もがそういう「秩序」を撹乱してしまい、そのややこしさに右往左往して生きている。「人間性」とは、そういうものではないだろうか。
戸籍やパスポートの社会制度の世界ではちんちんとおまんこをつなげることだけしか想定していないが、「男と女の世界」では、キスもすれば、フェラチオやクンニリングスもする。そういうことをおぼえれば、男どうし女どうしのセックスだって可能になる。
人間は、「オスとメス」の関係から逸脱してしまっている。逸脱してしまったところから、人間の歴史がはじまっているのだ。「女は子を産む機械だ」と発言した大臣がいたが、社会の制度というのはたしかにそうなっているわけで、彼の頭の中にあるのは、「オスとメスの秩序の世界」だけで、「男と女のカオスの世界」ということに対する想像力がまったくないらしい。
「男と女」という概念は、「オスとメス」という差異が消失したところから生まれてきた。そのとき人類は、「オスとメス」というデジタルな二項対立の概念を解体し、「男と女」というアナログな連続性を持った「カオス」の概念として再編していった。
戸籍やパスポートに男か女かを書き込んで「性秩序が出来上がっている」ことにしようなんて、猿の「オスとメス」の世界の話なのだ。
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僕は、子供のころの母親に始まって、いつも女にののしられながら生きてきたような気がする。それはたぶん、やつらには僕という生きものが不可解だからです。もちろんそこには幻滅もあるにちがいないのだけれど、こちらだって向こうのことがわからないのだから、とりあえずはおあいこです。
女にののしられたら、言い返したって無駄だ。抱きしめるかひざまずくしかない。女なんか、よくわからない生きものだ。
「この社会の性秩序は絶好調に機能している」なんて、猿並みの想像力しか持っていない人間の言うせりふだ。そんなものは「女は子を産む機械だ」と発言した政治家のそれとすこしも変わりはしない。
人間にとって「オスとメス」であることは、人間であることの前提であって、社会からあらためて選別されなければならない筋合いのことではない。「オスとメス」であることを自覚しつつ、そこから逸脱してゆくのが人間なのだ。女が会社で出世したってかまわないし、女が男の服を着るのも自由だろう。
社会的な「性秩序」などというものは、最低限のところにとどめておいていただきたい。最低限のところにとどめておいたところから、あらためて「男と女」という問題が浮かび上がってくる。
社会的な「性秩序」の範囲でしか男と女の関係をイメージできなくて、そうした「性秩序」という観念にしがみついたあげくに女房に逃げられた男はいくらでもいる。
男と女の関係は「秩序」ではなく「混沌(カオス)」であることくらい当たり前のことなわけで、それを受け入れないで何がなんでも「秩序」にしてしまおうとすると、どうしたって無理が出てくる。
男と女の関係なんか、いつの時代も混乱しているのだ。