閑話休題・「学ぶ」こと

内田樹先生の「下流志向」によれば、現在の子供や若者たちは「自分らしさ」という幻想に取り付かれて「学ぶ」ことをしなくなったからニートやフリーターや派遣社員といった「下流」に押し込められなければならないのだそうな。お前らが下流なのはそれだけお前らが愚かでだめな人間だからだ、といいたいらしい。
そこで先生は、「学ぶ」ということを、先日のブログでこのように説明してくれている。
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なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。理由は簡単である。それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。
      …中略…
「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。この趨勢をどこかで停止させなければならない。
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小学生に「自分らしさ」などという幻想=自我意識なんかあるはずないじゃないか。アホじゃなかろうか、そんな思い込みは、いい年こいた大人ほど強いのだ。内田先生、あんたみたいな大人ほど、そんなものをまさぐりたがるものなんですよ。だからあなたは、「自尊感情」が大切だ、といつもいっているじゃないですか。
自分をまさぐっている小学生なんか、そうそういるものか。団塊世代じゃあるまいし、彼らは自我の薄い世代なのだ。それ以前に彼らは、大人に対するどうしようもない「無関心」を持ってしまっているのだ。だから、教室の中でじっとしていられない。その「無関心」はどこから来るのか、と問われなければならない。
それにしても、「学ぶ」とは、こういうことだろうか。
「私には知らないこと、できないことがあります」と宣言することなんだってさ。
これは、現在の若者たちが「俺たち頭悪いから」といっているのとは、たしかにニュアンスが違う。
「知らないことがある」とは、知っている人間になりたい、ということだ。「できないことがある」とは、できる人間になりたい、ということだ。そういうスケベな欲望が満々だということだ。つまり、それこそまさに「自分らしさ」をまさぐっている態度ではないのか。
それが、人間であることの自然で本来的なかたちなのか。
人間は、知っている存在になりたいのではない。人間が「なぜ?」と問うことには、もっと純粋な契機があるだろう。
人が「なぜ?」と問うのは、「なぜ?」と問うことそれ自体にカタルシスがあるからだ。だから、その結果は「知る」ことではなく、新しい「なぜ?」が生まれることにある。子供は、そうやって果てしなく「なぜ?」と問うてきて、大人たちを困らせる。人間は、果てしなく「なぜ?」と問い続ける存在である。
それに対して内田先生は、「問う存在」ではなく、「知っている存在」になりたいだけである。そうやって人の言ったことや考えをパクってきては自分の都合のいいように言い換えて楽しんでいるだけである。
この人は、「なぜ?」と問うことのカタルシスを知らないのだ。「知っている」ことのナルシズムをまさぐり続けているだけ。けっきょく自分に対する関心しか持っていない。団塊世代には、そういう人種が多いよね。
そして現在の若者や子供たちは、そういう大人たちに幻滅している。だから、大人たちがしつこく「勉強しろ」だの「学べ」だのといったって、聞く耳を持たない。「知っている存在」になって自分をまさぐってばかりいるような大人にはなりたくないからである。そういうお手本を見せられたら、誰が勉強しようという気になるものか。
内田先生は、世の大人たちやマスコミがまるで「勉強しなくてもいい」といっているかのようにいうが、そうじゃない、勉強しろ、と大合唱しているのである。
「自分らしさ」を追求しているのは、内田先生、あんたじゃないか。あんたほど、そういうことに熱心な人間も、そうはいない。
子供や若者たちは、世の中の大人やマスコミに毒されていると内田先生はいうが、毒されていたら勉強するさ。勉強して「自分らしさ」を追及するさ。
お前らみたいに「知っている自分」をひけらかしていい気になっている大人にうんざりしているから、勉強したがらないのだ。そんな大人ばかりの世の中じゃないか。とくに、内田先生のような「階層上位」にある大人たちは、みんなそうだ。「なぜ?」と問わないで、「知っている自分」とか「できる自分」をひけらかすことばかりしていやがる。
やつらの「私には知らないこと、できないことがあります」とか「教えてください」というせりふは、謙虚なようでいて、何かいいこといったらパクってやろう、と虎視眈々のスケベ根性まるだしの表現なのだ。
根源的には、人間は「教えてください」とは問わない。純粋に相手が何を考えているかを知りたいからだ。そういう他者に対する関心や敬意として「問い」を発するのだ。そして、そのことばや考えを他者と共有してゆくことがカタルシスになる。他者とのあいだの「空間=すきま」でそれを「共有」してゆくことがうれしいのであって、教えてもらって「これいただき」と自分のものにしてほくそえむのがうれしいのではない。
自分のものにしたいんじゃない、他者と共有したいのだ。自分のものにして、内田先生お得意の「他者と一体化」したいのではない。他者と同化してその知識を自分のものにしたいのではない。あなたと私が存在する今ここの、その「空間=すきま」で「共有」したいのであり、「学ぶ」とは、そこからさらに「なぜ?」と問うてゆく行為であり態度なのだ。
「学ぶ」とは、もどかしく「問う」行為であって、「知る」ことによって満足する行為ではない。
そして若者には若者のもどかしく問うているものがある。
内田先生、もうちょっと若者や子供という「他者」に対する敬意を持ちなさいよ。あなたは、根本的に他者に対する敬意が欠落している。まあね、そうやって「知っている自分」や「できる自分」をまさぐっているばかりなんだものね。
でも今どきの若者はもう、「知っている自分」や「できる自分」になんかなりたくないのですよ。なりたきゃ、勉強するさ。
そして内田先生、何も学んでいないのは、あんただろうが。あんたが、みずからの階層的既得権益に執着しつつみずからを正当化し、この社会を「石化」させているんじゃないか。
学ぶよろこびは、相手の知識を自分のものにすることじゃない、その知識を相手とのあいだの空間にいったん宙吊りにして「共有」しながら、そこからさらに「なぜ?」と問うてゆくことにある。この違い、先生、わかりますか。
学ぶことは、相手の知識をパクることじゃない。
パクることしか能のない知識人に、学ぶことの何たるかなんて、いわれたくはない。
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「学ぶ=まなぶ」。
よく、やまとことばの「まなぶ」は「真似る」の「まねぶ」から転化してきた、といわれているが、そんなはずないじゃないか。こういう俗っぽい解釈が、疑いようもない天下の学説かなんかのようにまかり通っているのは、ほんとにくだらないと思う。
「まねる」は最初から「まねる」だったのであって、「まねぶ」といっていた証拠なんか何もないじゃないか。
「まね」と「まな」は、やまとことばにおいては、まったく意味の違うことばなのだ。もちろん「る」という語尾と「ふ=ぶ」という語尾も、ぜんぜんニュアンスが違う。
「見る」「来る」「取る」「まねる」の「る」は、今ここの完結した瞬間をあらわしている。
それに対して「さまよふ」「うたふ」「まなぶ」の「ふ=ぶ」は、現在進行形の「状態」をあらわしている。「ふるえる」の「ふ」、進行している事態や時間の「ふるえ」を表している。
そして「まね」の「ま」は、「まったり」の「ま」、寄り添っていること。だから、寄り添い合っているあいだの「空間=すきま」のことを「間=ま」という。
「ね」は、「根」「寝る」のね、低く安定していることを表す。
「まね」とは、寄り添い充足していること。そういう親愛関係が生まれている瞬間が現出することを「まねる」という。
一方「まな」の「な」は、「なる」の「な」、「なあ」と呼びかける。変化してたどり着くこと。
「まな」とは、寄り添っている「間=ま」にたどり着くこと。「まなぶ」とは、そういう「間=ま」が生起していることに心が打ち震えている(ときめいている)状態のこと。
「まねる」ことが相手の行為(知識)と自分のそれとを同じにして安心充足することだとすれば、「まなぶ」ことは、相手と共有している知識=空間(すきま)に向かって心が震えている状態である。すなわち、その共有している知識から、さらに「なぜ?」という新しい問いを投げかけてゆくことなのだ。
「まなぶ」の「な」は「なぜ」の「な」、「なあ」と問いかけてゆくこと、といってもよい。
「まねる」の「ね」の「完結性」とは、むしろ反対のニュアンスなのだ。
教育とは、「教える=まなぶ」の関係ではない。内田先生は、そうやって教育者である私に「教えてください、お願いします」とひざまずいてこいといっているのだが、教育とはほんらい、知識を共有しながら新しい「問い」を生み出してゆく共同作業なのだ。内田先生はそこのところをなんにもわかっていないし、「まなぶ」ということばを生み出した古代人はちゃんとわかっていた。共有する知識に向かって心を震わせながら新しい問いを差し出してゆくことを「まなぶ」というのだ。
だから日本列島の住民は、どんな名人でも「一生修行(勉強)です」といったりする。
日本列島の文化においては、「教える」という概念は希薄である。だから、職人の世界では、「見て覚えろ」という。みんなで「学ぶ」ことが教育なのだ。
したがって、「教えてください」という虫のいいおねだりなんか成り立たない。
「まなぶ」とは問いを発することであって、教えてもらって安心充足することではない。そこのところが、やまとことばとしての「まなぶ」と「まねる」の違いなのだ。言い換えれば、「まなぶ」ことは、「教えてもらった」ところからはじまるのだ。
「まなぶ」は、「まねる」ではない。違うから違うことばになっているのだ。
「まなぶ」ことは、「教えてください、お願いします」とひざまずくことではない。教えてもらったからといって、安心充足なんかできない。そんなことはたんなる前提にすぎないのであり、そこから「まなぶ」ことがはじまるのだ。
人の考えをパクっていい気になっているやつに、「学ぶ」ことの何がわかるものか。
生徒と一緒になって新しい「問い」を導き出すことができる人を、本来の教育者というのだ。ノーベル賞の学者の研究室をのぞいてみればいい、きっとそういう空間になっているはずだ。「教えてください、お願いします」とひざまずかれて満足しているのは、誰かさんみたいな三流の教育者ばかりさ。そんなところからは、新しい「なぜ?」という問いは生まれてこない。そんな教育者が真の教育者だというのなら、この世の中は「石化」するばかりさ。
学ぼうとなんかしなくていいのだ。「学ぶ」ということは、人と人が一緒に生きてあることの「結果」なのだ。学ぼうとするなんて、すれっからしの大人のただのスケベ根性だ。スケベ根性を持たない子供が学ぼうとしないのは、当然のことさ。人と人が一緒に生きれば、誰もがそこで「結果」として何かを「学ぶ」のだ。
お前らは、ほんとうに子供と一緒に生きているのか。一緒に生きていれば、お前らもまた「結果」として何かを「学ぶ」だろう。それだけのことさ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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