ノーベル賞雑感・死者との対話

このごろ「霊魂」という言葉がとても気になっている。
あまり好きな言葉ではない。
ノーベル賞の山中教授は、こういった。
「自分はまだ研究の成果を実現していない。死ぬまでにそれを実現したら、あの世で父に報告できるかもしれない」、と。
つまりこの人は、死者と対話していない。ほんとうは「あの世」なんかあるとは思っていない。あると思っていたら、あの世から父の「霊魂」が見てくれている、という発想になる。
だから普通は、「死んだ父もよろこんでくれていると思う」という発言になる。しかし、そうはいわなかった。
とにかく、死ぬまでにはなんとか実際の治療現場で役立つところまでこぎつけたい、という思いをそういうかたちで表現しただけなのだろう。
この人はたぶん、「霊魂」も「あの世」も信じていない。
そんなことは迷信だ、というのはたやすい。しかしわれわれは、どこかしらでそういうことを信じてしまっている。
死ぬのが怖い、ということは、たとえ体は消えてなくなっても霊魂だけはあの世をさまよい続けてゆくことになる、というイメージなのだろう。
心も体もさっぱり消えてなくなる、とは思えない。思いたくないし、思えない。それが死の恐怖だ。
死んでしまえば、自分の霊魂が、この身体とともに生きているこの「現実世界」から置き去りにされてしまう、という恐怖。
現代になるほど、そういう心の傾向が強くなってきた。
「ゴースト」とか「死後の世界」とか、そんなたぐいの物語は、映画や小説や劇画などで無数に生産されている。そんな世界があるとは思っていなくても、誰もがいっとき「あるかもしれない」という気になって癒されている。
内田樹先生などは、「死者と対話することこそ人間性の基礎であり人間の尊厳だ」といっておられる。
そうやって人は先祖の供養をしている。それは「死者と対話する」儀式である、という。
死者と対話をして死者も幸せな気分になっている、ということにすれば、自分が死んだあとの霊魂もそうやって永遠に幸せに生き続けることができる、というわけだ。
ようするに自分の死の恐怖を紛らわせるためにそうした先祖供養をやっているだけのこと、自分のための儀式なのだ。
現代人は、自分の死の恐怖を紛らわせるために先祖供養の儀式をやっている。
内田先生だけじゃない。この国で「盆の里帰り」をいまだに熱心に繰り返していることの根源には、おそらく現代的な死の恐怖が横たわっている。
あんなにもすごい交通渋滞に耐えても、それでもせずにいられないのだ。
「死者との対話」だなんて、ずいぶん虫のいい話で、死者に対する冒瀆ではないのか。
死者は、きれいさっぱり消えてなくなっているのだ。
死後の世界をさまよっているだなんて、僕は思わない。
僕だって死んだ父のことをせつなく思い出すことはあるが、「対話」なんかしたことはない。
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現代人は、観念が身体を支配する生き方をしている。
観念すなわち霊魂。
だから、脳が死んで意識がなくなればもう生きていることにはならない、と合意されている。
人間は観念=霊魂で生きている存在だから、観念=霊魂が性同一性障害を起こせば、身体など手術で変えてしまってもいい、ということになる。
観念=霊魂は、身体と別れて永遠に生き続けることができる。観念=霊魂で生きれば、永遠に生き続けることができる。
現代人は、死ぬことが怖くて観念=霊魂だけで生きようとしている。
とうぜんこの社会も、そういう合意のもとにそういう構造になっている。
観念=霊魂だけで生きることが死の恐怖を克服するための最良の選択だ、と多くの現代人が考えている。
だから「ゴースト」や「死後の世界」の映画が流行る。
だから、村上春樹の小説が世界中の人々に読まれている。彼の小説のもっとも大きなテーマは、内田樹先生が指摘するように「死者との対話」なのだろう。
しかし、その「死者との対話」路線が、今年もノーベル賞をとれなかった。まいねん下馬評は最有力にランクされているのに、今年もだめだった。
なぜだろう。
身体に対する観念=霊魂の優位で生きる現代的な路線が、身体生理に寄り添って生きようとするプリミティブ(原始的)な路線に負けたのだ。
中国のあの作家の小説と村上氏の小説のどちらが優れているかということなど僕にはわからない。しかし、観念=霊魂の優位で生きようとする近代合理主義が行き詰ってきている、という現在の世界の状況はあるにちがいない。
世界中の誰もが観念=霊魂の優位で生きようとしているのだから、村上氏の小説が多くの人に読まれるのは当然である。
それでも、それゆえにこそ行き詰まりを感じはじめているという現実がある。そういう行き詰まりを忘れて今をやり過ごすには、村上氏の小説はもってこいである。なんとなく、このままでいいような気にさせてくれる。観念=霊魂の優位で生きている自分の人生もまんざらではない、という気にさせてくれる。
「死者との対話」路線が行き詰りはじめている世の中だから、「死者との対話」路線の小説がもてはやされる。
で、僕にとって問題は、「死者との対話」は人間の本性であるのか、ということだ。
原始人もまた、現代人と同じように死者の霊魂と対話するために埋葬という葬送儀礼をはじめたのだろうか。
おそらくそうではない。
原始人は「霊魂」という概念など持っていなかった。
彼らが、死を怖がり、生き延びようとしていたのなら、死と背中合わせのような氷河期の極北の地に住み着いていったりはしはない。
人間が観念の優位性を生きようとしはじめたのは、この地球上に共同体(国家)というものが出現して以降のことだ。
共同体(国家)の制度とは、観念が身体を支配するシステムである。「こうしてはいけない」とか「こうしなければならない」という観念=制度が身体=行動を支配してゆくシステム。そうやって人間は、観念が身体を支配する生き方を覚えていった。
そうやって観念の優位性と独立性が自覚され、「霊魂」という概念が生まれてきた。
そうして、「死者と対話する」という心の動きが生まれてきた。それは、人類700万年の歴史の中の、わずか6、7千年前以降のことにすぎない。
しかし原始人は、「死者との対話」などしていなかった。あの山中教授のように。(続く)
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