内田樹という迷惑・愛とは検閲することであるのか

男は男らしく、女は女らしく・・・・・・この社会にはそういう「性規範」がある。
そこで内田氏は、「性規範」というのは、フェミニストが問題にするようなそんな単純なものじゃない、「愛」の問題や社会秩序の維持のためやら、もっと深く広い意味があるのだ、と言う。だから、性規範をなくせ、といってすむ問題ではない。性規範によってこそ人間たり得ている部分があるのだ、と。
何言ってやがる、セックスに恨みのあるやつにかぎって、性規範に執着する。セックスアピールによってではなく、性規範を心得ている知識や人格によって男と認められようと画策している。80のインポじじいじゃあるまいし。
「性」の自覚は性規範だけですむ問題じゃない、というフェミニストの主張は正しいのだ。
原初の森で直二足歩行をはじめた人類は、その姿勢によって、女は性器を「隠す」存在になり、男は性器を「晒す」存在になった。
それによって女は「見る」存在になり、男は「見られる」存在になった。そうして男は、「(女の性器を)見ようとする」欲望を抱き、すでに男の性器を見てしまっている女はそれを「検閲」する。
これは、社会的な「性規範」の問題じゃないでしょう。「性の自覚」は、ここからはじまっているのだ。
女が男および男の社会を「検閲」しようとすることは、「性規範」以前の根源的な問題であり、われわれはその態度を肯定するほかない。内田氏のごとき脳みその薄っぺらな学者に文句をいわれる筋合いではないのだ。われわれ男は、女に「検閲」されることを受け入れるしかないのだ。
男が「見ようとする」存在であるなら、女は先験的に「見ている」存在なのだ。
フェミニストの女の「検閲」する態度がけしからんとわめくのではなく、あなたたちはどのように「検閲」するのか、と問うしかないのだ。
正義ぶって「検閲」はけしからんということこそ浅はかで愚劣な態度であり、また女がそれを聞き入れるはずもないし、聞き入れなければならない義務も義理もないし、それこそが人間性の根源なのだ。
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われわれは、性規範によって「性化させられている」のではない。人間であることそれじたいの根源において、すでに「性化させられている」のだ。
フェミニストは「性規範」を拒否する。それに対して内田氏は、「性規範はフェミニストが言うような単に<男らしく><女らしく>といったわかりきった事態を指しているのでない。人間性の基礎として規定されているものなのだ」、と言う。つまりフェミニストは「無知による不自由さ」に陥っているのだ、と主張する。
そうだろうか。性規範などというものは、「男らしく」「女らしく」の幻想のことだ、と言っておけばすむだけの問題でしょう。フェルマンであろうとイリガライであろうとフェッタリーであろうと上野千鶴子であろうと、フェミニストたちは、もっと根源的なところで「女」であるとはどういうことかと問うている。
彼女らは、内田氏のように「性規範という囲い」に閉じ込められたところで男と女という問題を考えているのではない。内田さん、あなたの方が、ずっと無知で不自由なのですよ。そんなことばかり考えていると、ちんちんが立たなくなっちまいますよ。性規範ではちんちんは立たないのです。
性規範においては、男は「見つめる存在」であり、女は「見つめられる存在」である、ということになっている。しかし直立二足歩行の根源にまでたどれば、それによって性器を外に晒してしまった男こそ「見つめられる存在」であり、女は「(性器を)隠している存在」なのだ。
女は、見つめられてなんかいない。二本の足で立ち上がることによって、ちゃんと性器を隠して存在している。女こそ、男(ペニス)を見つめ、「検閲」している存在なのだ。
しかし「男らしく」「女らしく」という規範は、共同体が個人を「検閲」している。そしてその共同体が男社会として成り立っているのであるなら、それは、「検閲」する権利を男が所有していることと同義である。
フェミニストの女たちは、男に「検閲」されるなんて我慢がならない。その権利と本性はこちらがわにあるのだ、と主張する。性規範を否定するのなら、それはたぶん正しいのです。
そして、女に「検閲」されることに耐えられない内田氏のような男たちは、何とか性規範を守って「検閲」する権利を自分たちのもとに確保しておこうとする。
「女は何を欲望するか?」の中で内田氏は、フェッタリーの男を検閲する態度をさかんに非難するが、この本じたいがフェミニストの女を「検閲」しようとする欲望で書かれているのです。
暴言を承知であえていってしまうなら、「おまえなんぞは、女を口説くことばかりして、女に見つめられる(検閲される)ことのしんどさに耐えた経験がないのだろう」ということです。
女を「検閲」しようなんて、インポの男のすることです。女を「検閲」してばかりいるから、インポになっちまうのだ。いや、内田氏がそうだと言っているのではないですよ。そんなことは、僕のあずかり知らぬことだ。ただ、インポになるというのはそういうことだ、と言いたいだけです。
川端康成の「眠れる美女」という小説は、インポのじいさんたちに睡眠薬を飲まされて眠っている若い娘の体を「検閲」させてやるという売春宿の話です。セックスのポテンシャルを失ったものたちは、「美という規範」において性的欲望を果たそうとする。
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人間的な「性化」は、性規範が生まれる以前の、原初の人類が直立二足歩行をはじめたときからすでに存在している。内田氏が性規範の先まで思考できないのは、そういうレベルの直感がないからだろう。
しかしフェミニストたちは、そのことを直感している。
内田氏は、どこかで考えるまいとしている。それがなぜかは知らないが、その態度は安心ではあろうが、自由とはいえない。自由であるための不安を支払っていない。
女に検閲される(見つめられる)ことの居心地の悪さに耐えることのできない男は、女と一緒に暮らすことはできない。われわれは、十九二十歳で結婚を決意する男を尊敬する。それは、女に検閲されて生きることを引き受ける態度なのだ。
現在の若い男たちが結婚しなくなっているのは、彼らが女を検閲するばかりで、女から検閲されることに耐えられないからだろう。結婚して女と一緒に暮らすことは、女から検閲されて暮らすということだ。
結婚することは女を検閲し支配してゆくことだという幻想(性規範)は、もはや持つことができなくなっている。もうそんな性規範を取り戻そうとしても無駄なのだ。現代の若い男たちが結婚できるかどうかは、女から検閲されることを引き受けるかどうかにかかっている。
内田氏は、フェミニストの「検閲」する態度を徹底的に批判する。しかしその正義づらした言いざまこそ、みずからが女を「検閲」し支配しようとする態度にほかならない。
女は検閲し、男は検閲される・・・・・・人間存在におけるそのような男と女の関係というのはどうしてもあるのだと思う。それを引き受けることができるかどうか、とわれわれは今、問われ、試されている。セックスをするということはそういうことなのだから、それはもう引き受けるしかない。内田氏のように、女を値踏みするようなことばかり言っていたら、誰もがEDになってしまう。
膣の中にペニスをはめこむことは、ようするにペニスを検閲されることなのだ。