内田樹という迷惑・あきはばら3

彼は、人を殺したかった。
殺したら、どんなにかせいせいするだろう、と思った。
彼だけじゃない、この世の中には、そう思っている若者がたくさんいる。
だから、模倣犯が後を絶たないのだし、せめて「予告」することだけでもまねしようとしたりする。
実際に人を殺してしまう若者は少数でも、「殺してみたい」と空想している若者は無数にいる。そういう無数の若者の空想が彼に乗り移って、あの事件が起きたのだ。
「命の大切さを教えなければ」と大人たちが大合唱している世の中なのに、ですよ
「命の大切さ」ということがこれほど声高に叫ばれている時代も、かつてなかった。
もしかしたら、「命の大切さ」を叫ぶことそれじたいが、若者の「人を殺してみたい」という衝動を引き起こしているのかもしれない。
だって、そんなに大切なものなら、壊すことの快感も最高に高まるじゃないですか。
どうでもいいものを壊したって、面白くも何ともない。
現代人は、ものすごく「生」に執着している。人類の歴史でかつてないほど執着している。
内田氏など、その代表選手です。「自分が生きてあるという一瞬一瞬がどんなにいとおしいものであるかということを、私は誰よりも深く噛みしめている」と自慢する。
俗物のゲス野郎が、力いっぱい清らかぶっていやがる。
僕は、こういう言い方は、ものすごく卑猥だと思う。吐き気がするほど不潔な物言いだと思う。
われわれは、そこまで「自分」に執着なんかできない。死にたくはないけど、この胸のどこかしらで、いつだって自分にうんざりしている。
われわれは、内田氏のように自分に執着ばかりしている人間なんか信用しない。
「命の大切さ、いとおしさ」は、疑うことのできない真理であり価値であるのか。そんな答えなんか、人類はまだ出すことができていないんだぞ。よく考えてみろ。薄っぺらな脳みそで、何をかっこつけたことほざいていやがる。
そうやって「命の大切さ」を錦の御旗のように振りかざしてくる頭の薄っぺらな大人たちばかりの世の中だから、若者が、人を殺ししたらどんなにかせいせいするだろうと思ってしまうのだ。
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若者は「命の大切さ」を疑っている。純粋に誠実に疑っている。
秋葉原で事件を起こした彼は、誰よりも深くこの生に意味も価値もないことを実感していた。哲学者の観念ゲームよりも深く、獣のように生々しく実感していた。
青春なんて、おおむね鬱陶しいものだ。この社会に対する疑問や不信、恋の戸惑い、自分を持て余していつもイライラしている。そんな鬱陶しさと引き換えに、バカ騒ぎをしてはしゃいでいるだけのことだ。「命の大切さ、いとおしさ」なんか確めているひまもない。
大人たちは、若者の何倍も死ぬことを怖がっている。そのおびえきったいじましさから「命の大切さ、いとおしさ」というフレーズが出てくる。
内田氏はこう言う。「私は、自分の残りの人生をクリアーに想像することができる。したがって私は、誰よりも現在のこの生をいとおしみ、誰よりも深く<死への覚悟>ができている」と。
笑わせるんじゃない。「死への覚悟」ができているものが、「生のいとおしさ」に執着なんかするものか。人間は誰もが明日死んでしまうかもしれない可能性の中で生きているのであり、「死への覚悟」とは、いつ死んでもかまわないという覚悟のことだ。
十年二十年先の「死」を想像しているということは、とりあえず明日は死なないと安心しているだけのことだ。そののうてんきな思い込みが「死への覚悟」だなんて、ちゃんちゃらおかしいんだよ。
ほんとうに「死への覚悟」ができているのなら、「残りの人生を想像する」などというスケベ根性もさらりと捨ててみせろよ。
内田さん、あなたほど「死」におびえきって生きている人間もそうはいない、とわれわれは思う。
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若者とは、自分が今生きてあることにうんざりしている人種だ。だから、大人たちよりずっと「死への覚悟」ができている。だから、自殺できるのであり、人を殺してみたいとも思ってしまうのだ。
彼らが人を殺してしまうとき、ここまで来たらもういつ死んでもかまわない、という思いにうながされている。少なくとも殺してしまう瞬間は、きっとそういう思い(覚悟)を携えている。
みずからの生も他人の生も、みんなどうでもいいものだ、という感慨がある。
どうでもいいのに、社会的にはこの世でいちばん大切なものだという合意がある。つまりそれは、いちばん壊しがいがあるものだ、と彼は認識する。
大人たちがそんなことばかり言っていたら、そりゃあ殺したくもなりますよ。
大人たちが「命の大切さ」と言うとき、おまえらそんなにも死ぬことにびびっているのか、と見透かされているのですよ。
大人たちがそうやって自分たちのただの臆病やいじましさを正当化するようなことばかり言うから、若者が人を殺してみたい、と思ってしまうのだ。
内田さん、あなたのことですよ。ひといちばい死ぬことにびびっているくせに、かっこつけたことばかり言うんじゃないよ。あなたのような薄汚い根性をした大人ばかりの世の中になってしまっているから、若者が人を殺してみたいと思ってしまうのだ。
生きることに、意味も価値もあるものか。それでもわれわれは、死ぬのを怖がってしまう。歳をとればとるほど、大人になればなるほど、死ぬことが怖くなってゆく。
それはもう、認めるべきだ。われわれ大人は、若者よりもはるかに意地汚くこの生に執着している人種なのだ、その意地汚さで、鬱病になったりボケ老人になったりしているのだ。
鬱病やボケ老人を大量に抱えている大人社会の連中が「命の大切さ」を大合唱するなんて、とんだ茶番劇だ。
そんな世の中なんだもの、いくぶんかの鬱屈を抱えている若者なら、人を殺してみたくもなるさ。そして、いくぶんかの鬱屈を抱えていないのうてんきな若者など、いつの時代もめったにいないのだ。
「命の大切さ」などという意味や価値は、死ぬことの怖さの上にしか成り立たないのだ。
そして若者は、大人ほど死ぬことを怖がっていないということ、このことを大人たちは肝に銘じておく必要がある。
この社会の大人たちが生きることになんの価値も意味もないと認識したとき、そのとき初めて人を殺すことの意味も価値もなくなるのだ。
あなたたちがどんなに「命の大切さ」を訴えても、けっして若者には伝わらない。そんな論理は、あなたたち勝手な都合で捏造されているだけなのだ。
彼にとって、生きることになんの意味も価値もないと真実の実感は、人を殺すことによってしか共有できない。そのときはじめて彼は、殺された相手とその真実を共有する。
「たくさん殺せば死刑になれると思った」と土浦の連続殺人の犯人は供述している。それは、秋葉原の彼も同じでしょう。彼らは、この生に意味も価値もないことを他者と共有したかった。意味も価値もないことを証明したかった。
大人たちが、「たしかにこの生に意味も価値もないのに生んでしまってごめんなさい」という意識を多少なりとも持てば、彼らだって、人を殺してまでその真実を確認しようとは思わなかっただろう。
人を殺さないとこの生に意味も価値もないことが証明できないなんて、そんなの変ですよ。そんなこと、当たりまえじゃないですか。
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「どうして人を殺したらいけないのか」という若者の問いの切実さを、内田氏も養老先生もまるで分かっていない。あなたたちが納得していればそれでいいというものではないのですよ。そんなのあたりまえじゃないか、とあなたたちは気楽に言うが、若者は、どうしても引っかかってしまうのですよ。
養老先生は、「そんなことは戦火の中で生きるか死ぬかの日々を送っている人たちの問題であって、平和ボケしたこの日本にいてそんなしゃらくさいことを聞くな」という。しかしねえ、戦火の中で生きていれば、いちいちそんなことは問う必要がない。殺すしかないのだ。
平和な社会だからこそ、この生に対する疑問がめばえ、しかも「命の大切さ」などという薄気味悪い価値観を大合唱して押し付けられるから、そういう疑問も起きてくる。この社会が平和ボケしているからといって、個人の内面の問題がなくなったわけではないのですよ。平和な世の中だからこそ、疑いや悩みがより重くのしかかってくるということもあるのですよ。
殺していいか悪いかという問題ではない。どうして彼らはその問題に引っかかってしまうのか、と問うべきなのだ。そんなしゃらくさいことを聞くなというあなたたちこそよほどイメージ貧困で、さらには、若者という「他者」に対する誠実さがまるでないのだ。つまり内田氏お得意の「desenncy」というやつが。
平和だからこそ、若者の心の中に「殺したい」という衝動がくすぶっている。それは、「しゃらくさいこと聞くな」と言ってすませられる問題ではないのですよ、養老先生。すませられないということが、今回の秋葉原の事件でわかったでしょう。まだわからないとしたら、あなたこそそうとう平和ボケしている。
この生に意味も価値もないことなど当たりまえなのに、「命の大切さ」などというわけのわからないことを当然の正義のように振りかざしてくる。それこそ、平和ボケしたこの社会に生きていてそんなしゃらくさいことをほざくな、という話です。平和ボケした現代の大人たちの観念は、それほどにゆがんでしまっている、ということだ。
若者たちの「どうして自分はこの世界に生まれてきてしまったのか」というとまどいを、世の大人たちはなんと思っているのか。若者のこうした問いに、平和も戦火もないのですよ。若者とはもともとそういう人種であり、そういう若者に向かって「命の大切さ」などと、よくもそんな恩着せがましいことが言えるものだ。それこそ、平和ボケしている証拠じゃないか。少しは恥を知れよ。
勝手におまんこしてつくっておいてさ。