内田樹という迷惑・あきはばら4

「近傍と確からしさ」というハンドルネームの人からコメントをもらっていらい、自分はなぜ内田批判をこんなにもしつこく続けるのだろう、と考えてきました。
で、あんなあほと一緒にされたくないからだ、と言ってみたのですが、なぜそんな言い方をあえてするのかというと、つまり僕は、あの人が怖いのです。
僕の内田批判は、僕の悲鳴です。
現代というこの時代を生きて、われわれを追いつめている何かがある。われわれは、内田氏が体現するような「時代」から、内田氏のような大人から、誰もが追いつめられている。
内田氏の言説にしてやられて内田シンパになってしまう人たちだって、もしかしたら僕以上に内田氏から追いつめられてしまった人たちかもしれない。
僕の友人に、ちょっとした夏の熱中症が原因で、パニック症候群になってしまった男がいる。彼は内田氏の著書のファンで、彼自身半分内田氏と世界観を共有し、半分別の世界観に興味を持っている。もしかしたら、別の世界観の方が魅力的かもしれないとも思っている。だから、好きになる女も内田氏の言説とは対極の世界にいるようなタイプばかりだ。しかし内田氏のように考えた方が生きてゆくのには都合がいい。だから、内田氏と共有する世界観もどうしても手放せない。そんなふうに生きていてパニック症候群になり、立ち直るのにもずいぶん手間取ってしまった。
うまく生きてゆけるあいだは内田氏の言説はじつに有効だが、逆境に立って、はじめてそこから追いつめられていった。
内田氏の世界観では、逆境を味わい尽くす生き方ができない。でも、生きていれば誰もが何かしらの「逆境」に立たされる。熱中症だって、そのひとつです。「逆境」なんかなかったことにして生きてゆこうとするのが、内田氏の世界観です。たとえば自分が離婚したことだって、ほんとうは女に幻滅されただけのことなのに、そんな事実などなかったことにして世界を捏造しようとする。そうやって生きてゆければ都合がいいが、普通の人間は、自分が幻滅されたということを認め、幻滅されたという事実を味わおうとするものです。秋葉原の彼は誰よりもそれを深く味わい尽くしてしまったし、僕の友人だって熱中症になったときのパニックの記憶はそうかんたんに消せるものではなかった。それでも内田氏のような世界観で生きてゆこうとすれば、そういうほんらいの自分からどんどん追い詰められていってしまう。
生きていれば、誰もが何がしらの「逆境」に立たされてしまう。そうして内田氏は、逆境に立ったものを追いつめるようなことばかり言い立ててくる。内田氏のシンパになってしまったら、もう「逆境」を生きることができない人間になってしまう。
まるごと内田氏と同じ人種になってしまうことなんか、われわれには無理です。
われわれは「逆境」を味わい尽くそうとする感受性というか人間性を持ってしまっている。あんな薄っぺらで傲慢な人間には、われわれはなれない。
われわれの誰もが、内田氏をはじめとする「大人」という薄っぺらで傲慢な人種から追いつめられている。
秋葉原であんな事件を起こしてしまった若者を追いつめていたのも、「時代」であると同時に、じつは内田氏をはじめとする「大人」という人種が押し付けてくるその傲慢で薄っぺらな「思想」だったのだ。
今回僕は、あらためてそう思った。
僕は、内田氏が怖い。めちゃくちゃ気味悪い。
だから、内田批判がやめられない。
これは、僕の悲鳴です。
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内田樹氏の、あの精神の荒廃と麻痺は、いったいなんなのだろう。
それが、現代人が等しく負わされている心模様なのだろうか。
人間に対する考察なんて、彼が考えるレベルで手を打っておくのがいちばんいいのかもしれない。そうすれば、うまく生きてゆける。
思考を麻痺させながら、それでも哲学している気分にさせてくれる。そんな詐欺的な芸当は、誰にでもできるものじゃない。内田氏ならではのえげつない芸当です。
哲学する度胸もないやつが、哲学しているつもりになっていやがる。内田氏に対するそういう感想はあるのですけどね。でも、読者に罪はないわけで、そういう世の中であることは、受け入れるしかない。
僕は、「逆境」から、「逆境」に立っている人から学びたい。しかし、この世の多数派である精神が荒廃し麻痺した人たちと仲良くしなければ生きてゆけない。もちろん僕だってそんな多数派のひとりであり、そうやって自分の精神が荒廃し麻痺してゆくことがつらいからこそ、そうではない人から学ぼうとするのです。
だが、精神が荒廃し麻痺したものに必要なことは、「逆境」を味わい尽くそうとする人から学ぶことではなく、居直って自己正当化してゆくことだと内田氏は教えてくれる。私がその手本だ、という。たしかに、そうすればうまく生きてゆける。うまく生きてゆくためには、たぶんそれがもっとも有効な方法なのです。
女房に逃げられたくせに、自分が幻滅されたとはぜったいに認めない。その精神の麻痺と荒廃に、われわれはうんざりさせられるし、怖いとも思う。
しかし「逆境」に立ってそれを味わい尽くしている人から学んだって、それでうまく生きてゆけるわけではない。もっと生きにくくなるだけかもしれない。
必要なことは、真実ではなく、うまく生きてゆくことである。内田氏は、つねにそういうスタンスで発言している。必要なことは、清らかになることではなく、今のままの自分を清らかだと思い込むことである、と。
内田氏なんか、自分ほど清らかな人間はいないと平気で吹聴しまくっている。それはもうまぎれもなく精神の荒廃と麻痺の証しなのだけれど、この世の中そう思ったやつが勝ちだということも、確かなことにちがいない。
僕は、内田氏よりも、秋葉原で事件を起こしたあの若者のほうがずっと清らかで純潔だと思う。
内田氏なんてほんとに下司野郎だと思うのだけれど、しかしこの哀しい気分は、いったいなんなのでしょうか。敗北感でしょうか。
誰だって「逆境」を味わい尽くすことはできない。そこから逃れようとするし、味わうまいともする。
それでも避けがたく逆境を味わい尽くしている純潔な人がこの世の中にいるわけで、そういう人から学ぶということは、自分が純潔になることの不可能性を思い知ることです。僕が若者から学ぼうとしても若者にはなれないように、そういう不可能性(=敗北)を生きるしかないと受け入れることです。
そんなことをつらつら考えているとなんだか哀しくて、僕はもう、二重にも三重にも敗北している。
僕の内田批判は、僕の悲鳴です。恥ずかしながら、そういうことです。