内田樹という迷惑・高度な日本の劇画表現

日本の劇画は、外国に比べてなぜこんなにも高度で多彩で洗練されているのか。
絵がうまいからでは、もちろんない。
絵はむしろ、外国人のほうがうまい。とくに立体感などの表現においては、この国の劇画では、ずいぶん稚拙なものも多い。
それでも、日本の劇画表現は、外国人にはちょっとまねのできない「芸」がある。
内田氏はそれを、日本人独特の「感性」による、と言う。
で、その感性とはどんなものかというと、たとえば英語では、「イッツ・コールド」とか「アイ・フィール・コールド」とか、われわれからしたら余計とも思えるような「主語」を必ずくっ付ける。彼らの頭のはたらきは、論理が優先している。しかし日本人は感性的だから、つまり「右脳」のはたらきが活発だから、わざわざ「主語」なんか使わない。感性的に通じてしまう。それが、日本の劇画表現を高度なものにしている、というわけです。
ここまでは、まあいい。とりあえずはうなずけます。しかし、ここから内田氏は、突然気味の悪いことを言い出してくる。
そのように「感性=右脳人間」である日本人は、みずからの身体を「幽体離脱」して、外がわからみずからの身体を見ることのできる視線を持っているのだとか。
それが、日本的感性の真骨頂なのだそうです。
まったく、薄気味悪いナルシストが、何をくだらないことをほざいていやがる。
薄汚く自分に執着ばかりしているやつが、自分に執着して自分を見る視線こそ「日本的感性」だとほざいていやがる。
内田さん、われわれからしたら、あなたほどにほど「日本的感性」の欠落した人間もそうはいないと思うし、あなたに「日本的感性」の何がわかるか、と言いたいところです。
そんな視線は、ただの病理だし、外国人が持っていない視線だなんて、考えることが浅はか過ぎますよ。
そういう視線は、外国人のほうが確かに持っているのですよ。
それはつまり、自分を客観視する視線、ということでしょう。そういう対自的な「自我」のはたらきは、外国人こそ確かにそなえている。だから彼らは、自分を客観視して「主語」をくっ付けずにいられないのです。
たとえばですよ。「寒い」と言うとき、自分の身体が凍えているのか、外の空気が冷たいのか、彼らははっきりと区別している。だから、その「コールド」は「アイ」であるのか「イッツ」であるのか、あいまいにはできない。言わないと誤解が生じる。彼らはすでに身体を離脱して自分を眺める視線を持っているからこそ、その表現に「主語」が必要なのです。
幽体離脱」して自分を外から見る視線なんて、「左脳=観念」のはたらきによるのだ。
「イッツ・コールド」と言うとき、話者は「神」の視点に立っている。この世界を、客観視している。これが、英語の視点です。彼らは、「幽体離脱」して「神」の視点で世界を語ろうとする。
自分に執着するとは、ナルキッソスの神話が示すように、自分を外側から眺めている、ということです。内田氏なんか、他人にどう見られているのかということを気にしてばかりいるじゃないですか。そうして自分が他人になって、思い切り自分を賛美する。そんなスケベ根性が「日本的感性」だなんて、笑わせてくれる。
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日本人が「主語」を言わないのは、自分の「不在」において自分を認識しているからです。「不在」であるのが自分なのです。
西洋人が、自分の確かさを自覚しようとしているのに対して、日本人は自分が消えてゆく体験において自分と出会っている。
「わ(吾)」もしくは「われ」とは、語源的には「不在」という意味です。
「わ」は、「わあ」と驚いたりするように、息が全部抜けて体が空っぽになってしまうような心地の発声です。
「れ」は、「あれ」「これ」「それ」「だれ」というように、「方向」を示す語義です。
日本人にとっての「わ(れ)=自分」は消えてゆくものなのです。
日本人は、自分が消えてゆくことの浄化作用(カタルシス)を大事にする。
だから、主語を言わない。自分を外側から眺める視線を持っているからではない。そんなくだらないこじつけに、だれが説得されるものか。そんなものは、意地汚いナルシズム(自己執着)にすぎないと日本人は思っている。
西洋人にとって、「主語」とは「神」のことだ。
西洋人は、「神は存在するか」と、もう何千年も議論している。だからこそ彼らは、神の視点に立ちたがる。しかし日本人は、「すでに神と出会っている」と発想する。神道においては、「神は存在するか」という議論などされたためしがない。神は、存在しないことが存在することの証しなのだ。われわれの伝統的な感性は、その前提から出発している。そこに山があるということは、そこに神が秘匿されているということだ。そのように神の不在において神と出会っていることの自己の消失、これが日本的感性のタッチなのだ。
太陽のことをむかしは「日=ひ」といった。それは「秘匿する」の「ひ」であり、語源的には「隠されている」という意味なのです。夜や曇りや雨の日は、太陽が隠されている。隠されているときにこそわれわれは、より強く太陽を意識する。だから、太陽のことを「日=秘」といった。
闇の中では、「火(ひ)」がほしい、と思う。「火」もまた「秘」であり、真赤に燃えている炎のことではない。真赤に燃えている炎のことは、「ファイヤー」という。
火(ひ)の語源もまた、「ひっそり」の「ひ」にある。火があれば、火がほしいとは思わない、火があるところでは火のイメージは成り立たない。この国においては、「日」も「火」も、その「不在」においてイメージされていた。
おそらく、そういうタッチが、現代の劇画表現にも生きている。
僕はべつに劇画マニアでもないから、あまり具体的なことをあれこれ抽出して見せることはできないのだけれど、それがこの国独自の文化風土の上に成り立っていることは、なんとなくわかる。
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日本人は、神の視点に立たない。神と出会っている。日本人は、神の視点に立った「公共心」など持ち合わせていない。神と出会ってわれを忘れてしまうから、公共心がない。この、われを忘れてしまうタッチ、これが日本的感性なのだ。自分なんか見ていない。この世界のすべては、「不在」において認識される。
たとえば、木の葉の上にうなぎが這ったようなにょろにょろとした線を書けば、木の葉がはらはらと舞い落ちている表現になる。頭の上にマッチ棒のような短い線を二、三本ならべて置けば、はっと何かに気づいているようすに見えるし、禿げ頭が光っている表現にもなる。顔の横に汗の粒をひとつ描いて、困り果てていることを表す。こういうアクロバティックな表現は、たしかに感性的な「右脳」によるのでしょう。
そのときわれわれは、うなぎが這ったような線に木の葉が舞い落ちるようすを見ている。つまり、木の葉の「不在」に木の葉を見ている。こういう劇画独特のタッチは、探せばいくらでもあるはずです。「不在」においてよりヴィヴィッドにそのものを浮かび上がらせるタッチが、日本の劇画は抜群にうまい。
吹き出しの中に点々だけを並べておくなんて、日本の劇画だけだろうし、それがどんな説明よりも雄弁な効果を生むことを、日本人は知っている。
携帯の絵文字なども、おそらくそうした感性が生かされて賑わっている。
西洋の漫画の身体表現における、あのボリューム感や実在感は、「外」からの執拗な視線を持っている人種でなければ描けない。
それに対して日本人劇画家の描く身体は、井上雄彦だろうと「北斗の拳」だろうと、内臓を持たないたんなる「空間」のかたちにすぎない。すなわち「空間=不在」の身体です。しかしだからこそ、そこにファンタジックで玄妙な身体の動きや戦い方が表現されることになる。それは、「空間」になっている身体のかたちであり動きなのだ。
身体の早い動きに対する多様な線を使った体のぼかし方にしても、それは「身体」を表現しているというよりも、「空間」の裂け方の表現なのだ。身体が早く動くとは、空間が裂けるということだ。この感覚、内田氏にわかるかなあ。おそらくわかるまい。
そのとき西洋人は肉体としての「身体」を描こうとするが、日本人劇画家は、「空間」の裂け方を表現する。
日本人劇画家が描く身体の「不在性」、そういうことは、鈍くさい運動オンチである内田氏にはわからない。西洋かぶれして自分に執着してばかりいる内田氏には、ぜったいわからない。
日本的な右脳の感性が、幽体離脱して外側から自分を見る視線だなんてとんちんかんなことを言っているのだもの、わかるはずがないじゃないですか。