やまとことばという日本語・「艶(えん)なり」

内田樹氏は、若者に対するアドバイスや苦言がいろいろあるようだが、僕はそんなことができるような身分ではないし、そんな趣味も能力もありません。
ただ、「マスコミの寵児である知識人や社会的な権威を持った学者の言うことを鵜呑みにして何かがわかった気になっているなんてくだらない」、「自分の頭で考えろよ」、と若者も含めて一部の人たちに言いたい気持ちはあります。
ここで考えようとしているやまとことばの起源は、辞典に載っていることや権威ある学者の言うこととは、ちょっと違うはずです。それらは、参考にはなるが、そのままでは大いに不満です。
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「艶(えん)なり」は、美意識を表現する平安時代の王朝言葉だそうです。「源氏物語」などによく出てくるらしい。
「艶(えん)」はもともと大陸のことばだが、そのことばを受け入れていった当時の日本列島の人びとがどんなところに「艶(えん)」を感じていたかということは、大陸とはちょっと違っていたはずです。
人が「艶(えん)なり」というような言い方をしたくなる社会の構造(情況)をそれまで持っていなかっただけで、そういう心の動きを持っていなかったわけではない。花をめでる心の動きはもっていたが、めでるということそれ自体をあらわすことば(概念)を持っていなかった。
社会の構造が複雑になってくると、花をめでることで人と人がつながりあうことだけではすまなくなり、めでるということそれ自体を共有しようとする衝動が起きてくる。みんながセックスが好きならあの女が好きだこの女がいいという話だけで「セックス」ということばなど必要ないが、いや俺は金儲けのほうが好きだという人間も出てくると、「セックス」と「金儲け」をわける必要が起きてくる。
やまとことばは、共同体など存在しない社会で発達してしまったから、「艶(えん)なり」などという概念的なことばが少なかった。
概念的なことばが少なかったのは、ことばが未熟だったからではなく、概念的なことばを必要としないくらい成熟してしまっていたからです。
概念的なことばは、共同体の運営とともに発展してきた。しかしやまとことばは、本格的な共同体(国家)運営がはじまった6、7世紀ごろには、すでに成熟してしまっていたのです。その約5千年前から大陸ではすでに共同体運営の歴史をはじめていたのに、日本列島ではその間ずっと共同体(国家)を持たないままでことばの歴史を紡いできていたのです。
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「艶なり」ということばが入ってきたとき、支配者層においてすら、たがいの美意識を問いあうというような習慣はなかった。
平安朝のころになって、ようやく美意識というものを意識する人たちが支配者層の中にあらわれてきた。
そういうわけで、「艶(えん)なり」という言い方が新鮮な言語表現として輸入されていったのだが、ただ、「艶(えん)」の中身は違っていた。
「艶なり」という感慨がなかったわけではない。「艶なり」という美意識を問う習慣がなかっただけです。
人間が生きて暮らしているかぎり、「艶なり」という感慨は、いつの時代もどの地域にもある。
その、いったん平安王朝に生まれた「艶なり」ということばは、現在にはすでにない。
しかし「艶(えん)なり」が「かっこいい」とか「かわいい」とか「すてき」ということばに変わっても、「艶(えん)なり」という感慨は現代人も抱いている。それは、「艶なり」ということばが入ってくる前から「艶なり」という感慨だけはすでに持っていたのと同じです。
「艶(えん)なり」ということばが滅びても、そういう感慨は現代のばかギャルの中にだって残っている。彼女らが今どういうことばを使っているのかは知らないが、彼女らだってきっとそういう感慨のことばを持っているはずです。
ことばは滅びても、人の心の動きは、そうかんたんには滅びない。ことばが滅びるのは、人の心が滅びるからではなく、社会の構造が変わるからです。
ことばは、社会の構造によって決定されている。しかし、われわれが日本列島の住民であることから生まれてくる心の動きは、そうかんたんには滅びない。
彼女らが電車の中で一心不乱に化粧ができるのも、それはそれで、日本列島の住民であるという与件から生まれてくる心の動きなのだ。
日本列島の住民は、どんな小さな世界にも「ここが世界のすべてだ」と思い込んでしまう心の動きを持っている。そしてそこから、「かわいい」ということばが生まれてきた。
いや、人類の歴史において、ネアンデルタールが氷河期の極北の地に住み着いたことをはじめ、人類が地球の隅々まで拡散していったのは、どんな住みにくい土地でも「ここが世界のすべてだ」と思い定めて住み着いてゆく心の動きを人間の普遍性として持っているからだろう。
「艶(えん)なり」ということばだって、つまりは「ここが世界のすべてだ」と祝福してゆく人間存在としての心の動きから生まれてきた。
人間は、祝福する生きものである。ただそれは、殺してしまいたいくらい憎んだりうんざりしてしまう生きものである、ということと同義でもあるのだが。
「艶なり」と思う対象が時代や地域でさまざまであるように、愛そうが憎もうが、それはそれでどちらも「祝福する」という態度なのだ。
いずれにせよ人は、「艶(えん)なり」という心の動きを持っている。
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では、平安貴族たちは、どんなところに「艶(えん)なり」という感慨を持っていたのか。
中西進氏は、次のように解説してくれます。
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 また「えんなり」という王朝語も現代人にとっては理解すらむずかしくなった。これまた漢字にもどすと「艶」なのだが、いま艶といえばいたずらに色っぽいばかりではないか。しかし「源氏物語」では鹿の鳴き声も滝の音も、人の風情も掛け物も「えん」なのである。雪など艶っぽさとはほど遠いと思われるが、雪さえ、「艶なるたそがれ時」があり、中世の連歌師心敬(しんけい)にいたっては、「氷がいちばん艶だ」という。こうなると「えん」はたしかに「艶」なる漢語の翻案なのだが、この字義をこえた、ないしは字義が変容した内容をあえて使っていたと見られ、しいていえば中国語の「冷艶」をすべての「えん」の基本と考えていたように思われる。唐詩では梅の香りが「冷艶、まったく雪を欺き」と歌われるばあいである。この「艶なり」は、王朝語と考えてよい。となると王朝びとの優美なことばが今日消滅したかに見えるが、さて、ことばが消滅したのだろうか。
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「さて、ことばが消滅したのだろうか」という言い方は、前後の文脈から察するに、「ことばではなく心が消滅したのだ」ということらしい。
たとえばそのあと、現代人を批判してこんなふうにいっている。
「古いことばが一時期姿を見せて今は消えているのは、じつはことば自体が理由ではなく、使い手自身の変質によってもはやことばが使い手を失ったというべきであった。心の喪失が、ことばを<流行>のものとしたのである」と。
そうだろうか。われわれは、そうは思わない。人間の心の動きが、そうかんたんに変わるはずがない。
「社会の構造」が変わって使い方も変わっただけのことだ。
そのとき王朝びとは、「艶」という美のかたちを学んだのではない。「艶なり」という言い方を学んだけだ。
それまでの日本列島の住民は、「美意識」についてことさらのように言い交わす習慣がなかった。しかし共同体が成熟してきて、そういう会話をできることが王朝びとの資格のように考えられる風潮が生まれてきた。そういう「美意識」を語る姿勢として、「艶なり」という言い方が王朝の世界の広がっていった。
何が「艶」かは、中国から学ぶまでもなく、すでに日本列島にあった。
だから、中国の「冷艶」から学んだなんて、的外れもいいとこです。
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源氏物語のころの美意識といえば、代表的なものは「あはれ」でしょう。
「あはれ」の美意識とは、隠されているものに気づいてゆく心の動きのことです。
やまとことばを使う日本列島の住民には、「えん」という音声が「美」のイメージになるような心の動きはない。
中国語には「ん」の付くことばは無数にあるが、やまとことばにおいては、たとえば「行かむ」が「行かん」になまってゆくことはあっても、「ん」という音声そのものにはほとんど意味はない。
したがって、そのときの日本列島の住民にとっての「えん」は、「えむ」という音声がこぼれ出る感慨から来るイメージが連想されるだけだったはずです。
「え」は、「入り江」の「え」。水がたまっている海の入り口のこと。「え」の語義は、「たまる」ということにある。
「しゃべる前に「えー」というのは、しゃべろうとする心の用意を「ためる」ことです。
「得(え)る」ことも、「ためる」ことです。古代人はそれを「得(え)む」といった。
「えん」という発声は、もともと「いたずらに色っぽいばかりのこと」をイメージしてしまうような構造になっているのであり、時代を経た今日のわれわれが「えん」ということばをそのように取り扱ってしまうのは必然的なことであるはずです。われわれが「心を失った」のではない。やまとことばの心は、そのようにイメージしてしまうようにできているのだ。やまとことばを話す民族だからこそ、そのようにイメージしてしまうのだ。
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「艶」という字は、豊かな色、と書く。すなわち、色がたまっていることです。中国人は、変わらないで豊かにたまっているものに価値を見出す。それは今でもそうです。
しかし日本列島の住民は、変わってゆくものとか、隠されてあることやはかないものに「美」を見出してゆく。神は、「隠されてある」と思っていた。
源氏物語で「艶なり」といわれている「鹿の鳴き声」は、ひんやりとして人恋しさが募る秋風の風情を隠している。その、隠している風情を、王朝びとは「艶なり」といった。
「冷艶」、すなわち雪の冷たさを欺いて堂々と花盛りの姿を見せている梅の花の豊かさ艶っぽさのイメージをお手本にしているのではない。
そのとき王朝びとが「鹿の鳴き声」を「艶なり」といった美意識は、中国の「冷艶」という美意識とは全然関係のないことです。
「冷」という字がついているから、心敬の「氷がいちばん艶だ」という「あはれ」の美意識と通じているなんて、考えること安直すぎます。
心敬がそういったのは、氷は、中が丸見えの透明でありながらしかも水というものを隠しており、そうしてたちまち水になって溶けてゆくところなどははかなさの極致でもある、と思えたからでしょう。
滝の音は、それによってかえって人のいない山奥の静寂を隠しているのが感じられる。
雪は、大地を隠している。しかも一度に荒々しく隠してしまうのではなく、しんしんと降り積もって静かに覆い隠してゆく、その「あはれ」。
虫の声そのものが「艶」なのではない。外国人は、そんなものには何も感じない。日本列島の住民がそこに何かを感じるのは、その声の向こうに、夜の静けさや、夏から秋に季節が移ろいゆく気配が隠されていることに気づく心の動きをもっているからです。
そのとき王朝びとは、中国から「艶なり」という言い方を学んだが、「艶」という美意識を学んだわけではない。
したがってその「艶」ということばは、最初からいずれは消えてゆくほかない宿命を負っていたのです。
何も現代人が滅ぼしたのではない。
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「艶なり」ということばは、たぶん、武士の世になった鎌倉から室町にかけての時代に、すでに変質を余儀なくされていたはずです。
それは、「艶なり」という美意識を問う観念行為が、王朝びとだけのものでなく、日本列島の住民全体のレベルまで広がっていったことによるのでしょう。つまりそれが、選ばれた人たちのたんなる教養ではなく、誰もが一様にいだく心の動きになってゆけば、とうぜんやまとことばのタッチに変質してくる。
それが、「花なり」ということばです。
世阿弥が「秘すれば花なり」といったとき、その「花」は、たんなる植物の花だけではなく、「美」という概念として使われている。つまりそこで、「艶(えん)」ということばが「花(はな)」ということばに変容した。
「花」の「は」は、「はかない」の「は」、すなわち「あはれ」の「は」であり、能のコンセプトである「幽玄」という美意識を示す「は」でもある。そして「な」は、愛着の語義、すなわち美意識のこと。
そのときの日本列島の住民にはもう、「花なり」という言い方が、自分たちの心の動きに一番しっくり来る言い方だったのだ。
ここにいたって、「艶なり」という外来語が、日本列島の住民の心の動きそのままを表現する「花なり」という「やまとことば」になった。
そうしてこの「はななり」が現代にまで引き継がれ、京都地方の「はんなり」ということばになった。
「はんなり」の「ん」は、もしかしたら「えんなり」の「ん」の痕跡かもしれない。
つまり王朝びとが住む京都だけは「えんなり」と「はななり」がしばらく両立していて、そこから「はんなり」になっていったのかもしれない。
家の「離れ(別棟)」は、今では「離」という漢字そのままの意味しかなくなってしまったが、もともとは屋敷の中に隠されたとくべつな建物という意味で、「花なり」からきているという説もある。嘘かほんとか、今ではもう確かめようもないが、少なくともやまとことばの「はな」という音声には、そういう感慨がこめられている。
われわれは「はなれ」ということばに、避けがたくそういうニュアンスを持った建物をイメージしてしまう。
旅館の「はなれ」は、おおむね特別料金の、「花=美」をそなえたとくべつな隠された建物で、「小屋」や「コテージ」とは違う。
奥座敷といわないで「はなれ座敷」というとき、やっぱり「隠された」とか「とくべつな」という「花=はな」のイメージをともなっている。物理的には、離れてなんかいないのである。
日本人は、いちばん大事な部屋のことを「はなれ」というのです。
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中西氏がいうように、現代人が「艶なり」という美意識や心の動きを失っているなんて、われわれはぜんぜん思わない。
「艶」とは、もともと「いたずらに色っぽいばかり」のことをさすことばだったのだ。
中西氏は、現代人の「心の喪失」を嘆きつつ、「もう現代人では手の届かないほど高度な美意識を古典人が持っていて、それを<えんなり>といったとしか考えられない」というが、ようするに、そういう美意識はもう私のようなものにしかわからない、といいたいのだろうか。
現代人がすでにそういう心の動きを失っているのなら、古典なんかよみがえらせてもしょうがない。無駄なだけだ。
しかし、古代人のそういう心の動きが今なお引き継がれていると思えるからこそ、古代人から学んでゆくこともできるのだ。
俺が教えてやるなどというようなことばかりいっていないで、人びとに対して、あなたのその心の動きは「えんなり」という美意識ではないか、というところを掬い出して見せるということが、どうしてできないのか。
内田樹氏も、中西進氏も、良識人ぶったり高度な美意識の持ち主ぶったりして、「大衆を嘆く」ということばかりしている。その鼻持ちならないエリート意識が、僕は気に入らない。
たいした内容のことをいっているわけでもないのにさ。