内田樹氏が言っていることは、この社会のいわば「メインカルチャー」です。だから、多くの人に読まれている。みんな、おおよそ彼のように考えている。
それに対して僕が言ってることは、サブカルチャーあるいはカウンターカルチャーです。表面的には誰もそんなふうに考えていないようで、誰もがどこかしらでそう思っている。そういうことをさぐりたいのです。
カウンターカルチャーアイデンティティは、メインカルチャーよりも本質的根源的で、レベルが高いことにある。そうでなければ、そんなお騒がせなカルチャーなど必要ない。
このレポートが、はたしてそこまで行けるかが問題です。
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内田氏が、「結婚はエンドレスの不快であるが、それに耐えてしかるべきだけの意義がある」というというとき、彼は、結婚生活を捨てて去っていった女たちを否定し、男として恨んでいる。彼が今どんな華やかな暮らしをしていようと、こんな安っぽいことしかよう言わないということは、それはそれで、女を「正義」で支配しようとして生きてきた男のあわれな末路のように見えます。(どうして「あわれな末路」などという言葉を使うかと言うと、彼自身がニートやフリーターの若者のことを「自己実現の妄想に取り付かれた者のあわれな末路だ」と言っているからです)。
かれは、「愛」がどうとか、こうすればすてきな生き方ができるとか、こうすればすてきな社会になるとか、そんな「意義」のことばかり提唱する。
それは、一見善意の提言のようでいて、人生の「意義」に殉じることを拒否して「快楽」に身を持ち崩していった者たちをさげすみ、持ち崩さなかった者たちに対しては、どこかしらで爬虫類のような恨みがましい目を向けている。こんな生き方がすてきだ、と言うことは、そうじゃない生き方はすてきじゃない、愚かで間違っている、と言っているのと同じなのです。
内田氏の言うようなすてきな生き方ができなかった人は、それまでの自分の人生を、愚かで間違っていたとぜんぶ否定しなければならないのですか。それはもう、取り返しのつかない時間なのですよ。明日からすてきに生きればいいといわれても、明日死んでしまうかもしれないのですよ。明日も十年後も生きていると、いったい誰が保証してくれるのですか。
すてきな生き方などというものはない、と僕は思っている。誰の人生も、それが取り返しのつかないものだということにおいて、ぜんぶ肯定されてしかるべきだ。殺人鬼の人生だろうと、苦しく淋しいホームレスの人生だろうと、僕は肯定する。
楽しく生きているということは、苦しいという味わいを喪失しているということですよ。隣の芝生は青いというが、自分の知らないものを知っていることや、自分が体験したことのない体験しているのは、誰だってうらやましいでしょう。その女性が自分の女房よりずっとブスでも、自分の女房ではないということですてきに見えたり欲望を感じたりすることはあるでしょう。美人で気立てのいい奥さんを持っている男は浮気をしないとはかぎらないですよ。どんなに美人で気立てがよくても、長く一緒に暮らしていればうんざりしてしまうのが普通です。
すてきな生き方をしていればいいというものでもない、誰もがどこかしらで「自分以外の人生」にあこがれているし、誰も「自分以外の人生」を生きることはできない。
苦しいことなんか、誰だっていやですよ。だからそれは、多くは自分から望んだものではなく、しょうがなく体験させられることです。しょうがなく体験させられることだから、貴重なのです。誰でも体験できることじゃない。
すてきな生き方などというものはない。どんな生き方をしようと、けっきょくは自分の人生でしかないのであり、誰もがどこかしらで「自分以外の人生」を欲しがっている。
すてきな生き方をしている人は、すてきではない生き方に憧れ、すてきではない生き方をしている人は、すてきな生き方に憧れている。というか、すてきな生き方をしている人は、そうやってもっとすてきなもっとすてきなと際限がない。すてきな生き方の無間地獄にはまって、どこまでいっても「自分以外の人生」へと超出してゆくことができない。つまり、死ぬことができなくなってしまう、ということです。
ちゃんと死んでゆくことができる人生は、苦しい人生だけです。そしてそういう「嘆き」を持っているからこそ、世界は輝いて見える。世界一の美女の美しさをあげつらってどうちゃらこうちゃら吟味できる人間よりも、世界一のブスに欲望してしがみついてゆける男のほうが「世界は輝いている」というさまをずっと豊かに体験している。それはもう、そうなのです。すくなくともそのことにおいては、「悟り」も「すてきな人生」もくだらないだけです。
たくさん苦しんでいる人は、尊敬するべきです。かわいそうだと思う資格なんか、誰にもない。禅の坊主だろうと内田樹だろうと、薄っぺらな脳みそでくだらないこと言うんじゃないよ、と僕は思う。
人間は、人間であることの「嘆き」の上に「世界の輝き」を体験してゆくのだ。
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らくになればいい、悟ればいい、すてきな生き方ができればいい、というだけではすまない。生きてあることをどれだけ深く豊かに味わい尽くすか、という問題もある。だからわれわれは、より深く苦しんでいる人、悲しんでいる人を尊敬する。
病気になると、木や草花の自然がとても美しく見える、ということがよく言われます。それは、「美しい」という感動が「嘆き」の上に成り立っていることを意味する。
感動して「鳥肌が立った」という。鳥肌が立つなんて、寒いとか怖いときに起きる現象です。セックスのときの女は、つらそうに喘いでいる。そして病気になった人は、痛がったり苦しがったり不安になったり怖がったりしているから、自然が美しく見える。「感動する」とか「気持ちがいい」とか、そうやって「世界の輝き」を体験することは、身体が「処罰」される体験、すなわち「身体の危機」において体験される。
ペニスが膣の中に入ってきているなんて、「身体の危機」でしょう。しかも、激しく引っかきまわされているのです。
抱きしめあうことそれじたいが、他者の身体とのあいだに「空間」をつくろうとする本性を持った人間にとって、ひとつの「身体の危機」なのです。しかしそうやって身体を「処罰」して「危機」を体験するなかにこそ、「快楽」があり、人間としての「浄化作用(カタルシス)」がある。
人間にとって、セックスをすることもスポーツをすることも、身体を「処罰」する体験です。「処罰」して身体が消えてゆく体験として、快楽が汲み上げられてゆく。体のことを忘れて体が勝手に動いてしまったときに、「ナイスプレー」が生まれる。
人はみずからの身体を「処罰」しようとする衝動を持っているし、「処罰」されるかたちで快楽が生まれる。
誰だって、「らくになりたい」「幸せになりたい」と願いつつ、感動やときめきは、「身体の危機=嘆き」とともに体験している。
快楽とは、この生の「浄化作用(カタルシス)」のことです。
そういうことを考えるなら、「すてきな生き方」を止揚するだけが能でもなかろう、という話になる。
内田さん、あなたがそうやって「愛」だの「すてきな生き方」だの「正義」だのを止揚してゆけばゆくほど、あなたは「快楽」の根拠を喪失していっているのですよ。そうして、「苦しむ生き方」や「悲しむ生き方」を無神経に傲慢に否定しつづけているのであり、その低脳ぶりが、僕には耐えられないのですよ。
「快楽」は「処罰される身体」とともにあるのだ。
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